増鏡

増鏡

増鏡

増鏡

【出典作品】:増鏡
【さくひん】:ますかがみ
【作者編者】:ー
【さくしゃ】:ー
【成立時代】:室町
【出典紹介】:増鏡は、歴史物語です。成立は室町時代(南北朝)と推定されます。20巻からなり、寿永3年(1183年)の後鳥羽天皇の即位から、元弘3年(1333年)の後醍醐天皇が隠岐に流され京都に戻るまでの、15代150年の事跡を編年体で述べています。構成は、全体が三部に分かれています。第一部は後鳥羽院を中心で「おどろのした」から「藤衣」までです。第二部は後嵯峨院が中心で「三神山」から「千島」までです。第三部は後醍醐天皇の即位から隠岐配流・親政回復で「秋のみやま」から「月草の花」までです。歴史物語の大鏡・今鏡・水鏡・増鏡は、合わせて四鏡 (よんかがみ) と呼ばれ、隠者が狂言回しとなる形式で描かれています。四鏡の鏡は「歴史」を意味しており、文学史の問題でも頻出です。年代の早い順番で大今水増(だいこんみずまし)と暗記します。
【出題頻度】:B
【出題大学】:早稲田大学

増鏡 序

二月の中の五日は、鶴の林に薪尽きにし日なれば、かの如来二伝の御かたみのむつまじさに、嵯峨の清涼寺に詣でて、常在霊鷲山など心のうちに唱へて、拝み奉る。傍に、八十にもや余りぬらんと見ゆる尼ひとり、鳩の杖にかゝりて参れり。とばかりありて、「たけく思ひたちつれど、いと腰痛くて堪へ難し。今宵は、この局にうち休みなん。坊へ行きてみあかしの事などいへ」とて、具したる若き女房の、つきづきしき程なるをば、返しぬめり。

「釈迦牟尼仏」とたびつき申して、夕日の花やかにさし入りたるをうち見やりて、「あはれにも山の端近く傾きぬめる日かげかな。我身の上の心地こそすれ」とて、寄りゐたる気色、何となくなまめかしく、心あらんかしと見ゆれば、近く寄りて、「いづくより詣で給へるぞ。ありつる人の帰り来ん程、御伽せんはいかゞ」などいへば、「このわたり近く侍れど、年のつもりにや、いと遙けき心地し侍る、あはれになん」といふ。「さても、いくつにか成給ふらん」と問へば、「いさ。よくも我ながら思ひ給へわかれぬ程になん。百とせにもこよなく余り侍りぬらん。来し方行先、ためしも有り難かりし世の騒ぎにも、この御寺ばかりは、恙なくおはします。猶、やむごとなき如来の御光なりかし」などいふも、古代にみやびかなり。

年の程など聞くも、めづらしき心地して、かゝる人こそ昔物語もすなれと、思ひ出でられて、まめやかに語らひつゝ、「昔の事の聞かまほしきまゝに、年のつもりたらん人もがなと思ひ給ふるに、嬉しきわざかな。少しの給はせよ。おのづから古き歌など書き〔置き〕たる物の片はし見るだに、その世にあへる心地するぞかし」といへば、〔うち〕すげみたる口うちほゝゑみて、「いかでか聞えん。若かりし世に見聞き侍りし事は、こゝらの年比に、ぬばたまの夢ばかりだになくおぼほれて、何のわきまへか侍らん」とはいひながら、けしうはあらず、あへなんと思へる気色なれば、いよつきいひはやして、「かの雲林院の菩提講に参りあへりし翁の言の葉をこそ、仮名の日本紀にはすめれ。又かの世継が孫とかいひし、つくも髪の物語も、人のもてあつかひ草になれるは、御有様のやうなる人にこそ侍りけめ。猶の給へ」などすかせば、さは心得べかめれど、いよつき口すげみがちにて、「そのかみは、げに人の齢も高く機も強かりければ、それに従ひて、魂もあきらかにてや、しか聞えつくしけむ。あさましき身は、いたづらなる年のみ積もれるばかりにて、昨日今日といふばかりの事をだに、目も耳もおぼろになりにて侍れば、ましていと怪しきひが事どもにこそは侍らめ。そもさやうに御覧じ集めけるふる事どもは、いかにぞ」といふ。

「いさ。たゞおろつき見及びし物どもは、水鏡といふにや。神武天皇の御代より、いとあらゝかにしるせり。その次には、大鏡、文徳のいにしへより、後一条の御門まで侍りしにや。又世継とか、四十帖の草子にぞ、延喜より堀川の先帝までは少し細やかなる。又なにがしの大臣の書き給へると聞き侍りし今鏡には、後一条より高倉院までありしなめり。誠や、いや世継は、隆信朝臣の、後鳥羽院の御位の御程までをしるしたりとぞ見え侍りし。その後の事なん、いとおぼつかなくなりにける。おぼえ給へらむ所々までもの給へ。今宵誰も御伽せん。かゝる人に会ひ奉れるも、しかるべき御契あらん物ぞ」など語らへば、「そのかみの事は、いみじうたどつきしけれど、誠に事のつゞきを聞えざらんもおぼつかなかるべければ、たえづきに少しなん。ひが事ども多からんかし。そはさし直し給へ。いと傍いたきわざにも侍るべきかな。かの古き事どもには、なぞらへ給ふまじう〔ぞ〕なん」とて、

愚なる心や見えん増鏡古き姿に立ちは及ばで

とわなゝかし出でたるもにくからず、いと古代なり。「さらば、今の給はん事をも、また書きしるして、かの昔の面影にひとしからんとこそはおぼすめれ」といらへて、

今もまた昔を書けば増鏡ふりぬる代々の跡にかさねん

増鏡 1 おどろのした

1 おどろのした

御門始まり給ひてより八十二代にあたりて、後鳥羽院と申すおはしましき。御諱は尊成、これは高倉院第四の御子、御母は七条院と申しき。修理大夫信隆のぬしのむすめ也。高倉院御位の御時、后の宮の御方に、兵衛督の君とて仕うまつられし程に、忍びて御覧じはなたずや有けん、治承四年七月十五日に生まれさせ給ふ。その年の春の比、建礼門院后宮と聞えし御腹の第一の御子、安徳天皇 三に成給ふに位を譲りて、御門はおり給ひにしかば、平家の一族のみいよつき時の花をかざし添へて、花やかなりし世なれば、掲焉にももてなされ給はず。又の年、養和元年正月十四日に、院さへかくれさせ給ひにしかば、いよつき位などの御望みあるべくもおはしまさざりしを、かの新帝平家の人々にひかされて、遙かなる西の海にさすらへ給ひにし後、後白河法皇、御孫の宮たちわたし聞えて見奉り給ふ時、三の宮を次第のまゝに〔と〕思されけるに、法皇をいといたう嫌ひ奉りて、泣き給ひければ、「あなむつかし」とて、ゐてはなち給ひて、「四の宮こゝにいませ」との給ふに、やがて御膝の上に抱かれ奉りて、いとむつましげなる御気色なれば、「これこそ誠の孫におはしけれ。故院の児おひにも、まみなどおぼえ給へり。いとらうたし」とて、寿永二年八月二十日、御年四にて位につかせ給ひけり。内侍所・神璽・宝剣は、譲位の時必ず渡る事なれど、先帝筑紫に率ておはしにければ、こたみ初て三種の神器なくて、めづらしき例に成ぬべし。後にぞ内侍所・しるしの御箱ばかり帰のぼりにけれど、宝剣は遂に、先帝の海に入り給ふ時、御身に添へて沈み給ひけるこそ、いと口惜しけれ。かくて此御門、元暦元年七月二十八日御即位、その程の事、常のまゝなるべし。平家の人々、未だ筑紫にたゞよひて、先帝と聞ゆるも御兄なれば、かしこに伝へ聞く人々の心地、上下さこそはありけめと思ひやられて、いとかたじけなし。同年の十月二十五日に御禊、十一月十八日〔に〕大嘗会なり。主基方の御屏風の歌、兼光の中納言といふ人、丹波国長田村とかやを、

神世よりけふのためとや八束穂に長田の稲のしなひそめけむ

御門いとおよすけて賢くおはしませば、法皇もいみじううつくしとおぼさる。文治二年十二月一日、御書始めせさせ給ふ。御年七なり。同じ六年、女御参り給ふ。月輪関白殿の御女なり。后立ありき。後には宜秋門院と聞え給ひし御事なり。この御腹に、春花門院と聞え給ひし姫君ばかりおはしましき。建久元年正月三日、御年十一にて御元服し給ふ。

同じき三年三月十三日に、法皇かくれさせ給ひにし後は、御門ひとへに世をしろしめ〔し〕て、四方の海波靜かに、吹く風も枝を鳴らさず、世治まり民安くして、あまねき御うつくしびの浪、秋津島の外まで流れ、しげき御恵み、筑波山のかげよりも深し。よろづの道々に明らけくおはしませば、国に才ある人多く、昔に恥ぢぬ御代にぞ有ける。中にも、敷島の道なん、すぐれさせ給ひける。御歌かず知らず人の口にある中にも、

奥山のおどろの下も踏みわけて道ある世ぞと人に知らせん

と侍るこそ、まつり事大事と思されける程しるく聞こえて、いといみじくやむ事なくは侍れ。

建久九年正月十一日、第一の御子土御門院 四になり給ふに、御位譲り申させ給ひて、おり〔ゐ〕給ふ。御年十九。位におはしますこと十五年なりき。今日明日、二十ばかりの御齢にて、いとまだしかるべき御事なれども、よろづ所せき御有様よりは、中々やすらかに、御幸など御心のまゝならんとにや。世をしろしめす事は今もかはらねば、いとめでたし。鳥羽殿・白河殿なども修理せさせ給ひて、常に渡り住まはせ給へど、猶又水無瀬といふ所に、えもいはずおもしろき院づくりして、しばつき通ひおはしましつゝ、春秋の花紅葉につけても、御心ゆくかぎり世をひゞかして、遊びをのみぞし給ふ。所がらも、はるづきと川にのぞめる眺望、いとおもしろくなむ。元久の比、詩に歌を合はせられしにも、とりわきてこそは、

見渡せば山もとかすむ水無瀬川夕は秋と何思ひけむ

かやぶきの廊・渡殿など、はるづきと艶にをかしうせさせ給へり。御前の山より滝落とされたる石のたゝずまひ、苔深き深山木に枝にさしかはしたる庭の小松も、げにげに千世をこめたる霞の洞なり。前栽つくろはせ給へる比、人々あまた召して、御遊びなどありける後、定家の中納言、未だ下臈なりける時に、奉られける。

ありへけむもとの千年にふりもせで我君ちぎる峰の若松

君が代にせきいるゝ庭を行く水の岩こす数は千世も見えけり

今の御門の御諱は為仁と申しき。御母は能円法印といふ人のむすめ、宰相の君とて仕うまつれる程に、この御門生まれさせ給ひて後には、内大臣通親の御子になり給ひて、末には承明門院と聞えき。かの大臣の北方の腹にておはしければ、もとより〔は〕、後の親なるに、御幸さへひき出で給ひしかば、誠の御女にかはらず。この御門もやがてかの殿にぞ養ひ奉らせ給ひける。かくて、建久九年三月三日御即位、十月二十七日に御禊、十一月二十二日は例の大嘗会なり。元久二年正月三日御冠し給ひて、いとなまめかしくうつくしげにぞおはします。御本性も、父御門よりは、少しぬるくおはしましけれど、御情深う、物のあはれなど聞こし召しすぐさずぞありける。

今の摂政は、院の御時の関白基通の大臣。その後は後京極殿良経と聞え給ひし、いと久しくおはしき。此大臣はいみじき歌の聖にて、院の上同じ御心に、和歌の道をぞ申しおこなはせ給ひける。文治の比、千載集ありしかど、院未だきびはにおはしまししかばにや、御製も見えざめるを当帝位の御程に、又集めさせ給ふ。土御門の内の大臣の二郎君右衛門督通具といふ人をはじめにて、有家の三位・定家の中将・家隆・雅経などにの給はせて、昔より今までの歌を、ひろく集めらる。おのつき奉れる歌を、院の御前にて、身づからみがき整へさせ給ふさま、いとめづらしくおもしろし。この時も、さきに聞えつる摂政殿、とりもちて行なはせ給ふ。大かた、いにしへ奈良の御門の御代に、はじめて、左大臣橘朝臣勅をうけたまはりて、万葉集を撰びしよりこのかた、延喜のひじりの御時の古今集、友則・貫之・躬恒・忠岑。天暦のかしこかりし御代にも、一条摂政殿謙徳公、未だ蔵人少将など聞えけるころ、和歌所の別当とかやにて、梨壷の五人におほせられて、後撰集は集められけるとぞ、ひが聞きにや侍らん。その後、拾遺抄は、花山の法皇の身づから撰ばせ給へるとぞ。白川院位の御時は、後拾遺集、通俊治部卿うけたまはる。崇徳院の詞花集は、顕輔三位えらぶ。又、白川院おりゐさせ給ひて後、金葉集かさねて俊頼朝臣におほせて撰ばせ給ひしこそ、初め奏したりけるに、輔仁の親王の御なのりを書きたる。わろしとてなほされ、又奉れるにも、何事とかやありて、三度奏して後こそ納まりにけれ。かやうの例も、おのづからの事なり。をしなべて〔は〕、撰者のまゝにて侍るなれど、こたみは、院の上みづから、和歌浦に降り立ちあさらせ給へば、誠に心ことなるべし。

この撰集よりさきに、千五百番の歌合せさせ給ひしにも、すぐれたる限りを撰ばせ給ひて、その道の聖たち判じけるに、やがて院も加はらせ給ながら、猶このなみには立ち及び難しと卑下せさせ給ひて、判の言葉をばしるされず、御歌にて優り劣れる心ざしばかりをあらはし給へり。中々いと艶に侍りけり。上のその道を得給へれば、下もおのづから時を知る習にや、男も女も、この御世にあたりて、よき歌よみ多く聞え侍りし中に、宮内卿の君といひしは、村上の帝の御後に、俊房の左の大臣と聞えし人の御末なれば、はやうはあて人なれど、官あさくてうち続き、四位ばかりにて失せにし人の子也。まだいと若き齢にて、そこひもなく深き心ばへをのみ詠みしこそ、いと有り難く侍りけれ。この千五百番の歌合の時、院の上のたまふやう、「こたみは、みな世に許りたる古き道の者どもなり。宮内卿はまだしかるべけれども、けしうはあらずとみゆめればなん。かまへてまろが面起すばかり、よき歌つかうまつれ〔よ〕」とおほせらるゝに、面うち赤めて、涙ぐみて候ひけるけしき、限りなき好きの程も、あはれにぞ見えける。さてその御百首の歌、いづれもとりづきなる中に、

薄く濃き野辺のみどりの若草に跡まで見ゆる雪の村消え

草の緑の濃き薄き色にて、去年のふる雪の遅く疾く消ける程を、おしはかりたる心ばへなど、まだしからん人は、いと思ひ寄り難くや。この人、年つもるまであらましかば、げにいかばかり、目に見えぬ鬼神をも動かしなましに、若くて失せにし、いといとほしくあたらしくなん。かくて、この度撰ばれたるをば、新古今といふなり。元久二年三月二十六日、竟宴といふ事、春日殿にて行なはせ給ふ。いみじき世のひゞきなり。かの延喜の昔おぼしよそへられて、院の御製、

いそのかみ古きを今にならべこし昔の跡を又尋ねつゝ

摂政殿良経の大臣、

敷島の葉海にして拾ひし玉はみがかれにけり

次々、ずん流るめりしかど、さのみはうるさくてなん。何となく明暮れて、承元二年にもなりぬ。十二月二十五日、二宮御冠し給ふ。修明門院の御腹なり。この御子を、院かぎりなくかなしき物に思ひ聞えさせ給へれば、二なくきよらを尽し、いつくしうもてかしづき奉り給事なのめならず。終に同じ四年十一月に、御位につけ奉り給ふ。もとの御門、ことしこそ〔は〕十六にならせ給へば、未だ遙かなるべき御さかりに、かゝるを、いとあかずあはれと思されたり。永治のむかし、鳥羽法皇、崇徳院の御心もゆかぬにおろし聞えて、近衛院をすゑ奉り給ひし時は、御門いみじうしぶらせ給ひて、その夜になるまで、勅使を度々奉らせ給ひつゝ、内侍所・剣璽などをも渡しかねさせ給へりしぞかし。さてその御憤りの末にてこそ、保元の乱もひき出で給へりしを、この御門は、いとあてにおほどかなる御本性にて、思しむすぼほれぬにはあらねども、気色にも漏し給はず。世にもいとあえなき事に思ひ申しけり。承明門院などは、まいて、いと胸痛く思されけり。其年の十二月に、太上天皇の尊号あり。新院と聞ゆれば、父の御門をば、今は本院と申す。なを、御政事はかはらず。今の御門は十四にぞなり給ふ。御諱守成と聞えしにや。建暦二年十一月十三日、大嘗会なり。新院の御時も仕うまつられたりし資実の中納言に、この度も悠紀方の御屏風の歌めさる。長楽山、菅の根のながらの山の峯の松吹きくる風も万代の声かやうの事は、皆人のしろしめしたらん。こと新しく聞えなすこそ、老のひが事ならめ。この〔御〕世には、いと掲焉なる事おほく、所々の行幸しげく、好ましきさまなり。建保二年、春日社に行幸ありしこそ、有り難き程いどみつくし、おもしろうも侍りけれ。さてその又の年、御百首の御歌よませ給ひけるに、去年の事思しいでて、内の御製、

春日山こぞのやよひの花の香にそめし心は神ぞ知らん

御心ばへは、新院よりも少しかどめひて、あざやかにぞおはしましける。御才も、やまともろこし兼ねて、いとやむごとなくものし給ふ。朝夕の御いとなみは、和歌の道にてぞ侍りける。末の世に、八雲などいふ物つくらせ給へるも、この御門の御事なり。摂政殿のひめ君まいり給ひて、いと花やかにめでたし。この御腹に、建保二年十月十日、一の皇子生まれ給へり。いよつき物あひたる心地して、世の中ゆすりみちたり。十一月二十一日、やがて親王に成奉り給ひて、同じ二十六日、坊にゐ給ふ。未だ御五十日だにきこしめさぬに、いちはやき御もてなし、めづらかなり。心もとなく思されければなるべし。今一しほ、世の中めでたく、定まりはてぬるさまなめり。新院は、いでやと思さるらんかし。

かくて院の上は、ともすれば水無瀬殿にのみ渡らせ給ひて、琴笛の音につけ、花紅葉の折々にふれて、よろづの遊びわざをのみ尽くしつゝ、御心ゆくさまにて過ごさせ給ふ。誠に万世もつきすまじき御世の栄へ、次々今よりいと頼もしげにぞ見えさせ給ふ。御碁うたせ給ふついでに、若き殿上人ども召して、これかれ心のひきつきに、いどみ争はさせ給へば、あるは小弓・双六などいふ事まで、思ひ+に勝負をさうどきあへるも、いとおかしう御覧じて、様々の興ある賭物ども取う出させ給とて、なにがしの中将を御使ひにて、修明門院の御方へ、「何にても、男どもにたまはせぬべからん賭物」と申させ給ひたるに、とりあへず、小さき唐櫃の金物したるが、いと重らかなるを、参らせられたり。この御使ひの上人、何ならんと、いといぶかしくて、片端ほのあけて見るに銭なり。いと心得ずなりて、さと面うち赤みて、あさましと思へる気色しるきを、院御覧じおこして、「朝臣こそ、むげに口惜しくは有けれ。かばかりの事、知らぬやうやはある。いにしへより、殿上の賭弓といふことには、これをこそかけ物にはせしか。されば、今、かけ物と聞えたるに、これをしも出だされたるならむ、いにしへの事知り給へるこそ、いたきわざなれ」とほほゑみてのたまふに、「さはあしく思けり」と、心地騒ぎて思ゆべし。

大かた、この院の上は、よろづの事にいたり深く、御心も花やかに、物にくはしうぞおはしましける。夏の比、水無瀬殿の釣殿に出でさせ給ひて、氷水めして、水飯やうの物など、若き上達部・殿上人どもに賜はさせて、大御酒参るついでにも、「あはれ、いにしへの紫式部こそはいみじくはありけれ。かの源氏の物語にも、「近き川のあゆ、西川より奉れるいしぶしやうの物、御前に〔て〕調じて」と書けるなむ、すぐれてめでたきぞとよ。たゞ今さやうの料理仕〔う〕まつりてんや」などのたまふを、秦のなにがしと〔か〕いふ御随身、勾欄のもと近く候ひけるが、うけ給て、池のみぎはなる篠を少し敷きて、白き米を〔水に〕洗ひて奉れり。「拾はば消えなん」とにや。これもけしかるわざかな」とて、御衣ぬぎてかづけさせ給ふ。御かはらけ度々きこしめす。その道にも、いとはしたなく物し給ふ。何事もあいぎやうづき、めでたく見えさせ給ふ御ありさま、千年を経とも飽く世あるまじかめり。

また、清撰の御歌合とて、限りなくみがかせ給ひしも、水無瀬殿にての事なりしにや。当座の衆議判なれば、人々の心地、いとゞ置き所なかりけむかし。建保二年九月の比、すぐれたる限りぬき出で給ふめりしかば、いづれか愚ならん。中にもいみじかりしことは、第七番に、左、院の御歌、

明石潟浦ぢ晴れゆく朝なぎに霧にこぎ入るあまのつり舟

とありしに、北面の中に、藤原秀能とて、年比もこの道に許りたるすき物なれば、召し加へらるゝ事常の事なれど、やむ事なき人々の歌だにも、あるは一首二首三首には過ぎざりしに、この秀能九首まで召されて、しかも院の御かたてにまいれり。さてありつるあまのつり舟の御歌の右に、

ちぎりをきし山の木の葉の下紅葉そめし衣に秋風ぞ吹く

と詠めりしは、その身の上にとりて、長き世の面目、何かはあらん、とぞ聞侍りし。

昔の躬恒が、御階のもとに召されて、「弓はりとしもいふ事は」と奏して、御衣給しをこそ、いみじき事にはいひ伝ふめれ。又、貫之が家に、枇杷の大臣、魚袋の歌の返し、とぶらひにおはしたりしをも、道の高名とこそ、世継には書きて侍れ。近き頃は、西行法師ぞ北面の者にて、世にいみじき歌の聖なめりしが、今の代の秀能は、ほとつき古きにも立ちまさりてや侍らん。この度の御歌合、大かた、いづれとなくうちみだして、勝れたる限りを撰り出でさせ給ひしかば、各むらつきにぞ侍りける。吉水の僧正〔慈円〕と聞えし、又たぐひなき歌の聖にていましき。それだに四首ぞ入り給ひにける。さのみは事ながければもらしぬ。この僧正、世にもいと重く、山の座主にて物し給事も年久しかりしその程に、やむごとなき高名数知らずおはせしかば、あがめられ給さまも、二なく物し給ひしかど、猶、飽かず思す事やありけん。院に奉られける長歌、

さてもいかにわしのみ山の月のかげ鶴の林に入りしより経にける年をかぞふれば二千年をも過ぎはてて後のいつゝの百とせになりにけるこそかなしけれあはれ御法の水のあはの消え行ころになりぬればそれに心を澄ましてぞわが山川にしづみゆく心あらそふ法の師はわれも+と青柳のいとところせくみだれきて花ももみぢも散りゆけば木ずゑ跡なきみ山辺の道にまよひて過ぎながらひとり心をとゞむるもかひもなぎさの志賀の浦跡垂れましし日吉のや神のめぐみをたのめども人のねがひをみつかはの流れもあさくなりぬべしみねの聖のすみかさえこけの下にぞむもれゆくうちはらふべき人もがなあなうの花の世の中や春の夢路はむなしくて秋の木ずゑをおもふより冬の雪をもたれかとふかくてや今はあと絶えむと思ふからにくれはとり怪しき夜のわが思ひ消えぬばかりを頼みきて猶さりともと花の香にしゐて心をつくばやましげきなげきのねをたづねしづむむかしの魂をとひ救ふこゝろはふかくしてつとめ行こそあはれなれ深山のかねをつくづきとわが君が世をおもふにもみねの松かぜのどかにて千世に千とせをそふる程法のむしろの花のいろ野にも山にもにほいてぞ人をわたさむはしとしてしばし心をやすむべき遂にはいかゞあすか川あすより後やわが立ちし杣のたつきのひゞきよりみねのあさ霧晴れのきてくもらぬ空に立ち帰るべき

反歌

さりともとおもふ心ぞなを深き絶えで絶え行山川の水

定家の中将、おりふし御前に候)ひければ、これ返しせよとて、さし給はする、げに、いと疾く書きて、御覧ぜさせけり。

久かたの天地ともにかぎりなき天つ日つぎをちかひてし神もろともにまもれとて我たつ杣をいのりつゝむかしの人のしめてける峯の杉むら色かへずいく年々をへだつとも八重のしら雲ながめやる宮この春をとなりにて御法の花もおとろへずにほはん物と思ひをきし末葉の露もさだめなきかやが下葉にみだれつゝもとの心のそれならぬうきふししげき呉竹になく音をたつるうぐひすのふるすは雪にあらしつゝ跡絶えぬべき谷がくれこりつむなげき椎柴のしゐてむかしにかへされぬ葛のうら葉はうらむとも君は三笠の山たかみ雲井の空にまじりつゝ照日を世々に助けこし星の宿りをふりすててひとり出でにしわしのやまよにもまれなるあととめて深き流れにむすぶてふ法の清水のそこすみてにごれる世にもにごりなしぬまの葦間に影やどす秋の中半の月なればなを山の端をゆきめぐり空吹くかぜをあふぎてもむなしくなさぬ行すゑをみつの川なみ立ちかへり心のやみをはるくべき日吉の御かげのどかにて君をいのらんよろづよに千代をかさねて松が枝をつばさにならす鶴の子のゆづるよはひはわかの浦や今は玉もをかきつめてためしもなみにみがきをく我道までも絶えせずば言の葉ごとのいろつきに後みむ人も恋ひざらめかも

反歌

君を祈る心深くば頼むらん絶えてはさらに山川の水

新院も、のどかにおはしますまゝに〔は〕、御歌をのみ詠ませ給へど、よろづの事、もて出でぬ御本性にて、人々など集めて、わざとあるさまには好ませ給はず。建保の比、うちつき百首御歌よみ給へりしを、家隆の三位、又定家の治部卿のもとなどへ、いふかひなき児の詠めるとて、つかはして見せ給ひしに、いづれもめでたく様々なる中に、懐旧の御歌に、

秋の色を送り迎へて雲の上になれにし月も物わすれすな

とある所に、定家の君おどろきかしこまりて、裏書に、「あさましくはかられ奉りける事」などしるして、

あかざりし月もさこそは思ふらめ古き涙も忘られぬ世を

と奏せられたり。院もえんありて御覧ずべし。げにいかゞ御心〔も〕動かずしもおはしまさむと、その世の事かたじけなくなむ。今も少し、世の中隔たれるさまにてのみおはしますこそ、いといとほしき御有様なめれとぞ。

増鏡 2 新島守

2 新島守

たけき武士の起こりを尋ぬれば、いにしへ田村、利仁などいひけん将軍どもの事は、耳遠ければさしおきぬ。そのかみより今まで、源平の二流れぞ、時により折に従ひて、おほやけの御守りとはなりにける。桓武天皇と聞えし御門をば、柏原の御門とも申しけり。その御子に式部卿の親王と聞えしより五代の末に、平将軍貞盛といふ人、維衡・維時とて、二人の子をもたりけり。間近く栄へし西八条の清盛の大臣は、かの太郎維衡より六代の末なりき。その一門亡びしかば、この頃は、僅にあるかなきかにぞ、さまよふめる。さてかの維時が名残は、ひたすらに民と成りて、平四郎時政といふ者のみぞ、伊豆の国北条の郡とかやにあめる。それも維時には六代の末なるべし。

又源氏武者といふも、清和の御門、あるは宇多院などの御後どもなり。二条院の御時、平治の乱に、伊豆の国蛭が小島へ流されし兵衛佐頼朝は、清和の御門より八代の流れに、六条判官為義といひし者の孫なり。左馬頭義朝が三男になむありける。西八条の入道大臣、やうゝ栄花衰へんとて、後白河院をなやまし奉りしかば、安からず思ほされて、かの頼朝を召し出でて、軍を起し給ひしに、しかるべき時や至りけむ、平家の人々は、寿永の秋の木枯しに散りはてて、遂にわたつ海の底のもくづと沈みにし後、頼朝いよゝ権をほどこして、さらに君の御後見を仕うまつる。相模の国鎌倉の里といふ所に居りながら、世をばたなごころの中に思ひき。みな人知り給へることなれば、いまさらに申すも中々なれど、院の上、位につかせ給ひしはじめより、世のかためと成りて、文治元年四月、二の階をのぼりしも、八島の内の大臣宗盛を生捕りの賞と聞ゆ。建久の初めつかた、都にのぼる。その勢ひのいかめしき事、いへばさらなり。道すがら遊びものどもまゐる。遠江の国橋本の宿に著きたるに、例の遊女、多くえもいはず装束きてまゐれり。頼朝うちほほゑみて、

橋本の君になにをか渡すべき

といへば、梶原平三影時といふ武士、とりあへず、

ただ杣山のくれであらばや

いとあいだてなしや。馬鞍こんくくり物など運び出でてひけば、喜びさわぐ事かぎりなし。

その年の十一月九日、権大納言になされて、右近大将を兼たり。十二月の一日ごろ、よろこび申して、おなじき四日、やがて官をば返し奉る。この時ぞ、諸国の総追捕使といふ事承りて、地頭職に、我が家の兵どもをなし集めけり。此日本国の衰ふる初めは、これよりなるべし。さて東に帰りくだるころ、上下色々のぬさ多かりし中に、年頃も祈りなどし給ひし吉水僧正、かの長歌の座主、のたまひつかはしける。

あづまぢのかたに勿来の関の名は君を都に住めとなりけり

御返し、頼朝、

みやこには君に相坂近ければ勿来の関は遠きとを知れ

その後も、又上りて、東大寺の供養に詣でたりき。〔かくて〕新院の御位のはじめつかた、正治元年正月十一日、東にて頭おろして、おなじき十三日、年五十三にてかくれにけり。治承四年より天の下に用ゐられて、二十年ばかりや過ぎぬらん。

北の方は、さきに聞えつる北条四郎時政が女なり。その腹に男二人あり。太郎をば頼家といふ。弟をば実朝と聞ゆ。大将かくれて後、兄はやがてたち継ぎて、建仁元年六月二十二日従三位、おなじ日、将軍の宣旨を賜はる。又の年、左衛門督になさる。かかれども、すこしおちゐぬ心ばへなどありて、やうゝ兵どもそむきそむきにぞなりにける。時政は遠江守といひて、故大将のありし時より私の後見なりしを、まいて今は孫の世なれば、いよゝ身重く勢ひそふ事かぎりなく、うけばりたるさまなり。子〔二人〕あり。太郎は宗時、次郎は義時といへり。次郎は心もたけく魂まされるものにて、左衛門督をばふさはしからず思ひて、弟の実朝の君につき従ひて、思ひかまふる事などもありけり。督は、日にそへて人にもそむけられゆくに、いといみじき病をさへして、建仁三年九月十六日、年二十二にて頭おろす。世中残りおほく、何事もあたらしかるべき程なれば、さこそ口惜しかりけめ。幼き子の一万といふにぞ、世をば譲りけれど、うけひく者なし。入道は、かの病つくろはんとて、鎌倉より伊豆の国へ出で湯あびに越たりける程に、かしこの修善寺といふところにて、遂に討たれぬ。一万もやがて失はれけり。これは、実朝と義時と、一つ心にてたばかりけるなるべし。

さて、今はひとへに、実朝、故大将の跡をうけつぎて、官・位とどこほる事なく、よろづ心のままなり。建保元年二月二十七日、正二位せしは、閑院の内裏つくれる賞とぞ聞き侍りし。おなじ六年、権大納言になりて、左大将をかねたり。左馬寮をさへぞつけられける。その年やがて内大臣になりても、猶大将もとのままなり。父にもやや立まさりていみじかりき。この大臣は、大かた、心ばへうるはしく、たけくもやさしくも、よろづめやすければ、ことわりにも過ぎて、武士のなびき従ふさまも父にも越えたり。いかなる時にかありけむ、

山はさけ海はあせなん世なりとも君に二心わがあらめやも

とぞよみける。時政は建保三年にかくれにしかば、義時は跡をつぎけり。故左衛門督の子にて公暁といふ大徳あり。親の討たれにし事を、いかでか安き心あらん。いかならむ時にかとのみ思ひわたるに、この内大臣、又右大臣にあがりて、大饗など、めづらしく東にて行なふ。京より尊者をはじめ上達部・殿上人多くとぶらひいましけり。さて、鎌倉に移し奉れる八幡の御社に、神拝にまうづる、いといかめしきひびきなれば、国々の武士はさらにもいはず、都の人々も扈従し〔たり〕けり。たち騒ぎののしる者、見る人も多かる中に、かの大徳、うちまぎれて、女のまねをして、白き薄衣ひき折り、大臣の車より降るる程を、さしのぞくやうにぞ見えける。あやまたず首をうちおとしぬ。その程のどよみいみじさ、思ひやりぬべし。かくいふは、承久元年正月二十七日なり。そこらつどひ集まれる者ども、ただあきれたるよりほかの事なし。京にも聞しめしおどろく。世中火を消ちたるさまなり。扈従に西園寺の宰相中将実氏も下り給ひき。さならぬ人々も、泣くゝ袖をしぼりてぞ上りける。

いまだ子もなければ、たち継ぐべき人もなし。事しづまりなん程とて、故大臣の母北の方二位殿政子といふ人、二人の子をも失ひて、涙ほす間もなく、しをれ過ぐすをぞ、将軍に用ゐける。かくてもさのみはいかがにて、「君だち一所下し聞えて、将軍になし奉らせ給へ」と、公経の大臣に申しのぼせければ、あへなんと思すところに、九条左大臣殿の上は、この大臣の御女なり。その御腹の若君の、二つになり給ふを、下し聞えんと、九条殿のたまへば、御孫ならんもおなじことと思して、定め給ひぬ。

その年の六月に、東に率て奉る。七月十九日におはしましつきぬ。むつきのうちの御有さまは、ただ形代などを祝ひたらんやうにて、よろづの事、さながら右京権大夫義時朝臣心のままなり。されど、一の人の御子の将軍に成り給へるは、これぞ初めなるべき。かの平家の亡ぶべき世の末に、人の夢に、「頼朝が後は、その御太刀あづかるべし」と、春日大明神おほせられけるは、この今の若君の御事にこそありけめ。

かくて世をなびかししたため行なふ事も、ほとゝ古きには越えたり。まめやかにめざましき事も多く成りゆくに、院の上、忍びて思したつ事などあるべし。近く仕うまつる上達部・殿上人、まいて北面の下臈・西面などいふも、みなこのかたにほのめきたるは、あけくれ弓矢兵仗のいとなみより外の事なし。剣などを御覧じ知事さへ、いかで習はせ給ひたるにか、道の者にもややたちまさりて、かしこくおはしませば、御前にてよきあしきなど定めさせ給ふ。

かやうのまぎれにて、承久も三年になりぬ。四月二十日、御門降りさせ給ふ。春宮四にならせ給ふに譲り申させ給ふ。近頃、みなこの御齢にて受禅ありつれば、これもめでたき御行末ならんかし。おなじき二十三日、院号の定めありて、今降りさせ給へるを、新院と聞ゆれば、御兄の院をば中の院と申し、父御門をば本院とぞ聞えさする。この程は、家実の大臣〈 普賢寺殿の御子 〉関白にておはしつれど、御譲位の時、左大臣道家の大臣〈 光明峯寺殿 〉、摂政になり給ふ。かの東の若君の御父なり。

さても院の思し構ふる事、忍ぶとすれど、やうゝもれ聞えて、東ざまにも、その心づかひすべかんめり。あづまの代官にて伊賀判官光季といふ者あり。かつゞかれを御勘事の由おほせらるれば、御方に参る兵どもおしよせたるに、逃がるべきやうなくて、腹切りてけり。まづいとめでたしとぞ、院は思しめしける。

東にも、いみじうあわて騒ぐ。「さるべくて身の失すべき時にこそあんなれ」と思ふ物から、「討手の攻め来たりなん時に、はかなき様にてかばねをさらさじ、おほやけと聞ゆとも、身づからし給ふ事ならねば、かつ我身の宿世をも見るばかり」と思ひなりて、弟の時房と泰時といふ一男と、二人をかしらとして、雲霞のつはものをたなびかせて、都にのぼす。泰時を前にすゑていふやう、「おのれをこの度都に参らする事は、思ふところ多し。本意のごとく清き死をすべし。人に後ろを見えなんには、親の顔、又見るべからず。今を限りとおもへ。いやしけれども、義時、君の御ために後ろめたき心やはある。されば、横ざまの死をせん事はあるべからず。心をたけく思へ。おのれうち勝つものならば、二たびこの足柄・箱根山は越ゆべし」など、泣くゝいひきかす。「まことにしかなり。又親の顔拝む事もいとあやうし」と思ひて、泰時も鎧の袖をしぼる。かたみに今や限りにあはれに心ぼそげなり。

かくてうち出でぬる又の日、思ひかけぬ程に、泰時ただひとり、鞭をあげて馳せきたり。父、胸うちさわぎて、「いかに」と問ふに、「いくさのあるべきやう、大かたのおきてなどをば、仰のごとくその心をえ侍りぬ。もし道のほとりにも、はからざるに、かたじけなく鳳輦を先だてて、御旗をあげられ、臨幸の厳重なる事も侍らんに参りあへらば、その時の進退、いかが侍るべからん。この一事をたづね申さんとて、ひとり馳せ侍りき」といふ。義時、とばかりうち案じて、「かしこくも問へるをのこかな。その事なり。まさに君の御輿に向ひて弓を引くことは、いかがあらん。さばかりの時は、かぶとをぬぎ弓の弦を切りて、ひとへにかしこまりを申して、身をまかせ奉るべし。さはあらで、君は都におはしましながら、軍兵を賜はせば、命を捨てて千人が一人になるまでも戦ふべし」と、いひもはてぬに急ぎ立ちにけり。

都にも思しまうけつる事なれば、武士ども召しつどへ、宇治・勢多の橋もひかせて、敵を防ぐべき用意、心ことなり。公経の大将ひとりのみなむ、御孫のこともさる事にて、北の方、一条の中納言能保といふ人の女なり。其母北の方は、故大将のはらからなれば、一かたならず東を重くおぼして、さしいらへもせず、院の御心の軽き事と、あぶながり給ふ。七条院の御ゆかりの殿原、坊門大納言忠信・尾張中将清経・中御門大納言宗家、又修明門院の御はらからの甲斐の宰相中将範茂など、つぎゝあまた聞ゆれど、さのみはしるしがたし。軍に交じりたつ人々、このほかの上達部にも殿上人にも、あまたありき。

御修法ども数知らず行なはる。やんごとなき顕密の高僧も、かかる時こそ頼もしきわざならめ。おのゝ心を致して仕うまつる。御身づからもいみじう念ぜさせ給ふ。日吉の社に忍びて詣でさせ給へり。大宮の御前に、夜もすがら御念誦し給ひて、御心のうちに、いかめしき願ども立てさせ給ふ。夜すこし深けしづまりて、御社すごく、燈篭の光かすかなる程に、をさなき童の臥したりけるが、にはかにおびえあがりて、院の御前にただまゐりに走りまゐりて、託宣しけり。「かたじけなくもかく渡りおはしまして、愁へ給へば、聞き過ごしがたくは侍れど、一とせの御輿振りの時、情けなく防がせ給ひしかば、衆徒おのれを恨みて、陣のほとりにふり捨て侍りしかば、空しく馬牛のひづめにかかりし事は、いまに怨めしく思ひ給ふるにより、この度の御方人は、え仕うまつり侍るまじ。七社の神殿を、金銀にみがきなさんと承るも、もはら受け侍らぬなり」とののしりて、息も絶えぬるさまに臥しぬ。きこしめす御心地、物に似ずあさましう思さるるに、ただ御涙のみぞ出でくる。過にしかた悔しう取り返さまほし。さまゞおこたりかしこまり申させ給ふ。山の御輿防き奉りけん事、かならずしも身づから思しよるにもあらざりけめど、「責め一人に」といふらん事にやと、あぢきなし。中院は、あかで位をすべり給ひしより、言に出でてこそ物し給はねど、世のいと心やましきままに、かやうの御騒ぎにも、ことにまじらせ給はざめり。新院は、おなじ御心にて、よろづ軍の事などもおきておほせられたり。

いつの年よりも五月雨晴れ間なくて、富士川・天龍など、えもいはずみなぎりさわぎて、いかなる龍馬もうち渡しがたければ、攻め上る武者どもも、あやしくなやめり。かかれども、遂に都に近づく由、聞ゆれば、君の御武者も出でたつ。其勢ひ、六万余騎とかや。宇治・勢多へ分かちつかはす。世の中響きののしるさま、言の葉も及ばずまねびがたし。あるは、深き山へ逃げこもり、遠き世界に落ちくだり、すべて安げなく騒ぎみちたり。「いかがあらん」と君も御心乱れて思しまどふ。かねては猛く見えし人々も、まことのきはになりぬれば、いと心あわただしく、色を失ひたるさまども、頼もしげなし。六月十日あまりにや、いくばくの戦ひだになくて、遂にみかたの軍やぶれぬ。荒磯に高潮などのさし来るやうにて、泰時と時房と、乱れ入りぬれば、いはんかたなくあきれて、上下ただ物にぞあたりまどふ。

東よりいひおこするままに、かの二人の大将軍はからひおきてつつ、保元の例にや、院の上、都の外に移し奉るべしと聞ゆれば、女院・宮々、所々に思しまどふ事さらなり。本院は隠岐の国におはしますべければ、先鳥羽殿へ、網代車のあやしげなるにて、六月六日入らせ給ふ。今日を限りの御ありき、あさましうあはれなり。「物にもがなや」と思さるるもかひなし。その日やがて御髪おろす。御年四十に一二やあまらせ給ふらん。まだいとほしかるべき御程なり。信実の朝臣召して、御姿うつしかかせらる。七条院へ奉らせ給はんとなり。かくて、おなじき十三日に御船に奉りて、給ふ。遙かなる浪路をしのぎおはします御心地、この世のおなじ御身ともおぼされず。いみじう、いかなりける代々の報ひにかとうらめし。

新院も佐渡国に移らせ給ふ。まことや七月九日、御門をもおろし奉りき。この卯月かとよ、御譲位とてめでたかりしに、夢のやうなり。七十余日にて降り給へるためしも、これや初めなるらん。もろこしにぞ、四十五日とかや位におはする例ありけるとぞ、唐の書読みし人のいひし心地する。それもかやうの乱れやありけん。さて上達部・殿上人、それより下はた残るなく、この事にふれにし類は、重く軽く罪にあたるさま、いみじげなり。

中の院は初めより知しめさぬ事なれば、東にもとがめ申さねど、父の院、遙かにうつらせ給ひぬるに、のどかにて都にてあらん事、いと恐れありと思されて、御心もて、その年閏十月十日、土佐国の幡多といふ所にわたらせ給ひぬ。去年の二月ばかりにや、若宮いでき給へり。承明門院の御兄に、通宗の宰相中将とて、若くて失せ給ひし人の女の御腹なり。やがて、かの宰相の弟に、通方といふ人の家にとどめ奉り給ひて、近くさぶらひける北面の下臈一人、召次などばかりぞ、御供仕りける。いとあやしき御手輿にて下らせ給ふ。道すがら雪かきくらし風吹き荒れふぶきして、来しかた行くさきも見えず、いと堪へがたきに、御袖もいたく氷りて、わりなき事多かるに、

うき世にはかかれとてこそ生まれけめことわり知らぬ我涙かな

せめて近き程にと、東より奏したりければ、後には阿波の国に移らせ給ひにき。

さても、このたび世のありさま、げにいとうたて口惜しきわざなり。あるは、父の王を失ふためしだに、一万八千人までありけりとこそ、仏も説き給ひためれ。まして、世下りて後、唐土にも日の本にも、国を争ひて戦ひをなす事、数へ尽くすべからず。それもみな、一ふし二ふしのよせはありけむ。もしは、すぢ異なる大臣、さらでも、おほやけともなるべききざみの、すこしの違ひめに、世に隔たりて、その怨みの末などより、事起こるなりけり。今のやうに、むげの民と争ひて、君の亡び給へるためし、この国には、いとあまたも聞えざめり。されば、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、いづれもみな猛かりけれど、宣旨には勝たざりき。保元に崇徳院の世を乱り給ひしだに、故院〈 後白河 〉の、御位にてうち勝ち給ひしかば、天照大神も、御裳濯川のおなじ流れと申しながら、猶、時の御門をまもり給はする事は、強きなめりとぞ、古き人々も聞えし。又、信頼の衛門督、おほけなく二条院をおびやかし奉りしも、遂に、空しきかばねをぞ、道のほとりに捨てられける。かかれば、ふりにし事を思ふにも、猶さりとも、いかでか上皇今上あまたおはします王城の、いたづらに亡ぶるやうやはあらんと、頼もしくこそ覚えしに、かくいとあやなきわざの出で来ぬるは、この世ひとつの事にもあらざらめども、迷ひの愚かなる前には、猶いとあやしかりし。

四にて位につき給ひて、十五年おはしましき。降り給ひて後も、土佐院十二年・佐渡院十一年、猶天の下は同じ事なりしかば、すべて卅八年が程、この国のあるじとして、万機の政を御心ひとつにをさめ、百の官を従へ給へりしその程、吹風の草木をなびかすよりも優れる御ありさまにて、遠きをあはれび、近きを撫で給ふ御めぐみ、雨のあしよりもしげければ、津の国のこやのひまなきまつり事をきこしめすにも、難波の葦の乱れざらん事をおぼしき。藐姑射の山の峯の松も、やうゝ枝をつらねて、千世に八千世をかさね、霞の洞の御すまひ、いく春をへても、空行く月日の限り知らずのどけくおはしましぬべかりける世を、ありゝて、よしなき一ふしに、今はかく花の都をさへたち別れ、おのがちりゞにさすらへ、磯のとま屋に軒を並べて、おのづからこととふ者とては、浦に釣するあま小舟、塩焼く煙のなびくかたをも、我ふる里のしるべかとばかり、ながめ過ぐさせ給ふ御住居どもは、それまでと月日を限りたらんだに、明日知らぬ世のうしろめたさに、いと心細かるべし。まいて、いつをはてとか、めぐりあふべき限りだになく、雲の波煙の波のいくへとも知らぬさかひに、代をつくし給ふべき御さまども、口惜しともおろか也。このおはします所は、人離れ里遠き島の中なり。海づらよりは少しひき入りて、山かげにかたそへて、大きやかなる巌のそばだてるをたよりにて、松の柱に葦ふける廊など、気色ばかり事そぎたり。まことに、「しばの庵のただしばし」と、かりそめに見えたる御やどりなれど、さるかたになまめかしくゆゑづきてしなさせ給へり。水無瀬殿おぼし出づるも夢のやうになん。はるゞと見やらるる海の眺望、二千里の外も残りなき心地する、いまさらめきたり。潮風のいとこちたく吹き来るをきこしめして、

我こそは新島もりよ隠岐の海の荒き浪かぜ心して吹け

おなじ世に又すみの江の月や見んけふこそよそに隠岐の島もり

年もかへりぬ。所々浦々、あはれなる事をのみ思しなげく。佐渡院、明くれ御行なひをのみし給ひつつ、猶、さりともとおぼさる。隠岐には、浦よりをちのはるゞと霞みわたれる空をながめ入りて、過ぎにしかた、かきつくし思ほし出づるに、行方なき御涙のみぞとどまらぬ。

うらやましながき日影の春にあひて潮汲むあまも袖やほすらん

夏になりて、かやぶきの軒端に、五月雨のしづくいと所せきも、御覧じなれぬ御心地に、さまかはりてめづらしくおぼさる。

あやめ吹かやが軒端に風過ぎてしどろに落つる村雨の露

初秋風のたちて、世の中いとど物悲しく露けさまさるに、いはんかたなくおぼしみだる。

ふる里を別れぢにおふるくずの葉の秋はくれども帰る世もなし

たとしへなくながめしをれさせ給へる夕暮れに、沖のかたに、いと小さき木の葉の浮かべると見えて漕ぎくるを、あまの釣舟かと御覧ずる程に、都よりの御消息なりけり。すみぞめの御衣、夜の御ふすまなど、都の夜寒に思ひやり聞えさせ給ひて、七条院より参れる御文、ひきあけさせ給ふより、いといみじく、御胸もせきあぐる心地すれば、ややためらひて見給ふに、「あさましくも、かくて月日経にける事。今日明日とも知らぬ命の中に、いま一度、いかで見奉りてしがな。かくながらは、死出の山路も越えやるべうも侍らでなん」など、いと多く乱れ書き給へるを、御顔におしあてて、

たらちねの消やらで待つ露の身を風よりさきにいかでとはまし

八百よろづ神もあはれめたらちねの我待ちえんとたえぬ玉のを

初雁のつばさにつけつつ、ここかしこよりあはれなる御消息のみつねに奉るを御覧ずるにつけても、あさましういみじき御涙のもよほしなり。家隆の二位は、新古今の撰者にも召し加へられ、おほかた、歌の道につけて、むつまじく召し使ひし人なれば、夜ひる恋ひ聞ゆる事かぎりなし。かの伊勢より須磨に参りけんも、かくやとおぼゆるまで、巻きかさねて書きつらねまゐらせたる、「和歌所の昔のおもかげ、かずゝ忘れがたう」など申して、つらき命の今日まで侍る事の恨めしき由など、えもいはずあはれ多くて、

ねざめして聞かぬを聞きてわびしきは荒磯浪の暁のこゑ

とあるを、法皇もいみじと思して、御袖いたくしぼらせ給ふ。

浪間なき隠岐の小島のはまびさし久しくなりぬ都へだてて

木枯の隠岐のそま山吹しをり荒くしをれて物おもふ頃

をりゝ詠ませ給へる御歌どもを書き集めて、修明門院へ奉らせ給ふ。其中に、

水無瀬山我がふる里は荒れぬらむまがきは野らと人もかよはで

かざし折る人もあらばや事とはん隠岐の深山に杉は見ゆれど

限りあればさても堪へける身のうさよ民のわら屋に軒をならべて

かやうのたぐひ、すべて多く聞ゆれど、さのみは年のつもりにえなん。いま又思ひ出でば、ついで求めてとて。

増鏡 3 藤衣

3 藤衣

其の頃、いと数まへられ給はぬ古宮おはしけり。守貞の親王とぞ聞えける。高倉院第三の御子也。隠岐の法皇の御兄なれば、思へばやむごとなけれど、昔、後白河の法皇、安徳院の筑紫へおはしまして後に、見奉らせ給ひける御孫の宮たちえりの時、泣き給ひしによりて、位にも即かせ給はざりしかば、世の中物怨めしきやうにて過ごし給ふ。さびしく人目まれなれば、年を経て荒れまさりつつ、草深く八重むぐらのみさしかためたる宮の中に、いと心細くながめおはするに、建保の頃、宮の内の女房の夢に、冠したる物あまた参りて、「剣璽を入れ奉るべきに、各用意して候はれよ」といふと見てければ、いと怪しう覚えて、宮に語り聞えけれど、「いかでかさ程の事あらん」と、思しもよらで、遂に御髪をさへおろし給ひて、此の世の御望みは絶ち果てぬる心地して物し給へるに、此の乱れ出で来て、一院の御族は、皆様々にさすらへ給ひぬれば、おのづから小さきなど残り給へるも、世にさし放たれて、さりぬべき君もおはしまさぬにより、東よりのおきてにて、彼の入道の親王の御子〈 後堀河院の御事 〉の、十になり給ふを、承久三年七月九日、にはかに御位に即け奉る。父の宮をば太上天皇になし奉りて、法皇と聞ゆ。いとめでたく、横さまの御幸ひおはしける宮なり。

孫王にて位に即かせ給へる例、光仁天皇より後は絶えて久しかりつるに、珍しくめでたし。其の十二月一日に御即位、明くる年貞応元年正月三日、御元服し給ふ。御諱茂仁と申す。御かたちもなまめかしくあてにぞおはします。御母、基家の中納言の女、北白河院と申しき。家実の大臣、又摂政になり返らせ給ひて、万おきて宣ふも、様々に引き返したる世なりかし。又の年五月の頃、法皇かくれさせ給ひぬれば、天下皆黒み渡りぬ。上も御服奉る。きびはなる御程に、いといみじうあはれなる御事なめり。

前の御門は、四にて廃せられ給ひて、尊号などの沙汰だに無し。御母后東一条院も、山里の御住居にて、いと心細くあはれなる世を、つきせず思し歎く。此の宮は故摂政殿後京極良経の姫君にて物し給へば、歌の道にもいと賢う渡らせ給へど、大方奥深うしめやかに重き御本性にて、はかなき事をも、たやすくもらさせ給はず。御琴なども、限りなき音を引きとり給へれど、をさをさかきたてさせ給ふ世もなく、あまりなるまで埋もれたる御もてなしを、佐渡の院も、限りなき御志の中に、飽かずなん思ひ聞えさせ給ひける。彼の遠き御別れの後は、いみじう物をのみ思しくだけつつ、いよいよ沈み臥しておはしますに、古く仕うまつりける女房の、里に篭り居たりけるもとより、あはれなる御消息を聞えて、十月一日の頃、御衣がへの御衣を奉りたりける御返事に、

思ひ出づるころもはかなし我も人も見しにはあらずたどらるる世に

又、御手習ひのついでに、からうじて洩れけるにや、

消えかぬる命ぞつらき同じ世にあるも頼みはかけぬ契をさこそは、げに思し乱れけめ。おろかなる契りだに、かかる筋のあはれは浅くやは侍る。いかばかりの御心の中にて過し給ふらんと、いと忝なし。

はかなく明け暮れて、貞応もうち過ぎ、元仁・嘉禄・安貞などいふ年も程なく変はりて、寛喜元年になりぬ。此の程は光明峰寺殿道家又関白にておはす。此の御娘女御に参り給ふ。世の中めでたく花やかなり。これより先に、三条の太政大臣公房の姫君参り給ひて后だちあり。いみじう時めき給ひしを、おしのけて、前の殿〔家実〕の御女、未だ幼くておはする、参り給ひにき。これはいたく御覚えもなくて、三条の后の宮、浄土寺とかやに引き篭りて渡らせ給ふに、御消息のみ日に千度といふばかり通ひなどして、世の中すさまじく思されながら、さすがに后だちはありつるを、父の殿摂〓変はり給ひて、今の峰殿〈 道家、東山殿と申しき 〉、なり返り給ひぬれば、又此の姫君入内ありて、もとの中宮はまかで給ひぬ。珍しきが参り給へばとて、などかかうしもあながちならん。唐土には、三千人なども候ひ給ひけるとこそ、伝へ聞くにも、しなじなしからぬ心地すれど、いかなるにかあらん。後には各院号ありて、三条殿の后は安喜門院、中の度参り給ひし殿の女御は、鷹司院とぞ聞えける。今の女御もやがて后だちあり。藤壺わたり今めかしく住みなし給へり。御はらからの姫君も、かたちよくおはするに、引きこめ難しとて、内侍のかみになし奉り給ふ。

同じき三年七月五日、関白をば御太郎教実の大臣に譲り聞え給ひて、我が御身は大殿とて、后の宮の御親なれば、思ひなしもやん事なきに、御子どもさへいみじう栄え給ふ様、例なき程なり。東の将軍、山の座主、三井寺の長吏、山階寺の別当、仁和寺の御室、皆此の殿の君達にておはすれば、すべて、天下はさながらまじる人少なう見えたり。いとよそほしく重々しげにて、内の御宿直所などに、常はうちとけ候ひ給へば、関白殿、次々の御子どもも大臣などにて、立ち変はり御前に絶えず物し給ひて、世の政事など聞え給ふ。北の方は公経の大臣の御女なれば、まして世の重く靡き奉る様、いとやんごとなし。

誠や、其の年十一月十一日、阿波の院かくれさせ給ひぬ。いとあはれにはかなき御事かな。例ならず思されければ、御髪おろさせ給ひにけり。ここら物をのみ思して、今年は三十七にぞならせ給ひける。今一度、都をも御覧ぜずなりぬる、いみじう悲しきを、隠岐の小島にも聞こしめし歎く。承明門院は、様々のうき事を見尽して、猶ながらふる命のうとましきに、又かく、同じ世をだに去り給ひぬる御歎きの、いはん方なさに、「など先立たぬ」と、口惜しう思しこがるる様、ことわりにも過ぎたり。かしこにて召使ひける御調度、何くれ、はかなき御手箱やうの物を、都へ人の参らせたりける中に、たまさかに通ひける隠岐よりの御文、女院の御消息などを、一つにとりしたためられたる、いみじうあはれにて、御目もきりふたがる心地し給ふ。家隆の二位の女、小宰相と聞えしは、おのづからけぢかく御覧じなれけるにや、人よりことに思ひ沈みて、御服など黒う染めけり。

うしと見しありし別は藤衣やがて着るべき門出なりけり

今年もはかなく暮れて、貞永元年に成りぬ。定家の中納言承りて、撰集の沙汰ありつるを、此の程御門降りさせ給ふべき由聞ゆればにや、いととく十月二日奏せられける。一年の内に奏せられたる、いとありがたくこそ。新勅撰と聞ゆ。「元久に新古今出で来て後、程なく世の中も引きかへぬるに、又新の字うち続きたる、心よからぬ事」など、ささめく人も侍りけるとかや。

さて同じき四日、降り居させ給ふ。御悩み重きによりて也けり。去年の二月、后の宮の御腹に、一の御子出で来給へりしかば、やがて太子に立たせ給ひしぞかし。例の人の口さがなさは、彼の承久の廃帝の、生れさせ給ふとひとしく坊に居給へりしは、いと不用なりしを」などいふめり。上は降りさせ給ひて、其の七日やがて尊号あり。御悩み猶怠らず。大方、世も静かならず。此の三年ばかりは、天変しきり地震ふりなどして、さとししげく、御慎みおもきやうなれば、いかがおはしまさむと、御心ども騒ぐべし。今上は二歳にぞならせ給ふ。あさましき程の御いはけなさにて、いつくしき十善の主に定まり給ふ事、いとゆゆしきまで、前の世ゆかしき御有様なり。昔、近衛院三歳、六条院二歳にて、位につき給へりし、いづれもいと心ゆかぬ例なり。閑院殿の清涼殿にて、まづ御袴奉る。十二月五日、御即位はことなく果てぬれば、めでたくて年も変はりぬ。

中宮も御物の怪に悩ませ給ひて、常はあつしうおはしますを、院はいとど晴れ間なく思し歎く。卯月の頃、年号改まる。天福といふなるべし。其の同じ頃、中宮も位去り給ひて、藻璧門院とぞ聞ゆなる。今年も又例ならず悩ませ給へば、めでたき御事の数そはせ給ふべきにこそと、世の中めでたく聞ゆ。祭り祓へ、何くれとおびたたしく、まだきよりののしる。まして其の程近くなりては、天の下やすき空なく、山々寺々社々、御祈りひびき騒げども、御物のけこはくて、いみじうあさまし。遂に、九月十八日に、かくれさせ給ひぬ。其の程のいみじさ、推し量りぬべし。今年二十五にならせ給ふ。若く清らに美しげにて、盛りなる花の御姿、時の間の露と消え果て給ひぬる、いはん方なし。殿・上思し惑ふ様、悲しともいへば更なり。院に候ふ民部卿の典侍と聞ゆるは、定家の中納言の娘なり。此の宮の御方にも、け近う仕うまつる人なりけり。限りなく思ひ沈みて、頭おろしぬ。いみじうあはれなる事なり。人の問へる御返事に、

悲しさはうき世のとがとそむけども只恋しさのなぐさめぞなき

当代の御母后にておはしつれば、天下皆一つ墨染めにやつれぬ。此の御歎きに、いよいよ院は沈みまさらせ給ひて、うち絶えて御湯などをだに御覧じいるる事なくて、月日つもらせ給へば、御修法どもいとこちたく、山々寺々残りなく勤めののしる。医師・陰陽師、祭り・祓へなど、天の下騒ぎ満ちたり。又年号変はりぬ。文暦元年といふ。承久の廃帝、十七になり給へるも、五月二十日に失せ給ひぬ。いと若き御程に、いといとほしうあたらしき御事なりかし。隠岐にも、うち続きあはれなる事どもを、聞こしめし歎くべし。佐渡には、まして心うくあさましと思さる。此の御さしつぎの宮、猶おはしますは、修明門院養ひ奉らせ給ふめり。

かくいひしろふ程に、院の御悩み日々に重くならせ給ひて、八月六日、いとあさましうならせ給ひぬ。世のおもしにておはしますべき事の、かくあへなき御有様、口惜しなど聞ゆるもなのめなり。大方、御本性も、なごやかにらうらうじく、御かたちもまほに美しうととのほりて、二十に三つばかりや余らせ給ふらん。若う盛りの御程に、御才なども、やまと・もろこしたどたどしからず、何事につけても、いとあたらしうおはしませば、世の人の惜しみ聞ゆる様限り無し。只くれ惑へる心地どもなり。後堀川院とぞ申しける。故宮の御果てだに過ぎず、又とり重ねて、諒闇の三年までにならん事を、いとまがまがしくゆゆしと、皆人思ふべし。御契りの程のあはれさも、いとありがたくなむ。御禊・大嘗会なども、いとど延びぬ。只ここもかしこも、高きも下れるも、都も遠きも、島々も、涙にうき沈みてぞ過し給ひける。

うち続き、かくのみ世の中騒がしく、天変もしきり、いとあはたたしきやうなれば、又年号変はりて、嘉禎元年といふ。誠や、三月の末つかたより、〔洞院の〕摂政殿〔教実〕重くわづらひ給ふ。故院の御位の程より、大殿の、御譲りにて、関白と聞えしが、御門幼くおはしませば、此の頃は摂政殿と申すなるべし。御かたちも御心ばへもめでたくおはしましつるに、いとあへなく失せ給ひぬれば、大殿の御歎きたとへん方無し。二十六にぞなり給ひける。いと悲しくし給ふ姫君・若君など物し給ふをも、今は峰殿のみひとへにはぐくみ聞え給ひけり。摂政にも、大殿立ちかへり成り給ひぬ。かくて三度政事ををさめ給ひぬるにや。北政所の御父は、公経の大臣なれば、彼の殿と一つにて、世は弥御心のままなるべし。今年ぞ御色ども改まりぬれば、冬になりて御禊・大嘗会行はる。様々めでたくもあはれにも色々なる都の事どもを、ほのかに伝へ聞こしめして、隠岐にはあさましの年のつもりやと、御齢に添へても、尽きせぬ御歎きぐさのみしげりそふ慰めには、思しなれにし事とて、敷島の道にのみぞ御心をのべける。都へも、たよりにつけつつ題を遣はし、歌を召せば、あはれに忘れがたく恋ひ聞ゆる昔の人々、我も我もと奉れるを、つれづれに思さるるあまりに、自ら判じて御覧ぜられにけり。家隆の二位も、今まで生ける思ひ出でに、これをだにとあはれに忝なくて、こと人々の歌をも、ここよりぞとり集めて参らせける。昔の秀能は、ありし乱れの後、頭おろして深く篭り居たり。如願とぞいひける。それも此の度の御歌合に召せば、今更に、其のかみの事、さこそは思ひ出づらめ。例のかずかずはいかでか。只片端をだにとて、左、御製、

人心うつり果てぬる花の色に昔ながらの山の名もうし

右、家隆の二位、

なぞもかく思ひそめけん桜花山とし高く成りはつるまで秀能、

わたの原八十島かけてしるべせよ遙かに通ふおきの釣り船

山家といふ題にて、また、左、御製、

軒端あれて誰か水無瀬の宿の月すみこしままの色やさびしき

右、家隆、

さびしさはまだ見ぬ島の山里を思ひやるにもすむ心地して

法皇御自ら判の言葉を書かせ給へるに、「まだ見ぬ島を思ひやらんよりは、年久しく住みて思ひ出でんは、今少し志深くや」とて、我が御歌を勝とつけさせ給へる、いとあはれにやさしき御事なめり。かやうの〔事、〕はかなし事、又は阿弥陀仏の御勤めなどに、まぎらはしてぞおはします。また、御手習のついでに、

我ながらうとみ果てぬる身の上に涙ばかりぞ面がはりせぬ。

故郷は入りぬる磯の草よ只夕潮満ちて見らく少なき

此の浦に住ませ給ひて、十九年ばかりにやありけむ、延応元年といふ二月二十二日、六十にてかくれさせ給ひぬ。今一度都へ帰らんの御志深かりしかど、遂に空しくてやみ給ひにし事、いと忝なく、あはれに情けなき世も、今更心うし。近き山にて例の作法になし奉るも、むげに人少なに、心細き御有様、いとあはれになん。御骨をば、能茂といひし北面の、入道して御供に候ひしぞ、首にかけ奉りて都に上りける。さて大原の法花堂とて、今も、昔の御庄の所々、三昧料に寄せられたるにて、勤め絶えず。彼の法花堂には、修明門院の御沙汰にて、故院わきて御心とどめたりし水無瀬殿を渡されけり。今はのきはまで持たせ給ひける桐の御数珠なども、かしこに未だ侍るこそ、あはれに忝なく、拝み奉るついでのありしか。始めは顕徳院と定め申されたりけれど、おはしましし世の御あらましなりけるとて、仁治の頃ぞ、後鳥羽院とは更に聞こえ直されけるとなむ。

増鏡 4 三神山

4 三神山

さても、源大納言通方の預かり奉られし阿波の院の宮は、おとなび給ふままに、御心ばへもいときやうざくに、御かたちもいとうるはしく、けだかくやむごとなき御有様なれば、なべて世の人もいとあたらしき事に思ひ聞えけり。大納言さへ、暦仁の頃失せにしかば、いよいよ真心に仕うまつる人もなく、心細げにて、何を待つとしもなく、かかづらひておはしますも、人わろくあぢきなう思さるべし。御母は、土御門の内大臣通親の御子に、宰相中将通宗とて、若くて失せにし人の御女なり。それさへかくれ給ひにしかば、宰相のはらからの姫君ぞ、御乳母のやうにて、瞿曇弥の釈迦仏養ひ奉りけん心地して、おはしける。二にて父御門には別れ奉り給ひしかば、御面影だに覚え給はねど、猶此の世の中におはすと思されしまでは、おのづからあひ見奉るやうもやなど、人知れず幼き御心にかかりて思し渡りけるに、十二の御年かとよ、かくれさせ給ひぬと伝へ聞き給ひし後は、いよいよ世のうさを思しくんじつつ、いとまめだちてのみおはしますを、承明門院は心苦しう悲しと見奉り給ふ。

はかなく明け暮れて、仁治二年にもなりにけり。御門は今年は十一にて、正月五日、御元服し給ふ。御諱秀仁と聞ゆ。其の年の十二月に、洞院の故摂政殿教実の姫君、九に成り給ふを、祖父の大殿、御伯父の殿原などゐ立ちて、いとよそほしくあらまほしき様にひびきて、女御参り給ふ。父の殿一人こそ物し給はねど、大方の、儀式万飽かぬことなくめでたし。上もきびはなる御程に、女御もまだかく小さうおはすれば、雛遊びのやうにぞ見えさせ給ひける。天の下はさながら大殿の御心のままなれば、いとゆゆしくなん。

土御門殿の宮は二十にもあまり給ひぬれど、御冠の、沙汰も無し。城興寺の宮僧正真性と聞ゆる、御弟子にと語らひ申しければ、さやうにもと思して、女院にもほのめかし申させ給ひけるを、いとあるまじき事とのみ諌め聞えさせ給ふ。其の冬の頃、宮いたう忍びて、石清水の社に詣でさせ給ひ、御念誦のどかにし給ひて、少しまどろませ給へるに、神殿の中に、「椿葉の影二度改まる」と、いとあざやかにけだかき声にて、うち誦じ給ふと聞きて、御覧じあげたれば、明けがたの空澄み渡れるに、星の光もけざやかにて、いと神さびたり。いかに見えつる御夢ならんと怪しく思さるれど、人にも宣はず。とまれかくまれと、いよいよ御学問をぞせさせ給ふ。

年もかへりぬ。春の初めは、おしなべて、程々につけたる家々の身の祝など、心行ほこらしげなるに、正月の五日より、内の上例ならぬ御事にて、七日の節会にも、御帳にもつかせ給はねば、いとさうざうしく人々思しあへるに、九日の暁、かくれさせ給ひぬとて、ののしりあへる、いとあさましともいふばかり無し。皆人あきれまどひて、中々涙だに出でこず。女御も未だ童遊びの御様にて、なに心なくむつれ聞えさせ給へるに、いとうたていみじければ、うちしめりくんじてゐ給へる、いとをさなげにらうたし。大殿の御心の中、思ひやるべし。御兄〈 左大臣忠家 〉の若君も殿上し給へる。只御門の同じ御程にて、騒がしきまでの御遊びのみにて明かし暮らさせ給ひけるに、かいひそみて群がり居つつ、鼻うちかみ、うち泣く人よりほかは無し。かくのみあさましき御事どものうち続きぬるは、いかにも、彼の遠き浦々にて沈み果てさせ給ひにし、御歎きどものつもりにやとぞ、世の人もささめきける。御悩みの始めも、なべての筋にはあらず、あまりいはけたる御遊びより、損はれ給ひにけるとぞ。未だ御つぎもおはしまさず、又御はらからの宮なども渡らせ給はねば、世の中いかに成りゆかんずるにかと、たどりあへる様なり。

さてしもやはにて、東へぞ告げやりける。将軍は大殿の御子、今は大納言殿と聞ゆ。御後見は、承久に上りたりし泰時の朝臣なり。時房の朝臣と一所にて、小弓射させ酒もりなどして、心とけたる程なりけるに、「京よりの走り馬」といへば、何事ならんと驚きながら、使ひ召し寄せて聞くに、いとあさまし。さりとてあるべきならねば、其の席よりやがて神事始めて、若宮の社にて、くじをぞとりける。

其の程、都には、いとうかびたる事ども、心のひきひきいひしろふ。「佐渡院の宮たちにや」など聞えければ、修明門院にも、御心時めきして、内々其の御用意などし給ふ。承明門院も、もしやなど、様々御祈りし給ふ。東の使、都に入る由聞ゆる日は、両女院より白河に人を立てて、いづ方へか参ると、見せられけるぞことわりに、げに今見ゆべき事なれども、物の心もとなきは、さおぼゆるわざぞかしと、例の口すげみてほほゑむ。

日ぐらし待たれて、城介義景といふ者、三条河原にうち出でて、「承明門院のおはしますなる院はいづくぞ」と、彼の院より立てられたる青侍の、いと怪しげなるにしも問ひければ、聞く心地、うつつとも覚えず。しかじかと申すままに、土御門殿へ参りたれど、門はむぐら強くかため、扉もさびつき柱根くちて、開かざりけるを、郎等どもにとかくせさせて、内に参りて見まはせば、庭には草深く、青き苔のみむして、松風より外は、こたふるものなく、人の通へる跡も無し。故通宗宰相中将の御弟を子にし給へりし定通の大臣ばかりぞ、何となくおのづからの事もやと思ひて、なえばめる烏帽子直衣にて候ひ給ひけるが、中門に出でて対面し給ふ。義景は、切戸の脇にかしこまりてぞ侍りける。「阿波の院の御子、御位に」と、申し出でぬ。院の中の人々、上下夢の心地して、物にぞあたりまどひける。仁治三年正月十九日の事なり。

世の人の心地、皆驚きあわてて、おし返しこなたに参り集ふ馬車の響き騒ぐ世のおとなひを、四辻殿にはあさましう中々物思しまさるべし。又の日、やがて御元服せさせ給ふ。ひき入れに、左大臣良実参り給ふ。理髪、頭弁定嗣仕うまつりけり。御諱邦仁、御年二十三、其の夜やがて冷泉万里小路殿へ移らせ給ひて、閑院殿より剣璽など渡さる。践祚の儀式、いとめづらし。

其の後こそ、閑院殿には追号の定め、御わざの事など沙汰ありけれ。二十五日、東山の泉湧寺とかやいふほとりにをさめ奉る。四条院と申すなるべし。やがて彼の寺に、御庄など寄せて、今に御菩提を祈り奉るも、前の世の故ありけるにや。此の御門、未だ物などはかばかしく宣はぬ程の御齢なりける時、誰とかや、「前の世はいかなる人にておはしましけん」と、只何となく聞えたりけるに、彼の泉湧寺の開山の聖の名をぞ、たしかに仰せられたりける。又、人の夢にも、此の御門かくれさせ給ひて後、彼の上人、「我すみやかに成仏すべかりしを、由なき妄念を起こして、今一度人界の生をうけて、帝王の位に至りて、かへりて我が寺を助けんと思ひしに、はたしてかくなん」とぞ見えける。誠に、其の余執の通りけるしるしにや、御庄どもも寄りけむとぞ覚え侍る。

さて仁治三年三月十八日〔過ぎて〕御即位、万あるべき限りめでたくて過ぎもて行く。嘉禎三年よりは、岡の屋の大臣兼経、摂政にていませしかば、其のままに、今の御代の始めも関白と聞えつれど、三月二十五日、左の大臣〈 良実、二条殿の御家の始めなり 〉に渡りぬ。此の殿も、光明峰寺殿の御二郎君なり。神無月になりぬれば、御禊とて世の中ひしめきたつも、思ひよりし事かはとめでたし。大嘗会の悠紀方の御屏風、三神山、菅宰相為長仕まつられける。

いにしへに名をのみ聞きて求めけん三神の山はこれぞ其の山

主基方、風俗の歌、経光の中納言に召されたり。

末遠き千代の影こそ久しけれまだ二葉なる岩崎の松当代かくめでたくおはしませば、通宗の宰相も左大臣従一位をおくられ給ふ。御女も后の位をおくり申されし、いとめでたしや。誠や、此の頃、右大臣と聞ゆるは、実氏の大臣よ。其の御女、十八に成り給ふを、女御に立て奉り給ふ。六月三日、入内あり。儀式有様、二なく清らを尽くされたり。母北の方は、四条の大納言隆衡の女なり。女御の君、いとささやかに、愛敬づきてめでたく物し給へば、御覚えいとかひがひしく、万うちあひ、思ふ様なる世の気色、飽かぬ事無し。同じ年八月九日、后に立ち給ふ。其の程のめでたさ、いへば更なり。源大納言の家に、無品親王とて怪しう心細げなりし程には、たはぶれにも思ひより聞え給はざりけんと、めでたきにつけても、人の口やすからず、さはとかく聞ゆべし。

増鏡 5 内野の雪

5 内野の雪〔おほうち山とも〕

今后の御父は、先にも聞えつる右大臣実氏の大臣、其の父、故公経の太政大臣、其のかみ夢見給へる事ありて、源氏の中将わらはやみまじなひ給ひし北山のほとりに、世に知らずゆゆしき御堂を建てて、名をば西園寺といふめり。此の所は、伯の三位資仲の領なりしを、尾張国松枝といふ庄にかへ給ひてけり。もとは、田畠など多くて、ひたぶるに田舎めきたりしを、更にうち返しくづして、艶なる園に造りなし、山のたたずまひ木深く、池の心ゆたかに、わたつみをたたへ、峰よりおつる滝のひびきも、げに涙催しぬべく、心ばせ深き所の様なり。本堂は西園寺、本尊の如来は誠に妙なる御姿、生身もかくやと、いつくしうあらはされ給へり。又、善積院は薬師、功徳蔵院は地蔵菩薩にておはす。池のほとりに妙音堂、滝のもとには不動尊。此の不動は、津の国より生身の明王、簔笠うち奉りて、さし歩みておはしたりき。其の簔笠は宝蔵にこめて、三十三年に一度出ださるとぞ承る。石橋の上には五大堂。成就心院といふは愛染王の座さまさぬ秘法とり行はせらる。供僧も紅梅の衣、袈裟数珠の糸まで、同じ色にて侍るめり。又、法水院・化水院、無量光院とかやとて、来迎の気色、弥陀如来・二十五の菩薩、虚空に現じ給へる御姿も侍るめり。北の寝殿にぞ大臣は住み給ふ。めぐれる山の常盤木ども、いと旧りたるに、なつかしき程の若木の桜など植ゑ渡すとて、大臣うそぶき給ひけり。

山桜峰にも尾にも植ゑ置かん見ぬ世の春を人や忍ぶと

彼の法成寺をのみこそ、いみじき例に世継もいひためれど、これは猶山の気色さへ面白く、都はなれて眺望そひたれば、いはん方なくめでたし。峰殿の御舅、東の将軍の御祖父にて、万世の中御心のままに、飽かぬ事なくゆゆしくなんおはしける。今の右の大臣、をさをさ劣り給はず、世のおもしにて、いとやんごとなくおはするに、女御さへ御おぼえめでたく、いつしかただならずおはすると聞ゆる、奥ゆかしき御程なるべし。

京には、様々めでたき事のみ多かるに、かの佐渡の島には、御悩と聞えし、程なく九月十二日かくれさせ給ひぬ。世の中の改りしきざみ、もしやなど思しよる事どもありしも、空しう隔たりのみ果てぬる世を、いと心細う聞し召しけるに、そこはかとなく、御悩など重るやうにて、失せ給ひけるとぞ聞えし。四十六にぞならせ給ひける。いと哀なる世の中なるべし。

かくて年変はりぬれば、寛元元年と聞ゆ。五月二十六日より、最勝講始めて行はる。関白を始め上達部、殿上人残りなく参り給ふ。左右大将 忠家実基 の車、陣に立つるとて、争ひののしりて、いみじう恐ろし。右は上首、左は下臈にておはしければ、御前ども、かたみにひしめきて、あさましかりけり。されども相対へて立てて後ぞ、しづまりにける。又の日は、久我の前内大臣通光鳥羽の御家にて、八講し給ふとて、上達部多くかしこに集ひ給ふ。大臣は更にもいはず。堀川の大納言、具実 御子の通忠の大納言、土御門の大納言、顕定 通成の三位の中将、通行の宰相の中将など、すべて一門の人々、〓榔毛にておはして、多く高欄につき給ふ。ほとほと、内の御八講にも劣らず見えたり。殿上人は、まして数しらず。雅通の大臣の書きおき給へるものに、「公務の日なりとも、暇を申して、この八講にあふべし」とかや侍るなるに、誠に、かかるおほやけ事の折ふしも、猶さし合せておはし集ふ。いとやむごとなきわざなめり。猶末の代には、いかがあらんといぶかし。二十八日は、内の最勝講五巻の日にて、又、人々数を尽して参り給ふ。二十九日には、法性寺の浄光明院にて、普賢寺殿の御忌日の法事あり。この御堂の荘厳のめでたさ限りなし。誠の浄土思ひやらるる様なり。ここもかしこも、この程は、尊き事のみ多く、耳ぞ多くほしかりける。

誠や、去年より、中宮は、いつしかただならずおはします。六月になりて、その程近ければ、十三社の奉幣勅使立てらる。日頃の御祈りにうちそへ、世の中ゆすり騒ぐ。六月より、七仏薬師、五壇の御修法など始まる。中壇は、桜井の宮 後鳥羽院の御子 勤めさせ給ふ。今出川の大臣におはしませば、御家の殿ばら絶えず候ひ給ふ。十日の曙より、その御気色あれば、殿の内立ち騒ぐ。白き御よそひに改めて、母屋に移らせ給ふ。天の下ののしり立ちて、馬車走りちがふ様、いとこちたし。内よりも御使ひなまし。寮の御馬にて、雨の脚よりもしげく走りきほふ。さらでだにいと暑き頃を、汗におしひたしたる人々の気色、いとわりなし。后の宮、いと苦しげにし給ひて、日たけゆくに、色々の御物の怪ども名のりいでて、いみじうかしがまし。大臣、北の方、いかさまにと御心惑ひて、思し歎く様、あはれに悲し。かやうのきざみは、高きも下れるも、おろかなるやはある。なべて皆かくこそはあれど、げにさしあたりたる世の気色をとり具して、いみじう思さるべし。内の御乳母大納言の二位殿おとなおとなしき内侍のすけなど、さるべき限り参り給へり。今日も猶、心もとなくて暮れぬれば、いと恐ろしう思す。伊勢のみてぐら使ひなど立てらる。諸社の神馬、所々の御誦経の使、四位五位数を尽して鞭をあぐる様、いはずともおしはかるべし。大臣、とりわき、春日の社へ拝して、御馬、宮の御衣など奉らる。

内には、更衣腹に、若宮二所おはしませど、この事を待ち聞え給ふとて、坊定まり給はぬ程なり。たとひ、平らかにおはしますとも、もし女宮ならばと、まがまがしきあらましは、かねて思ふだに、胸つぶれて口惜し。かつは、我が御身の宿世、見ゆべききはぞかしと思して、大臣も、いみじう念じ給ふに、未の下り、既にことなりぬ。まづ、何にかと、心騒ぐに、宮の御兄公相の大納言、「皇子御誕生ぞや」と、いと高らかに宣ふを、聞く人々の心地、夜の明けたらんやうなり。父大臣「誠か」と宣ふままに、よろこびの御涙ぞおちぬる。哀なる御気色と、見奉る人も、こといみしあへず。公相、公基、実雄、大納言三人、権の大夫実藤、大宮の中納言公持、皆御ゆかりの殿ばら、上の衣にて候ひ給ふ。御修法ども、やがて結願すべしとて、僧ども法師ばらまで、したり顔に、汗おしのごひつつ、いそがしげにありくさへぞめでたき。月次の御神事なる上、今日、日ついで心やましき事とかやにて、わざと奏し給はねど、御験者桜井の宮の僧正 覚仁法親王 をはじめ奉りて、次々、皆、禄給ふ。法親王には、宮の御衣・大夫とりて奉り給ふ。宇治の前の僧には、公基の大納権、房意法印には、権の大夫公持かづけ給ふ。御馬は、各本坊に送られけり。又の日、月次の祭果てて、御はかし参る。勅使隆良なりき。

十二日、三夜の儀式、本宮の御沙汰にて、いとめでたし。やがて御湯殿の事あれば、つるうち、五位十人、六位十人ならびたつ。御ふみの博士光兼の朝臣、右衛門の権の佐資定、大外記師光など、寝殿の南おもての庭に立ちて、孝経の天子の章をぞよむ。上達部簀子に候ひ給ふ。朝の御湯果てて皆まかでて後、又、夕の御湯殿の儀式、さきのままにて、果てぬる後、寝殿の東南の間に、白き袖口どもおし出ださる。しろゑの五尺の屏風たてわたして、上達部よりすべて、響どもすゑわたす。公卿の座に、人々二行につき余る程なり。右大将実基、大夫公相、公基、実雄、以上大納言。中納言に、左衛門の督顕親、権の大夫実藤、公持、侍従の宰相資季、別当公光、左大弁の宰相経光、新宰相定嗣、右兵衛の督有資、新宰相の中将通行などつきたり。その座の末に、紫べりの畳に、殿上人中将実直朝臣を始めて、数しらず参れり。御前のものども、殿上の四位はこぶ。児御子の御衣の案二脚、はしかくしの間にかきたつ。御かはらけ二めぐりの後、大夫公相、朗詠、「嘉辰令月」と宣へば、有資声くはへらる。又、「昭王」とおし重ねて出さる。御声々宿徳に、あらまほしうめでたし。かやうにて明けぬ。

十四日に、五夜の儀式さきの如し。今宵は御遊あり。実基の大将殿 徳大寺 拍子とり給ふ。笙宗基、笛二位の中納言良教、篳篥兼教朝臣、琵琶大夫公相、箏の琴権の大夫実藤、和琴有資、末の拍手も同じ人なりしにや、安名尊、鳥破、席田、伊勢海、万歳楽、三台急、例の事なり。かずかずめでたし。

十六日、七夜の御産養、内よりの御沙汰なれば、今少し、儀式ことにていかめし。関白殿、右の大臣、右大将、具実 大納言定雅、公相、公基、実雄。中納言には、例の人々、顕親、実藤、公持、資季、公光、経光、定嗣、三位の中将、通成 殿上人頭中将継師より始めて、残るは少なし。勅使蔵人の侍従宗基、目録もちて参れり。大夫対面し給ひて、白き御衣かづけ給ふ。本宮のものどもにも、内より禄給ふ。内膳司参りて、うるはしき作法にて、南殿より御膳参る様、日頃のには似ず、けだかうめでたし。その後、御遊び始まる。人々の所作、さのみは珍しげなくてとどめつ。

九夜は、承明門院よりの御沙汰なれば、それもいかめしき事どもありしかど、うるさくてなん。ここらの年頃、思しむすぼほれつる女院の御心の中、名残なく胸あきて、めでたく思さるる事限りなし。閑院殿修理せらるる程とて、十五日に、御門、承明門院へ行幸なれば、いとどしげうさへ見奉らせ給ふに、御心ゆく事多く、げにいみじき老の御栄えなりかし。覚子内親王とて、御傍におはしましつる御孫、これも土御門院の姫宮さへ、この二十六日かとよ、院になし奉らせ給へり。正親町の院と聞ゆ。上の同じ御腹におはすれば、万定通の大臣事行ひ給ふ。院号の定め侍るままに、陣より、上達部、皆ひきつれて、承明門院へ参る。大臣は御簾の内にて、女房の事どもなど、忍びやかにおきて宣ひけり。

その夜、また、兵衛の内侍の御腹の若宮 宗尊親王の御事なり 御五十日の儀式この院にて沙汰あり。后腹の御子程こそおはせねど、これも、御門、わたくしものに、いといとほしう思す事なれば、御気色にしたがひて、上達部、殿上人、いみじう参り集ふ。関白殿参り給ひて、くくめ奉り給ふ。陪膳は通成の三位中将、役送は家定朝臣仕うまつりける。人々の勧盃響などはなし。建久に、土御門院の御五十日きこしめしける例とぞ。

かくて中宮の若宮は、その二十八日に親王の宣旨あり。さて七月二十八日に、中宮も、今の宮も、内に参り給ふ。例の事なれば、かなたこなたの供奉、上達部、殿上人、数を尽して、古き例も、いと稀なる程にぞ聞えける。宮は御輿、御子は青糸毛の御車、近衛の大将、検非違使の別当をはじめて、ゆゆしき人々仕うまつらる。こよなき見物にてぞ侍りける。後七月二日、内にて皇子の御五十日きこしめす。内蔵寮より事ども調じて参る。御膳の物、屯食、折櫃のもの、何くれ心ことなり。時なりて、上こなたに渡らせ給ふ。御供に関白殿、堀川の大納言、具実 大夫、公相 左大将、忠家 関白の御子の三位の中将参り給ふ。上くくめ奉らせ給ふ様、いといとめでたし。同じ事のやうなれば、こまかには書かず。

かくて八月十日、すがやかに太子に立ち給ひぬ 後の深草院の御事なり 大臣御心おちゐて、すずしくめでたう思す、ことわりなり。「大方かのいみじかりし世のひびきに、女御子にておはせましかば、いかにしほしほと、口惜しからまし。いときらきらしうて、さし出で給へりし嬉しさを思ひ出づれば、見奉るごとに涙ぐまれて、かたじけなう覚え給ふ」とぞ、年たくるまで、常は、大臣人に宣ひける。中頃はさのみしもおはせざりし御家の、近くよりは、ことの外に、世にも重く、やむごとなう物し給ひつるに、この后の宮参り給ひ、春宮生れさせ給ひなどして、いよいよ栄えまさり給ふ。行末おしはかられて、いとめでたし。父の入道殿さへ御命ながくて、かかる御末ども見給ふも、さこそは御心ゆくらめと、おしはかるもしるく、その年の十月七日かとよ、都を立ちて、熊野にまうで給ふ。作法のゆゆしさ、昔の古き御代の御幸どもにも、やや立ち勝る程にぞ侍りし。御子孫ひき具し給ふ。大納言に実雄、御子 公相、御孫公基、前藤大納言とありしは、為家の事にや。坊門前の大納言も、追従に、京出は〓従せられたり。大宮の中納言、公持 左の宰相の中将、実任 右兵衛の督、有資 殿上人は三十余人侍りけり。いといみじかりしことどもなり。 かくて、同じき十一月十一日は、土御門の院の御十三年とて、おほやけより、御法事行はるるもいとめでたし。金原にて御八講あるべければ、承明門院も、かねてより渡らせ給ふ。上達部、殿上人参り集ふ様こよなし。

十二月一日は、石清水の社の行幸あり。当代には初めたる度なれば、万清らを尽さる。文治建久の例をまねばる。関白殿御馬にて仕うまつり給ふ。滝口十二人、馬ぞへに具し給ふ。色々の綾錦、目も輝くばかり立ち重ねたり。左右の大将 忠家実基 の番長、又心も詞も及ばず、いどみ尽したり。左大将のは馬にて前行、右大将のは張綱にて、移し馬をひかせけるとぞ。左大将は、紅梅の二重織物の半臂下がさね、萌黄の織物の上の袴、右大将は、うら山吹の半臂下がさね、左衛門の督は、梅がさねのうき織物の半臂下がさね、浮紋の上の袴、殿上人は、花山院の中将通雅の君ばかりぞ、萌黄の上の袴、うら山吹の半臂下がさね著給へりける。その外はことなるも見えず。御社にてのかた舞は、例の上達部もたたれけり。笛二位の中納言、拍子左衛門の督など勤められけり。かずかずめでたくて、又の日の午の時ばかりにぞ、帰らせ給ひける。 同じ五日、やがて賀茂の社に行幸し給ふ。関白殿、今日も御馬なり。上達部、殿上人、さきにいたく変らず。別当通成いみじうきらめかれたり。けさうじ給へるをぞ、「若き人なれども、検非違使の別当、白きものつくる事やある」など、古き人うちささめきけるとかや。春宮の大夫馬ぞへ八人具し給ひけり。権大納言実雄、土御門大納言顕定、権中納言公親、同顕親、左衛門の督実藤など、いづれも清らにめでたし。殿上人、中将には実久の朝臣、為氏、実治、経定、顕良、基雅、通雅、通定、定平、実直、師継、雅継、輔通、雅家、雅忠。少将には、隆兼、公直、季実、為教、忠継、輔時、顕方、惟継、公為、資平朝臣、信通など、我劣らじど、華族も下臈も心ばかりはいどみ尽したり。申の時に、まづ下の宮に行幸、暮れ果てて、上の社にまうでさせ給ふ。賞行はれなどして、還御は明方にぞなりにける。霜いと白きに、たてあかしけざやかにて、舞人の袖かへる程も、いと面白くぞ侍りける。

この行幸過ぎぬれば、天下の騒ぎ、少しのどまりぬべきにやと見えつるに、明くる日 十二月六日 また仁和寺の御室、准后 観音寺にて灌頂し給ふとて、世の中ののしる様、いとけしからぬまで響きあひたり。この御室をば代々、親王こそ伝へ給ふめれど、峰殿世を御心に任せたりし頃より渡り給ひて、母上の西園寺入道殿の御女に、准后をさへ譲り給ふとか聞えて、いとゆゆしき御人がらなれば、受法の儀式までぞ、世に珍らかなりける。入道殿下まづ渡り給ひて、仏母院におはす。関白殿は御兄なれば、ましておはします。右大臣殿、左大将殿、心ことにて参り給ふ。時なりて、大阿闍梨二品法親王道深輿にて渡り給ふ。喜多院の南の門より、上達部、殿上人歩み続きて、そこら参り集ふ。吉田の中納言為経、二条の中納言忠高、侍従の宰相、藤宰相、左の宰相の中将、左大弁経光、新宰相、みな列をひき、受者もみぎりにおり立ち給へる、いと若う美しうて、地蔵菩薩に似給へるを、入道殿いと悲しと見奉り給ふ。紫の袈裟に、香炉もちて渡り給へば、もとより並び立てる上達部、皆礼をいたす気色、やむごとなく見ゆ。関白、左大将殿などの御随身ども、えもいはずきらめきて、階のもとにたてあかししろくして、なみ居たる気色、めでたく面白し。伝法の様は、人見ぬ事なれば知らず。教授は良恵僧正つとめられけり。かくて事果てぬれば、後朝の儀式猶いみじ。法親王の御布施、被物五重ね この内一つは織物 御法服一具、鈍色一具、包物は絹十疋、綿一つつみ、関白殿とりて奉り給ふ。次々の衆僧には、大中納言ほどほどに随ふべし。導師の布施、久安、仁安など、又、建暦、寛喜などの度は、別当とりたりけれども、今日はその人参らねば、忠高の中納言とりけり。殿上人は二十余人参る。万の事、人がらと見えて、いとめでたし。かやうの事どもにて、今年もくれぬ。

又の年寛元二年、東の大納言頼経の君、一とせ二歳にて下り給ひし、峰殿の御子ぞかし。悩み給ふ由聞えしが、御子の六になり給ふに譲りて、都へ御かへりと聞ゆ。若君は、その日、やがて将軍の宣旨下され、少将になり給ふ。頼嗣と名のり給ふ。泰時朝臣も、をとどし入道して、うまごの時頼の朝臣に世をば譲りしかば、この頃は、天の下の御後見は、此相模守時頼の朝臣仕うまつる。いみじう賢きものなれば、めでたき聞えのみありて、兵も靡き従ひ、大方、世もしづかに、をさまりすましたり。

かくて寛元も四年になりぬ。正月二十八日春宮に御位を譲り申させ給ふ。この御門も、また四にぞならせ給ふ。めでたき御例どもなれば、行末も推し量られ給ふ。光明峰寺殿御三郎君、左大臣実経の大臣、御年二十四にて摂政し給ふ。いとめでたし。御兄の福光園院殿、もと関白にておはしつる、恨みてしぶしぶにおはしけれど力なし。御はらから三人まで摂〓し給へる例、ふるくは謙徳公、忠義公、東三条の大入道殿、その又御子ども中の関白殿、粟田殿、法成寺の入道殿、これふた度なり。近くは法性寺の御子ども、六条殿、松殿、月輪殿、これぞやがて、今の峰殿の御祖父よ。かやうの事、いとたまたまあれど、粟田殿も、宣旨かうぶり給へりしばかりにて、七日にて失せ給ひにしかば、天下執行し給ふに及ばず。松殿の御子師家の大臣、夢のやうにて、しかも一代にてやみ給ひにき。いづれも御末まではおはせざりしに、この三所の御後のみ、今に絶えず。御流久しき藤なみにて、立ち栄え給へるこそ、たぐひなきやむごとなさなめれ。末の世にもありがたくや侍らん。今の摂政殿をば、後には円明寺殿とぞ聞ゆめりし。一条殿の御家のはじめなり。摂政にて二年ばかりおはしき。

女院の御父も、太政大臣になり給ひて、牛車ゆり給ふ。さるべき事といひながら、いとめでたし。その頃、北山の花の盛りに、院に奏し給ふ。その花につけて、

朽ちはつる老木にさける花桜身によそへても今日はかざさん

御返しを忘れたるこそ口惜しけれ。

かくて御即位御禊も過ぎぬ。大嘗会の頃、信実の朝臣といひし歌よみの女の少将の内侍、大内の女工所に候ふに、雪いみじう日頃降りて、いかめしう積りたる暁、太政大臣宣ひ遣はしける、

九重の大内山のいかならん限りも知らずつもる雪かな

御返し、少将の内侍、

九重のうち野の雪に跡つけて遙に千代の道を見るかな

後嵯峨の院の上は、いつしか所々に御幸しげう、御遊びなど、めでたく、今めかしき様に好ませ給ふ。西園寺に、はじめて御幸なりし様こそ、いと珍らかなる見物にて侍りしか。太政大臣御あるじ申されし様、いかめしかりき。いはずとも思ひやるべし。御贈物に、代々の御手本奉らるとて、大臣、

伝へきく聖の代々の跡を見て古きを移す道ならはなん御返し、御製、

知らざりし昔に今やかへりなんかしこき代々の跡ならひなば

中宮も位去り給ひて、大宮女院とぞ聞ゆる。安らかに、常は、一つ御車などにて、ただ人のやうに、花やかなる事どものみ隙なく、万あらまほしき御有様なり。院の上、石清水の社にまうでさせ給ひて、日頃おはしませば、世の人残りなく仕うまつれり。さるべき事とはいひながら、猶いみじう、御心にも、一年の事思し出でられて、ことにかしこまり聞えさせ給ふべし。御歌あまたあそばして、宝殿にこめさせ給ひし中に、

石清水木がくれたりしいにしへを思ひ出づればすむ心かな

宝治の頃、神無月二十日あまりなりしにや、紅葉御覧じに、宇治に御幸し給ふ。上達部、殿上人、思ひ思ひ色々の狩衣、菊紅葉の濃きうすき、縫物、織物、綾錦、すべて世になき清らを尽し騒ぐ。いみじき見物なり。殿上人の船に、楽器をまうけたり。橘の小島に御船さしとめて、物の音ども吹きたてたる程、水の底も耳たてぬべく、そぞろ寒き程なるに、折知り顔に、空さへうちしぐれて、まきの山風あらましきに、木の葉どもの、色々散りまがふ気色、いひ知らず面白し。女房の船に、色々の袖くち、わざとなくこぼれ出でたる、夕日に輝きあひて、錦を洗ふ九の江かと見えたり。平等院に、中一日渡らせ給ひて、様々の面白き事ども数知らず。網代に氷魚の夜もさながらののしり明かして、帰らせ給ふ。

増鏡 6 烟の末々

6 烟の末々

宝治二年十一月二十日頃、紅葉御覧じがてら、宇治に御幸し給ふ。をかのや殿の摂政の御程なり 上達部、殿上人、思ひ思ひ色々の狩衣、菊紅葉のこきうすき、縫物、織物あやにしき、かねてより世の営みなり。二十一日の朝ぼらけに出でさせ給ふ。御烏帽子直衣、薄色の浮織物の御指貫、網代庇の御車に奉る。まづ殿上人、下臈より前行す。中将為氏、浮線綾の狩衣、右馬頭房名、基具、菊のから織物、内蔵頭隆行、顕方、白菊の狩衣、皇后宮の権の亮通世、右中弁時継、薄青のかた織物、紫の衣、前の兵衛の佐朝経、赤色の狩衣、衛門の佐親継、二藍の狩衣、成俊、ひはだ、具氏、左兵衛の佐親朝は、結び狩衣に、菊をおきものにして、紫すそごの指貫、菊を縫ひたり。上達部は、堀川の大納言具実直衣、皇后宮の大夫隆親直衣、花山院の大納言定雅、権大納言実雄、花田の織物の狩衣、から野の衣、土御門の大納言顕定 左衛門の督実藤 うすあを、衛門の督通成 かれ野の織物の狩衣、別当定嗣直衣、雑色に野剣を持たせたり。皇后宮の権の大夫師家 萌黄綾の狩衣、浮織物の指貫、紅の衣、土御門の宰相の中将雅家 香の織物の狩衣、御随身、居飼、御厩舎人まで、いかにせんと、色々を尽す。院の御車のうしろに、権大納言公相 緋紺の狩衣、紅の衣、白きひとへにて、えもいはぬ様して仕うまつり給ふ。検非違使北面などまで、思ひ思ひに、いかで珍らしき様にと好みたるは、ゆゆしき見物にぞ侍りし。衛府の上達部は、狩衣の随身に、弓、胡〓を持たせたり。人だまひ二輛、一の車に、色々の紅葉を、濃く薄く、いかなる龍田姫か、かかる色を染め出でけんと珍らかなり。二の車は、菊を出だされたるも、なべての色ならんやは。その外、院の御乳母大納言の二位殿、いとよそほしげにて、諸大夫、侍、清げなる召し具して参り給ふ。宰相の三位殿と聞ゆるは、かの若宮の御母、兵衛の内侍殿といひし、この頃は三位し給へり。今一きはめでたくゆゆしげにて、北面の下臈三人、諸大夫二人心ことにひきつくろひたる様なり。建久に後鳥羽院宇治の御幸の時、修明門院、そのころ、二条の君とて、参り給へりし例を、まねばるるとぞ聞えける。また大納言の典侍とは、藤大納言為家のむすめ、そも別にひきさがりて、いたく用意ことにて参らる。宇治川の東の岸に、御舟まうけられたれば、御車より奉り移る程、夕つかたになりぬ。御船さし、色々の狩襖にて、八人づつ、様々なり。基具の中将、院の御はかせもたる、顕朝御〓参らす。平等院の釣殿に、御船寄せておりさせ給ふ。本堂にて御誦経あり。御導師まかでて後、阿弥陀堂、御経蔵、懺法堂まで、ことごとく御覧じわたす。川の左右の岸に、篝しろくたかせて、鵜飼どもめす。院の御前よりはじめて、御台ども参る。しろがねの錦のうちしきなど、いと清らにまうけられたり。陪膳権大納言公相、役送は殿上人なり。上達部には御台四本、殿上人には二つなり。女房の中にも、色々様々の風流のくだもの、衝重など、由ある様に、なまめかしうしなして、もて続きたる、こまかにうつくし。院の上、梅壺の放出に入らせ給ふ。摂政殿、左の大臣、皆御供に候ひ給ふ。

又の日の暮つかた、又御船にて、槙の島、梅の島、橘の小島など御覧ぜらる。御遊び始まる。船の内に楽器ども設けられたれば、吹きたてたるものの音世に知らず、所がらは、まして面白う聞ゆるに、水の底にも耳とむるものやと、そぞろ寒き程なり。かの優婆塞の宮の、「へだてて見ゆる」と宣ひけん、「をちのしら浪」も、艶なる音を添へたるは、万折からにや。

二十三日還御の日ぞ、御贈物ども奉り給ふ。御手本、和琴、御馬二疋参らせらる。院よりも、あるじの大臣に御馬奉り給ふ。院の御随身ども、けはひことにて、ほうだうの前の庭にひき出でたれば、衛門佐親朝、親継、二人うけとる。殿おり給ひて拝し給ふ。 岡屋兼経の大臣の御事なり その後賞行はる。左の大臣一品し給ふべき由、院の上自ら宣はすれば、また立ち出でて直衣を奉りながら、拝舞し給ふ。万御心ゆく限り遊びののしらせ給ひて、帰らせ給ふままに、左大臣殿兼平従一位し給ふ。殿の家司季頼四品ゆるさせ給ふ、いとこよなし。寛治には、良経正四位下、保元に、月輪殿従下の阿品をぞし給ひける。今の御有様は、かの古き例にも越えたり。いとめでたく面白し。還御の当日に、女房の装束皆具、色々にいと清らなる十具、各平づつみに長櫃にて、大納言の二位の曹司におくらる。又宰相の三位のもとへも別に遣はされけり。建久には夏なりしかば、一へがさね二十具ありけるを、思し出でけるにや。様々ゆゆしき事どもにて過ぎぬ。

この御るすの程に、二条油小路に火いできて、閑院殿のついがきの内なれば、内のおもの屋焼けて、神代より伝はれる御釜も、焼け損はれけるをぞ、いとあさましき事には申し侍りし。かの釜、昔は三つありけるを、一つをば平野、一つをば忌火、一つをば庭火と申しけるを、円融院の御代永観の頃、二つは失せにけり。今一つ残りたるに、かかる事の出できぬるは、いとよろしからぬわざなりとて、神祇官に尋ねられ、古き事ども考へらる。平野といひけるを、陰陽寮に据ゑて、みづのとの祭といふことに用ひけれど、中頃よりかの祭は絶えぬ。忌火といふにては、六月十二月の御神事の御膳をば調じけり。庭火にて、常の御膳をば仕うまつる。かかれば、いとたいだいしき事にて、初めはいもしに仰せらるべきかとも申す。古きを損はれたる所ばかりを、猶さるべきかとも、色々に定めかねられたり。入道太政大臣なども、古きをなほさるべしと、申さるとぞ聞えける。

その頃、宰相の三位の若宮 宗尊親王の御事なり 御書始とて、人々参り集ひ給ふ。七つにならせ給ふべし。関白殿をはじめ、大臣、上達部残りなし。十二月の二十五日なり。文章の博士序奉らる。管絃の具召されて、人々例のごと吹きあはせ給ふ。その後、文台めして、詩の披講ありき。勧盃の儀式、何事も保延の例とぞ承りし。

かくて年明けぬれば、宝治も三年になりぬ。春たちかへる朝の空の光は、思ひなしさへいみじきを、院、内の気色、誠にめでたし。摂政殿にも拝礼行はる。院の御前は更にもいはず、大宮院にもあり。まづ、冷泉万里小路殿といふは、鷲の尾の大納言隆親の家ぞかし。この頃、院のおはしませば、拝礼に人々参り給ふ。摂政殿、兼経 左大臣、兼平 右大臣、家忠 内大臣、実基 大納言には公相、実雄、顕定、道良、中納言に為経、良教、資季、冬忠、実藤、公光、通成、定嗣、宰相に通行、師継、顕朝、殿上人は、両貫首をはじめ数知らず。常の年々に越えて、この春は参りこみ給へり。人々立ちなみ給へる時、左の大臣は、摂政の御子なれば、引き退きて立ち給へり。右もまた、その同じつらに立たれたるに、内の大臣すすみ出で給へり。それにつぎて、大納言も同じつらなり。良教、公光、師継、顕朝、また退きて立ちたれば、出入して屏風に似たり。この事見にくしと、後まで、様々院の御前に仰せられて、摂政殿に尋ね申され、沙汰がましく侍りけるを、貞応元年の例などいできて、故野の宮左大臣、今の内の大臣の御親の、右大臣にて退きたるつらに立たれたりけるを、その時の記録など見給はざりけるにやとて、内の大臣の御ふるまひ、心えずとぞ沙汰ありける。院の拝礼果てて、内の小朝拝、節会などに、皆人々困じ給へるに、又大宮院の拝礼めでたくぞ侍りける。 四日は承明門院へ御幸はじめ、院の御様の、つきせずめでたく見えさせ給ふを、あく世なう、いみじと見奉らせ給ふ。浮織物の薄色の御指貫、紅の御衣奉れり。上達部、殿上人、直衣、上の衣、思ひ思ひなり。摂政殿も参り給ふ。夜に入りて帰らせ給ひぬれば、やがてやがて又、大宮院、内へ御幸はじめ、これも上達部、殿上人、ありつる限り残りなし。網代びさしに奉る。皇后宮の御方の東むきへ御車寄せて、宮御対面、いとめでたし。上は、まだいといわけなき御程にて、かくいつくしき万乗の主にそなはり給へる御有様を、女院も、いとやむごとなく、かたじけなしと見奉り給ふ。

皇后宮と聞ゆるは、これも院の御兄にて、位におはしましし時も、御母代など聞えさせ給ひしを、この御門幼く渡らせ給へば、今は、いとどまして、内にのみおはしまして、去年の八月より、皇后宮と聞ゆる、後には、仙華門院と聞えし御事なるべし。

院の若宮十三にならせ給ふは、公宗の中将といひし人の女の御腹なり。円満院の法親王の御弟子にならせ給ふべしとて、正月二十八日に、その御用意あり。承明門院より渡り給ふ。院の網代びさしの御車にて、上達部は車、具実の大納言を上首にて六人、殿上人十六人、馬にて、色々にいとよそほしう、めでたくておはしましぬ。その夜、やがて御ぐしおろして、御法名円助と聞ゆ。いとうつくしげさ、仏などの心地して、あはれに見え給ふ。院の宮達の御中には、御兄にてものし給へど、御外戚の弱きは、今も昔もかかるこそ、いといとほしきわざなりけれ。御匣殿の御腹の若宮も三にならせ給へる、承明門院にて、御魚味きこしめしなどすべし。これも法親王がねにてこそはものし給はめ。あまたの御中に、この御子は、御かたちすぐれ給へれば、院もいとらうたく思ひ聞えさせ給ひけり。

かくいふ程に、二月一日の夜、常よりも、九重の宮の内、人ずくなにて、大方、夜も静なるに、子の時ばかりに、閑院殿の二条おもての対より、火いできて、棟もえ落つる程にぞ、始めて見つけたる、あさましともなのめなる。何のたどりもなく、只あわて騒ぎ、我も人も移し心なければ、公直の中将の御とのゐに候ひけるが、車の陣なるを召して、皇后宮の御方へ寄す。内の上をば、御匣殿抱き奉らせ給ひて、宮も奉る。剣璽ばかりとり具して、門を急ぎ出でさせ給ふ。とばかりありて、権中納言実雄の参り給へりける車に召し移りて、春日富の小路に公相の大納言のおはする家に行幸なる。その程にぞ、摂政殿をはじめ、前の太政大臣、左大臣、内大臣より下残りなく人々参り集ひ給ふ。院も御車引き出でて見奉らせ給ふ。かかる程に、閑院殿より、春日は、方はばかりありとて、院のおはします万里小路殿へ、ひき返して行幸あり。夜明け果てて後、又前の太政大臣 実氏 の冷泉富の小路へ行幸なりて、しばし内裏になりぬ。内の焼くることは、これを始めにもあらず。世あがりての事はさしおきぬ。天徳四年、村上のさばかりめでたかりし御代よりこのかた、既に二十余度になりぬるにや。聖の御代にしも、かかる事は侍りしかど、承元に焼けにし後は、久しく、この四十四年はなかりつるに、去年の冬、御釜焼け損じて、又、かくうち続きぬるを、いとあさましう思す。何よりも、御門の御車に奉りて出でさせ給へるを、いたく例なき事とかやとて、人々かたぶき申す。院も驚き思されて、古き事ども広く尋ねられなどすべし。

院も内も、はひ渡る程の近さなれば、御とのゐの人々など、日頃よりも参り集ひて、御旅の雲井なれど、なかなか、いと顕証なり。北の対のつまなる紅梅の、いと面白く咲きたるが、院の御前より御覧じやらるる程なれば、雅家の宰相の中将して、いと艶になよびたる薄様に書かせ給ひて、院の上、

色も香も重ねてにほへ梅の花九重になる宿のしるしに

とて、かの梅に結びつけさせらる。御返し、弁の内侍うけたまはりて、申すべしと聞き侍りしを、なのめなりといふ事にて、大臣、今出川より申されけるとかや。それも忘れ侍りぬるこそ口惜しけれ。老はかくうきものにぞ侍るや。

世の中とかく騒がしとて、年号かはる。三月十八日建長になりぬれど、猶火災しづまらで、二十三日、またまた、姉小路室町、唐橋の大納言雅親の家のそばより火いできて、百余町焼けたり。夥しともいふ方なし。

寛元四年の六月にも、恐ろしき火侍りしかど、この度は、猶それよりも越えたり。かの雅親の大納言の家ばかり、四方は皆焼けたるに残れる、いといと不思議なりとぞ、見る人ごとにあざみける。暁より出できたる火、夜に入るまで消えず、未の時ばかりに、蓮華王院の御堂に燃えつきければ、俄に、院も御幸なる。御道すがらも、さながら煙を分けさせ給ふ。いとめづらかにあさまし。摂政殿も御車に参り給へり。三十三間の御堂の千体の千手、一時のほのほにたぐひ給へば、不動堂、北斗堂も残らず、宝蔵、鎮守ばかりぞ、辛うじてうちけちにける。後白河の院の、さばかり御志深う思ほし立ちて、長寛二年供養ありし後は、やむごとなき御寺なりつるに、あさましなどいふもおろかなり。又、今熊野の鐘楼、僧坊など、多く焼けぬ。つじ風さへ吹きまじり吹きまじり、ほのほの飛ぶこと鳥の如し。またの朝まで燃えけり。その昼つ方、さきの火もえつきて後、双林寺といふわたりに、火いできて、なにがしの姫君の御もと、古き昔の跡、皆、けぶりになりぬ。その火消えて後、又、夕つかた岡崎わたりに火いできて、摂政殿の御もと、少々焼けけり。又、承明門院の近き程にも、火いできて、人々参り集ふ。中御門より二条まで、また、火出できて、十八町焼けぬ。すべて二十三日よりつごもりに及ぶまで、日をへ時をへて、あるは一日に二三度、二むら三むらにわけて燃えあがる。かかる程に、都は既に三分の二焼けぬ。いといと珍らかなりし事なり。ただ事にあらずとて、院の御前に、陰陽師七人召して、御占行はる。重き御つつしみと申せば、御修法どもはじめ、山々にも、御祈り仕う奉るべき由、こと更に仰せらる。 院の上の御有様の、万にめでたくおはしますを思ふには、何の御つつしみも、なでふ事かあらんとぞ覚え侍る。位おりさせ給ひにし後は、年を経て、春の中に、必ずまづ石清水に七日御こもり、その中に、五部の大乗経供養せさせ給ふ。御下向の後は、やがて賀茂に御幸、平野、北野なども、さだまれる御事なり。寺には嵯峨の清涼寺、法輪、太秦などに御幸ありて、寺司に賞行はれ、法師ばらに物かづけ、すべて神を敬ひ仏を尊びさせ給ふこと、来しかたも、行末も、例あらじとぞ、世の人申しあひける。

鳥羽殿も、近頃はいたう荒れて、池も水草がちにうもれたりつるを、いみじう修理し磨かせ給ひて、はじめて御幸なりし時、「池の辺の松」といふ事講ぜられしに、太政大臣、序を書き給へりき。「夫鳥羽、仙洞三五累聖、離宮一百余載」とかや。又、御身のいみじき事には、「蓬の髪霜寒くて七代に伝へたり」と侍りしこそめでたけれ。

祝ひおく始めと今日を松が枝の千年の影に澄める池水

院の御製、影うつす松にも千代の色見えて今日すみそむるやどの池水

大納言の典侍と聞えしは、為家の民部卿の娘なりしにや。

色かへぬ常盤の松の影添へて千代に八千代に澄める池水

ずん流るめりしかど、例のうるさければなん。御前の御遊び始まる程、そり橋のもとに、龍頭鷁首寄せて、いと面白く吹きあはせたり。かやうの事、常の御遊び、いとしげかりき。

又、太政大臣の津の国吹田の山荘にも、いとしばしばおはしまさせて、様々の御遊び数を尽し、いかにせむともてはやし申さる。河に臨める家なれば、秋深き月の盛りなどは、ことに艶ありて、門田の稲の風に靡く気色、妻どふ鹿の声、衣うつ砧の音、峰の秋風、野辺の松虫、とり集め、あはれそひたる所の様に、鵜飼などおろさせて、かがり火どもともしたる川のおもて、いと珍しうをかしと御覧ず。日頃おはしまして、人々に十首の歌召されしついでに、院の御製、

川舟のさしていづくか我がならぬ旅とはいはじ宿と定めん

と講じあげたる程、主の大臣いみじう興じ給ふ。「此の家の面目今日に侍る」とぞ宣はする。げにさる事と、聞く人皆誇らしくなん。

降り居給へる太上天皇など聞ゆるは、思ひやりこそ、大人びさだ過ぎ給へる心地すれど、未だ三十にだに満たせ給はねば、万若う愛敬づき、めでたくおはするに、時のおとなにて重々しかるべき太政大臣さへ、何わざをせんと、御心にかなふべき御事をのみ思ひまはしつつ、いかで珍しからんと、もて騒ぎ聞え給へば、いみじうはえばえしき頃なり。御門、まして幼くおはしませば、はかなき御遊びわざより外の御営み無し。摂政殿さへ若く物し給へば、夜昼候ひ給ひて、女房の中にまじりつつ、乱碁・貝おほひ・手まり・へんつきなどやうの事どもを、思ひ思ひにしつつ、日を暮らし給へば、候ふ人々も、うち解けにくく心づかひすめり。

節会・臨時の祭り、何くれの公事どもを、女房にまねばせて御覧ずれば、太政大臣興じ申し給ひて、ことさら、小さき笏など作らせてあまた奉り給へば、上も喜び思す。入道太政大臣の御娘大納言の三位殿といふを関白になさる。按察の典侍隆衡の女・大納言の典侍・中納言典侍・勾当の内侍・弁の内侍・少将の内侍、かやうの人々、皆男の官にあてて、其の役をつとむ。「いとからい事」とて、わびあへるもをかし。中納言の典侍を権大納言実雄の君になさるるに、「したうづはく事、いかにもかなふまじ」とて、曹司に下るるに、上もいみじう笑はせ給ふ。弁の内侍、葦の葉に書きて、彼の局にさし置かせける。

津の国の葦の下根のいかなれば波にしをれて乱れがほなる

返し、

津の国の葦の下根の乱れわび心も波にうきてふる哉

五月五日、所々より御かぶとの花・薬玉など、色々に多く参れり。朝餉にて、人々これかれ引きまさぐりなどするに、三条の大納言公親の奉れる、根に露おきたる蓬の中に、ふかきといふ文字を結びたる、糸の様もなよびかに、いと艶ありて見ゆるを、上も御目とどめて、「何とまれ、いへかし」と宣ふを、人々も、およすけて見奉るを、弁の内侍、

あやめ草底知ら沼の長き根にふかきといふや蓬生の露

と、ありつる使ひ、はや帰りにければ、蔵人を召して、殿上より遣はしけり。御返り、公親、

あやめ草底知ら沼の長き根を深き心にいかがくらべん

又其の頃、天王寺に院の詣でさせ給ふついでに、住吉へも御幸あり。「神はうれし」と、後三条院仰せられけん例、思ひ出でられ侍りき。大宮院も御参りなれば、出車ども、色々の袖口ども、春秋の花紅葉を、一度に並べて見る心地して、いと美しく、目も輝くばかりいどみ尽されたり。上達部・若き殿上人などは、例の狩襖、裾濃の袴など、珍しき姿どもを、心々にうちまぜたり。釣殿の簀子に、人々候ひて、あまた聞えしかど、さのみはいかでか。太政大臣実氏、

今日やまた更に千とせを契らん昔にかへる住吉の松

さても、院の第一の御子は、右中弁平の棟範の主の女、四条院に兵衛の内侍とて候ひしが、剣璽につきて渡り参れりしを、忍び忍び御覧じける程に、其の御腹に出で物し給へりしかど、当代生れさせ給ひにし後は、おし消たれておはしますに、また建長元年、后腹に二の宮さへさし続き光り出で給へれば、いよいよ今は思ひ絶えぬる御契りの程を、私物にいとあはれと思ひ聞えさせ給ふ。源氏にやなし奉らましなど思すに、猶飽かねば、只御子にて、東の主になし聞えてんと思して、建長四年正月八日、院の御前にて御冠し給ふ。御門の御元服にもほとほと劣らず。内蔵寮何くれ、清らを尽し給ふ。やがて三品の位賜はり給ふ。御年十一なるべし。中務の卿宗尊親王と申すめり。

同じ二月十九日に、都を出で給ふ。其の日将軍の宣旨冠り給ふ。かかる例は未だ侍らぬにや。上下、珍しく面白き事にいひ騒ぐべし。御迎へに東の武士どもあまた上り、六波羅よりも名ある者十人、御送に下る。上達部・殿上人・女房など、あまた参るも、「院中の奉公にひとしかるべし。かしこに候ふとも、限りあらん官冠りなどは、障りあるまじ」とぞ仰せられける。何事も、只人がらによると見えたり。きはことによそほしげなり。誠に大やけとなり給はずば、これよりまさる事、何事かあらん。にぎははしく花やかさは並ぶ方無し。院の上も、忍びて、粟田口のほとりに御車立てて御覧じ送りけるこそ、あはれに忝なく侍れ。きびはに美しげにて、はるばるとおはしますを、御母の内侍は、あはれに忝なしと思ひ聞ゆべし。かかれば、もとの将軍頼嗣三位中将は、其の四月に都へ上り給ひぬ。いとほしげにぞ見え給ひける。さて、今下り給へるを、もてあがめ奉る様、いはん方無し。宮の中のしつらひ、御まうけの事など限りあれば、善見天の殊妙の荘厳もかくやとぞ覚えける。かやうにて今年は暮れぬ。

明くる年は建長五年なり。正月十三日御門御冠し給ふ。御年十一、御諱久仁と申す。いとあてにおはしませど、あまりささやかにて、又御腰などの怪しく渡らせ給ふぞ、口惜しかりける。いはけなかりし御程は、猶いとあさましうおはしましけるを、閑院の内裏焼けけるまぎれより、うるはしく立たせ給ひたりければ、内の焼けたるあさましさは何ならず、此の御腰の直りたる喜びをのみぞ、上下思しける。

院の上、鳥羽殿におはします頃、神無月の十日頃、朝覲の行幸し給ふ。世にある限りの上達部・殿上人仕うまつる。色々の菊紅葉をこきまぜて、いみじう面白し。女院もおはしませば、拝し奉り給ふを、太政大臣見奉り給ふに、喜びの涙ぞ人わろき程なる。

例なき我が身よいかに年たけてかかるみゆきに今日仕へつる

げに、大方の世につけてだに、めでたくあらまほしき事どもを、我が御末と見給ふ大臣の心地、いかばかりなりけむ。

来し方も例なきまで、高麗・唐土の綾錦を立ち重ねたり。太政大臣ばかりぞねび給へれば、裏表白き綾の下襲を着給へるしも、いとめでたくなまめかし。池には、うるはしく唐のよそひしたる御船二艘漕ぎ寄せて、御遊び様々の事どもめでたくののしりて、帰らせ給ふひびきのゆゆしさを、女院も御心ゆきてきこしめす。

其の頃ほひ、熊野の御幸侍りしにも、よき上達部あまた仕うまつらせ給ふ。都出でさせ給ふ日、例の桟敷など、心ことにいどみかはすべし。車は立てぬ事なりしかど、大宮院ばかり、それも出車はなくて、只一両にて見奉り給ひしこそ、やん事なさも面白く侍りけれ。弁の内侍、

折りかざすなぎの葉風の賢さに一人道ある小車の跡

御幸、熊野の本宮につかせ給ひて、それより新宮の川舟に奉りてさし渡す程、川のおもて所せきまで続きたるも、御覧じなれぬ様なれば、院の上、

熊野川瀬ぎりに渡す杉舟のへなみに袖のぬれにける哉

其の後も、又程無く御幸ありしかば、女院も参り給ひけり。皆人しろしめしたらん事、中々にこそ。

増鏡 7 おりゐる雲

7 おりゐる雲

春過ぎ夏たけ、年去り年きたれば、康元元年にもなりにけり。太政大臣の第二の御娘、〈 東二条院公子 〉女御に参り給ふ。女院の御はらからなれば、過ぐし給へる程なれど、かかる例はあまた侍るべし。十二月十七日、豊の明かりの頃なれば、内わたり花やかなるに、いとどうち添へて今めかしうめでたく、其の日御消息を聞え給ふ。

夕暮にまつぞ久しき千年までかはらぬ色の今日の例を

関白書かせ給ひけり。紅のにほひの箔もなき、八重に重ねたるを、結びて包まれたり。時成りぬとて人々まう上りあつまる。女御の君、裏濃き蘇芳七・濃き一重・蘇芳の表着・赤色の唐衣・濃き袴奉れり。准后添ひて参り給ふ。皆紅の八・萌黄の表着・赤色の唐衣き給ふ。出車十両、皆二人づつ乗るべし。一の車、左に一条殿太政大臣の娘、右に二条殿公俊の大納言の女、二の左按察君隆衡〔の大納言〕の女、右に中納言の君実任の娘、三の左に民部卿殿、右別当殿、其の次々くだくだしければとどめつ。御童・下仕へ・御はした・御雑仕・御ひすましなどいふ物まで、かたちよきをえりととのへられたる、いみじう見所あるべし。御兄の殿原、右大臣公相・内大臣公基参り給ふ。限りなくよそほしげなり。院の御子にさへし奉らせ給へれば、

いよいよいつかれ給ふ様、いはん方無し。侍賢門院の、白河院の御子とて、鳥羽院に参り給へりし例にやとぞ、心あてには覚え侍りし。院の一つ御腹の姫君、此の頃皇后宮とて、其の御方の内侍ぞ、御使ひに参る。まう上り給ふ程も、女御はいとはづかしく、似げなき事に思したれば、とみにはえ動かれ給はぬを、人々そそのかし申し給ふ。御太刀一条殿、御木丁按察殿、御火とり中納言持たれたり。上は十四になり給ふに、女御は二十五にておはしける。御門、きびはなる御程を、中々、あなづらはしきかたに思ひなし聞え給ひぬべかりつるに、いとざれて、つつましげならず聞えかかり給ふを、准后は美しと見奉らせ給ふ。御衾は、紅のうち八四方なるに、上にはうはざしの組あり。糸の色など、清らにめでたし。例の事なれば、准后奉り給ふ。太政大臣も、三日が程は候ひ給ふ。上達部に勧盃あり。

二十三日、又御消息参る。御使ひ頭の中将通世、こたみも殿書かせ給ふめり。此の頃、殿と聞ゆるは、太政大臣兼平の大臣、岡の屋殿の御弟ぞかし。後には照念院〔殿〕と申しけり。御手勝れてめでたく書かせ給ひしよ。鷹司殿の御家の始めなるべし。

朝日影今日よりしるき雲の上の空にぞ千代の色も見えける

御返し、太政大臣聞え給ふ。

朝日影あらはれそむる雲の上に行すゑ遠き契をぞしる

女の装束、細長添へてかづけ給ふ。

今日はじめて、内の上、女御の御方に渡らせ給ふ。御供に関白殿・右大臣公相・内大臣公基・四条の大納言隆親・権大納言実相良教通成・左大将基平など、おしなべたらぬ人々参り給ふ。餅の使ひ、頭中将隆顕仕うまつる。太政大臣、夜の御殿よりとりいれ給ふ。御心の中のいはひ、いかばかりかとおしはからる。人々の禄、紅梅のにほひ・萌黄の表着・葡萄染めの唐衣・袿・細長・こしざしなど、しなじなに従ひて、けぢめあるべし。

かくて今年は暮れぬ。正月、いつしか后に立ち給ふ。只人の御女の、かく后・国母にて立ち続き候ひ給へる、例稀にやあらん。大臣の御栄えなめり。御子二人大臣にておはす。公相・公基とて、大将にも左右に並びておはせしぞかし。これも、例いとあまたは聞えぬ事なるべし。我が御身太政大臣にて、二人の大将を引き具して、最勝講なりしかとよ、参り給へりし御勢ひのめでたさは、めづらかなる程にぞ侍りし。后・国母の御親、御門の御祖父にて、誠に其の器物に足りぬと見え給へり。昔後鳥羽院に候ひし下野の君は、さる世のふるき人にて、大臣に聞えける。

藤波の影さしならぶ三笠山人にこえたる梢とぞ見る返し、大臣、

思ひやれ三笠の山の藤の花咲きならべつつ見つる心を

かかる御家の栄えを、自らもやんごとなしと思しつづけてよみ給ひける。

春雨は四方の草木をわかねどもしげきめぐみは我が身也けり

正嘉元年の春の頃より、承明門院御悩み重らせ給へば、院もいみじう驚かせ給ひて、御修法何かと聞えつれど、遂に七月五日、御年八十七にてかくれさせ給ひぬ。ことわりの御年の程なれど、昔の御名残とあはれにいとほしう、いたづき奉らせ給ひつるに、あへなくて、御法事など懇ろにおきて宣はする、いとめでたき御身なりかし。明くる年八月七日、二の皇子〈 亀山の院 〉坊にゐ給ひぬ。御年十なり。万定まりぬる世の中、めでたく心のどかに思さるべし。

其のまたの年、正嘉三年三月二十日なりしにや、高野御幸こそ、又来し方行くすゑも例あらじと見ゆるまで、世の営み、天の下の騒ぎには侍りしか。関白殿・左右大臣・内大臣・左右の大将・検非違使の別当を始めて、残るは少なし。馬・鞍、随身・舎人・雑色・童の、髪・かたち・たけ・姿まで、かたほなるなくえりととのへ、心を尽くしたるよそほひども、かずかずは筆にも及び難し。かかる色もありけりと、珍しく驚かるる程になん。銀・黄金を延べ、二重三重の織物・縫物、唐・大和の綾錦、紅梅の直衣、桜の唐の木の紋・裾濃・浮線綾、色々様々なりし上の衣・狩衣、思ひ思ひの衣を出だせり。いかなる龍田姫の錦も、かかる類はありがたくこそ見え侍りけれ。かたみに語らふ人はあらざりけめど、同じ紋も色も侍らざりけるぞ、不思議なる。あまりに染め尽して、某の中将とかや、紺村濃の指貫をさへぞ着たりける。それしもめづらかにて、いやしくも見え侍らざりけるとかや。院の御様かたち、所がらはいとど光を添へて、めでたく見え給ふ。後土御門の内大臣定通の御子の顕定の大納言、大将望み給ひしを、院もさりぬべくおほせられければ、除目の夜、殿の内の者どもも心づかひして、侍るを心もとなく思ひあへるに、引きたがへて、先に聞えつる公基の大臣におはせしやらん、なり給へりしかば、怨みに堪えず、頭おろして、此の高野に篭り居給へるを、いとほしくあへ無しと思されければ、今日の御幸のついでに、彼の室を尋ねさせ給ひて、御対面あるべく仰せられ遣はしたるに、昨日までおはしけるが、夜の間に、彼の庵をかきはらひ、跡もなくしなして、〔いと〕清げに、白き砂ばかりを、ことさらに散らしたりと見えて、人も無し。我が身は桂の葉室の山庄へ逃げ上り給ひにけり。その由奏しければ、「今更に見えじとなり、いとからい心かな」とぞ、宣はせける。

かくのみ所々に御幸しげう、御心ゆく事隙なくて、いささかも思し結ぼるる事もなく、めでたき御有様なれば、仕うまつる人々までも、思ふ事なき世なり。吉田の院にても、常は御歌合などし給ふ。鳥羽殿には、いと久しくおはします折のみあり。春の頃、御幸ありしには、御門も御鞠に立たせ給へり。二条の関白良実上鞠し給ひき。内の女房など召して、池の御船に乗せて、物の音ども吹きあはせ、様々の風流の破子・引出物など、こちたき事どももしげかりき。又嵯峨の亀山のふもと、大井川の北の岸にあたりて、ゆゆしき院をぞ造らせ給へる。小倉の山の梢、戸無瀬の滝も、さながら御垣の内に見えて、わざとつくろはぬ前栽も、おのづから情けを加へたる所がら、いみじき絵師といふとも、筆及び難し。寝殿のならびに、乾にあたりて、西に薬草院、東に如来寿量院などいふもあり。橘大后の昔建てられたりし壇林寺といひし、今は破壊して礎ばかりになりたれば、其の跡に浄金剛院といふ御堂を建てさせ給へるに、道観上人を長老になされて、浄土宗を置かる。天王寺の金堂うつさせ給ひて、多宝院とかや建てられたり。川に臨みて桟敷殿造らる。大多勝院と聞ゆるは、寝殿の続き、御持仏すゑ奉らせ給へり。かやうの引き離れたる道は、廊・渡殿・そり橋などを遙かにして、すべていかめしう三葉四葉に磨きたてられたる、いとめでたし。

正元元年三月五日、西園寺の花ざかりに、大宮院、一切経供養せさせ給ふ。年頃思しおきてけるをも、いたくしろしめさぬに、女の御願にて、いと賢く、ありがたき御事なれば、院も同じ御心にゐ立ち宣ふ。楽屋の者ども、地下も殿上も、なべてならぬをえりととのへらる。其の日になりて行幸あり。春宮も同じく行啓なる。大臣・上達部、皆上の衣にて、左右にわかれて、御階の間の勾欄に著き給ふ。法会の儀式、いみじくめでたき事ども、まねび難し。

又の日、御前の御遊び始まる。御門〈 後深草院 〉御琵琶、春宮御笛、まだいと小さき御程に、びむづら結ひて、御かたちまほに美しげにて、吹きたて給へる音の、雲井を響かして、あまり恐ろしき程なれば、天つ乙女もかくやと覚えて、太政大臣〔実氏〕、事忌みも〔え〕し給はず、目おしのごひつつためらひかね給へるを、ことわりに、老しらへる大臣・上達部など、皆御袖どもうるほひ渡りぬ。女院の御心の内、ましておき所なく思さるらんかし。前の世に、いかばかり功徳の御身にて、かく思す様にめでたき御栄えを見給ふらんと、思ひやり聞ゆるも、ゆゆしきまでぞ侍りし。御遊び果てて後、文台めさる。院の御製、

色々に枝をつらねて咲きにけり花も我が世も今盛りかも

あたりをはらひて、きはなくめでたく聞こえけるに、主の大臣、歌さへぞ、かけあひて侍りしや。

色々にさかへて匂へ桜花我君々の千代のかざしに

末まで多かりしかど、例のさのみはにて、とどめつ。いかめしうひびきて帰らせ給ひぬる又の朝、無量光院の〔花の〕もとにて、大臣、昨日の名残思し出づるもいみじうて、

此の春ぞ心の色はひらけぬる六十あまりの花は見しかど

其の年の八月二十八日、春宮十一にて御元服し給ふ。御諱恒仁と聞ゆ。世の中に様々ほのめき聞ゆる事あれば、御門は飽かず心細う思されて、夜居の間の静かなる御物語のついでに、内侍所の御拝の数をかぞへられければ、五千七十四日なりけるを承りて、弁の内侍、

千代といへば五つ重ねて七十に余る日数を神は忘れじ

かくて、十一月二十六日、おり居させ給ふ夜、空の気色さへあはれに、雨うちそそぎて、物悲しく見えければ、伊勢の御が、「あひも思はぬももしきを」といひけんふる事さへ、今の心地して、心細くおぼゆ。上も思しまうけ給へれど、剣璽の出でさせ給ふ程、常の御幸に御身を離れざりつるならひ、十三年の御名残、引きわかるるは、猶いとあはれに、忍びがたき御気色を、悲しと見奉りて、弁の内侍、

今はとており居る雲のしぐるれば心の内ぞかき暗しける

増鏡 8 山のもみぢ葉

8 山のもみぢ葉

正元元年十一月二十六日、譲位の儀式常のごとし。十二月二十八日御即位。万めでたく、あるべき限りにて、年もかへりぬ。おりゐの御門は、十二月の二日、太上天皇の尊号ありて新院と聞ゆ。本院と常は一つに渡らせ給ひて、御遊びしげう心やりて、中々いとのどやかにめやすき御有様に、思しなぐさむやうなり。中宮も、院号の後は、東二条院と聞ゆ。二条富小路にぞ渡らせ給ふ。太政大臣も入道し給ひぬ。常盤井とて、大炊御門京極なる所にぞ、折々住み給ふ。此の入道殿の御弟に、其の頃、右大臣実雄と聞ゆる、姫君あまた持ち給へる中に、すぐれたるをらうたき物に思しかしづく。今上の女御代に出で給ふべきを、やがて其のついで、文応元年、入内あるべく思しおきてたり。院にも御気色賜はり給ふ。入道殿の御孫の姫君も、参り給ふべき聞えはあれど、さしもやはと、おし立ち給ふ。いとたけき御心なるべし。

此の姫君、御兄あまたものし給ふ中の兄にて、中納言公宗と聞ゆる、いかなる御心かありけむ、したたく煙にくゆりわび給ふぞ、いとほしかりける。さるは、いとあるまじき事と思ひはなつにしも、従はぬ心の苦しさを、起き臥し葦のねなきがちにて、御いそぎの近づくにつけても、我彼の気色にてのみほれ過し給ふを、大臣は又いかさまにかと苦しう思す。初秋風気色だちて、艶なる夕暮に、大臣渡り給ひて見給へば、姫君、うす色に女郎花など引き重ねて、木丁に少しはづれてゐ給へる様かたち、常よりもいふ由なく、あてに匂ひ満ちて、らうたく見え給ふ。御髪いとこちたく、五重の扇とかやを広げたらん様して、少し色なるかたにぞ見え給へど、筋こまやかに、額より裾までまがふ筋なく美し。只人には、げに惜しかりぬべき人がらにぞおはする。木丁おしやりて、わざとなく拍子うちならして、御箏弾かせ奉り給ふ。折しも中納言参り給へり。「こち」と宣へば、うちかしこまりて、御簾の内に候ひ給ふ様かたち、此の君しもぞ又いとめでたく、あくまでしめやかに、心の底ゆかしう、そぞろに心づかひせらるるやうにて、こまやかになまめかしう、すみたる様して、あてに美し。いとどもてしづめて、騒ぐ御胸を念じつつ、用意を加へ給へり。笛少し吹きなどし給へば、雲井にすみ上りて、いと面白し。御箏の音のほのかにらうたげなる、かきあはせの程、中々聞きもとめられず、涙浮きぬべきを、つれなくもてなし給ふ。撫子の露もさながらきらめきたる小袿に、御髪はこぼれかかりて、少し傾きかかり給へる傍め、まめやかに、光をはなつとは、かかるをやと見え給ふ。よろしきをだに、人の親はいかがは見なす。ましてかく類なき御有様どもなめれば、よに知らぬ心の闇にまよひ給ふも、ことわりなるべし。

十月二十二日、参り給ふ儀式、これもいとめでたし。出車十両、一の車の左は大宮殿二位の中将基輔の女、〔三位の中将実平の女〕とぞ聞えし。二の左は春日、三位の中将実平の女。右は新大納言、此の新大納言は、為家の大納言の女とかや聞こえしにや。それより下は、〔まして〕くだくだしければむつかし。御雑仕、青柳・梅が枝・高砂・貫川といひし。此の貫川を、御門忍びて御覧じて、姫宮一所出で物し給ひき。其の姫宮は、末に近衛の関白〈 家基 〉の北政所になり給ひにき。万の事よりも、女御の御様かたちのめでたくおはしませば、上も思ほしつきにたり。女御は十六にぞなり給ふ。御門は十二の御年なれど、いと大人しくおよすけ給へれば、めやすき御程なりけり。彼の下くゆる心地にも、いと嬉しき物から、心は心として、胸のみ苦しきさまなれば、忍びはつべき心地し給はぬぞ、遂にいかになり給はんと、いとほしき。程もなく后立ちありしかば、大臣、心ゆきて思さるる事限り無し。

西園寺の女御も、さし続きて参り給ふを、いかさまならんと御胸つぶれて思せど、さしもあらず。これも九にぞなり給ひける。冷泉の大臣公相の御女なり。大宮院の御子にし給ふとぞ聞えし。いづれも離れぬ御中に、いどみきしろひ給ふ程、〔いと〕聞きにくき事もあるべし。宮仕へのならひ、かかるこそ昔人は面白くはえある事にし給ひけれど、今の世の人の御心どもは、あまりすくよかにて、みやびをかはす事のおはせぬなるべし。これも后に立ち給へば、もとの中宮はあがりて、皇后宮とぞ聞え給ふ。今の后は遊びにのみ心入れ給ひて、しめやかにも見え奉らせ給はねば、御覚え劣りざまに聞ゆるを、思はずなる事に、世の人もいひさたしたり。父大臣も、心やましく思せど、さりともねび行き給はばと、只今は怨み所なく思しのどめ給ふ。

かくて、弘長三年二月の頃、大方の世の気色もうららかに霞み渡るに、春風ぬるく吹きて、亀山殿の御前の桜ほころびそむる気色、常よりもことなれば、行幸あるべく思しおきつ。関白二条殿良実、此の三年ばかり又返りなり給へば、御随身ども花を折りて、行幸よりも先に参りまうけ給ふ。其のほかの上達部も、例のきらきらしき限り、残るは少なし。新院も両女院も渡らせ給ふ。御前の汀に船ども浮かべて、をかしき様なる童、四位の若き程乗せて、花の木かげより漕ぎ出でたる程、二なく面白し。舞楽様々曲など手を尽されけり。御遊の後、人々歌奉る。「花契遐年」といふ題なりしにや。内の上の御製、

尋ね来てあかぬ心にまかせなば千とせや花のかげに過ごさん

かやうのかたまでも、いとめでたくおはしますとぞ、古き人々申すめりし。かへらせ給ふ日、御贈り物ども、いと様々なる中に、延喜の御手本を、鴬のゐたる梅の造り枝につけ奉らせ給ふとて、院の上〈 後嵯峨 〉

梅が枝に代々の昔の春かけてかはらず来居る鴬の声

御返しを忘れたるこそ、老のつもり、うたて口惜しけれ。

其の年にや、五月の頃、本院、亀山殿にて如法経書かせ給ふ。いとありがたくめでたき御事ならんかし。後白河院こそかかる御事はせさせ給ひけれ。それも御髪おろして後の事なり〔けり〕。いとかく思し立たせ給へる、いみじき御願なるべし。さるは、あまた度侍りしぞかし。男は、花山院の中納言師継一人候ひ給ひける。やんごとなき顕密の学士どもを召しけり。昔、上東門院も行はせ給ひたりし例にや、大宮院、同じく書かせおはしますとぞ承りし。十種供養果てて後は、浄金剛院へ御自ら納めさせ給へば、関白・大臣・上達部歩み続きて御供仕うまつられけるも、様々珍しく面白くなん。

其の年九月十三夜、亀山殿の桟敷殿にて、御歌合せさせ給ふ。かやうの事は、白河殿にても鳥羽殿にても、いとしげかりしかど、いかでかさのみはにて、皆もらしぬ。此の度は、心ことに磨かせ給ふ。右は関白殿にて歌ども撰りととのへらる。左は院の御前にて御覧ぜられける。此の程殿と申すは、円明寺殿〈 又一条殿と申す 〉の御事なり。新院の御位の初めつかた、摂政にていませしが、又此の一年ばかり、かへりならせ給へり。前の関白殿は、院の御方に候はせ給ふ。其の外すぐれたる限り。右は関白殿・今出川の太政大臣・皇后宮の御父の左大臣殿より下、皆此の道の上手どもなり。左は大殿よりかずだてつくりて、風流の州浜、沈にて作れる上に、白金の舟二に、色々の色紙を書き重ねてつまれたり。数も沈にて作りて舟に入れらる。左右の読師、一度に御前に参りてよみあぐ。左具氏の中将、右行家なり。山紅葉、本院の御製、

外よりは時雨もいかが染めざらん我が植ゑて見る山のもみぢ葉

遂に、左御勝ちの数まさりぬ。披講果てて夜深け行く程に、御遊び始まる。笛は花山院の中納言長雅・茂道の中将、笙は公秋の中将にておはせしにや。篳篥は忠輔の中将、琵琶は太政大臣〈 公相 〉、具氏の中将も弾き給ひけるとぞ。御簾の内にも御箏どもかきあはせらる。東の御方と聞えしは、新院の若宮の御母君にや。刑部卿の君もひかれけり。楽のひまひまに、太政大臣・土御門の大納言通成など朗詠し給ふ。忠輔・公顕、声加へたる程面白し。河浪も深けゆくままにすごう、月は氷をしける心地するに、嵐の山の紅葉、夜の錦とは誰かいひけん、吹きおろす松風にたぐひて、御前の簀子にて、御酒参るかはらけの中などに散りかかる、わざと艶なることのつまにもしつべし。若き人々は、身にしむばかり思へり。うち乱れたる様に、各御かはらけどもあまた度下る。明け行く空も名残多かるべし。

誠や、此の年頃、前内大臣〈 基家 〉、為家の大納言入道・侍従二位行家・光俊の弁の入道など、承りて、撰歌の沙汰ありつる、只今日明日ひろまるべしと聞ゆる、面白うめでたし。彼の元久の例とて、一院自ら磨かせ給へば、心ことに、光そひたる玉どもにぞ侍るべき。年月に添へては、いよいよ、外ざまに分くる方なく、栄えのみまさらせ給ふ御有様のいみじきに、此の集の序にも、「やまと島根はこれ我が世なり、春風に徳を仰がんと願ひ、和歌の浦も又我が国也、秋の月に道をあきらめん」とかや書かせ給へりける、げにぞめでたきや。金葉集ならでは、御子の御名のあらはれぬも侍らねど、此の度は、彼の東の中務の宮の御名のりぞ書かれ給はざりける、いとやんごとなし。新古今の時ありしかばにや、竟宴といふ事行はせ給ふ、いと面白かりき。此の集をば、続古今と申すなり。

増鏡 9 北野の雪

9 北野の雪

文永も三年になりぬ。卯月に、蓮華王院の供養に御幸あり。一の院は、あか色の上の御ぞ、新院は、青色の御袍奉れり。女院 大宮 の御車に、平准后も参り給ふ。人だまひ三輛は、綿入れる五つぎぬなり。御車の尻に仕うまつられたる上臈だつ人のにや。あはせの五つぎぬ、藤のうはぎ、袖口出さる。御幸には、上達部は、皇后宮の大夫師継を上首にて十人、殿上人十二人、御随身ども、藤、山吹をつけたり。居飼、御厩舎人まで、世になくきらめきたり。常の見物に過ぎたるべし。行幸は、当日の午の時ばかりなるに、諸司百官残るなし。左右の大臣、薄色、蘇芳などなり。右大将通雅、花橘の下襲、権中納言公藤、同じ色、左大将家経、蘇芳の下襲、萌黄の上の袴、侍従の中納言為氏、権中納言通基、左衛門の督通頼、衣笠の宰相の中将経平、これらは、皆蘇芳の下がさね、萌黄の上の袴なり。別当高定、宰相の中将通持、三位の中将実兼、右衛門の督師親、殿上人には、頭中将具氏、忠秀、この人々は、松重の下がさね、藤の上のはかま、同じ色なる、念なしとぞ沙汰ありける。具氏は、花橘の下がさねを著給へりしと、申す人も侍りしは、いづれか誠なりけん。近衛の将曹二十四人、とりどり色々に織り尽したる、めでたかりけり。関白殿御事にて参り給ふ。まづ女院の御車東の廂の北の妻戸へ、左右大臣寄せらる。院司の大納言通成、事の由を奏せられて、楽屋の乱声など、常の如し。御寺の儀式、ありし法勝寺にかはらず。御導師は聖基僧正、御方々の引出物ども、いとゆゆしう、法師ばらのたけとひとしき程に、積み重ねたり。万歳楽、地久など、賞仰せらる。人々の禄、関白殿には、織物の袿一重ね、蔵人頭とりて奉る。大臣には綾の袿、納言は平絹なり。御門新院、御対面の儀式など、定めて男の記録に侍らんかし。御願文の清書は経朝の三位、料紙は紫の色紙、額は、かの建て始められし長寛に、教長書きたりけるが、焼けざりければ、この度も、それをぞ用ひられける。

かくて、少し人々の心のどかに、うちしづまりて思さるるに、東に、何事にか、煩しき事出できにたりとて、将軍 宗尊親王 七月八日、俄なるやうにて、御上りありけり。かねては、始めて御上りあらん時の儀式など、二なくめでたかるべき由をのみ聞きしに、思ひかけぬ程に、いとあやしき御有様にて、御上りあり。御下りの折、六波羅の北の方に建てられたりし檜皮屋に、落ちつかせおはしましぬ。この頃、東に世の中おきてはからふ主は、相模の守時宗と、左京の権の大夫政村朝臣なり。時宗といふは、時頼朝臣の嫡子、政村とは、ありし義時の四郎なり。京の南六波羅は、陸奥の守時茂、式部の大輔時輔とぞ聞ゆる。

中務の御子の御上りの代はりに、かの御子の三つになり給ふ若君達、近衛殿の姫君の御腹ぞかし。七月二十七日に、将軍の宣旨蒙らせ給ひて、やがて四品し給ふ。経任の中納言を御使にて、東へ下されなどして、苦しからぬ御事になりぬとて、十月ばかりに、故承明門院の御跡、土御門万里の小路殿へ御移ろひありて後ぞ、院の上、御母准后なども参り、始めて御対面あり。さるべき人々も、参り仕うまつりなどして、世の常の御有様にはなりにけれど、建長四年、御年十一にて御下りありし後、今まで十五年が程、賑ははしく、いみじうもて崇められさせ給ひて、ゆゆしかりつる御住居にひきかへて、物淋しく心細うなど、思さるる折々もありけるにや、

虎とのみもてなされしは昔にて今は鼠のあなう世の中

又、雪のいみじう降りたる朝、右近の馬場の方御覧じにおはしまして、よませ給ひける、

猶頼む北野の雪の朝ぼらけ跡なきことにうづもるる身は

など聞えき。大方、この御子の、歌の聖にておはします事、皆人の口に侍るべし。「枯野の眞葛霜とけて」なども、人ごとに、めでののしる御歌なるべし。されば、世を乱らんなど、思ひよりけるもののふの、このみこの御歌すぐれてよませ給ふを、夜昼、いとむつまじく仕うまつりける程に、おのづから、同じこころなるものなど多くなりて、宮のみ気色あるやうに、いひなしけるとかや。

又の年二月には、亀山殿の浄金剛院にて、十五日、涅槃の儀式を移し行はせ給ふ。それより五日の御八講に、人々才賢き限りを選び召しけり。大殿にも西八条にて、故東山殿の御ために、八講行はせ給ふ。関白殿 二条殿 も、光明峰寺にて、結縁灌頂とり行はる。鷹司殿には、昔の御北の方の十三年の法事とて、大宮殿にていかめしき事ども営ませ給ふ。中に絵像の阿弥陀、余五将軍の臨終仏なりけるを、恵心の僧都伝へられたりけるを、持たせ給ひて、供養し給ふ。常の御様には変はり給ひて、化仏の御光など、めでたくおはしましけり。ここもかしこも、尊き事のみ耳に満ちて、劫濁とはいひ難し。安嘉門院も、御法事行はる。男も法師もいとまなく、あかれあかれ参り仕うまつらる。仏法の盛とぞ見えたる。その頃、殿の大将、内大臣になり給ひぬ。節会はつるままに、大饗行はる。尊者には、新大納言為氏参られけり。御遊など、例の事ども面白くなん。今出川の中納言実兼も、琵琶弾き給ふ。春の曙の艶なるに、物の音もてはやさるべし。その頃、又、東二条院熊野へ御参り、めでたかりし事どもも、あまりになれば、さのみはにて漏しつ。

かくて、四月二十三日より、院の上は、又、亀山殿にて御如法経あそばす。女院も書かせおはしましけり。五月二十三日、十種供養の御経二部、浄土の三部経も書かせ給へり。斎会の御有様は、いつよりも猶いみじ。時なりて寝殿の御しつらひ、浄土の荘厳も、かばかりにこそと見えて、玉の幡、瑠璃の天蓋、天に光を輝かし、金銀の飾り、地を照せる様、筆も及び難し。上達部左右につき給ふ。左大臣基平、内大臣家経、大納言は良教、資季、通成、師継、通雅。中納言は公藤、長雅、通教、経俊。宰相は時継、資平、宗雅、雅言、具氏など候はる。盤渉調の調子を吹きて、天童二人、玉の幡を捧げて、伝供ども次第に奉る程、鳥向楽を吹き出したり。中島に楽屋は飾られたれば、橋の上を、楽人つらねて参る程、院の上も出でさせ給ひて、伝供に立ち加はらせおはします御様いとかたじけなくめでたし。関白殿、太政大臣、左大臣、内大臣、皆伝供に従はせ給ふ。宗明楽、秋風楽を奏して、繰り返したる程、面白き事、身の毛もたつばかりなり。御前の御遊には、笙は公藤、通頼、房名、宗雅、笛は長雅、師親、相保、篳篥は実成朝臣、光顕、御琵琶は、新院、今出川の中納言実兼、富の小路の三位公成、箏は大納言の二位殿、院の上この頃、又なき御めしうど、故入道相国の御女とぞ聞えし。又刑部卿 中宮の御母 、少納言、新兵衛、男には、良教の大納言などぞひかれける。勝れたる上手どもの、手を尽し給ひけんは、弥勒菩薩も、いかばかりゑみを含み給ひけん。御経一部は、北野の社へ御奉納あり。今一部と三部経は、八幡へ御幸ありて、籠め奉らせ給ふ。女院の書かせおはしましたるは、横川にぞ籠められける。かく同じ御心に、仏法の御営みも、やむごとなくのみおはしますこそ、聖武天皇、光明皇后の御例にやと、ありがたく承りしか。

今年、五月雨、常よりも晴間なくて、伊勢の宮河も岸をひたして、斎宮の御参りも御船なり。祭主も別の船にて、御供仕うまつる。道すがら、歌うたひ、糸竹の調べなどして、面白く遊び暮らす。御下りの後、四とせになりぬ。古き例にまかせて、准后の宣旨参る。御使に中院の少将為定朝臣下りて、事の由申す。殿上に召して、裳、唐衣禄給ふ。舞踏して後、都の物語など、さるべきおとなだつ人々に、少し聞えかはす。艶なる心地して、ただの宮ばらならば、はかなし事なども聞えぬべけれど、かうがうしく、けどほき御有様なれば、すくよかにてまかでぬ。

その年九月の頃、左の大臣 近衛殿 の日野山庄へ、一の院、新院、大宮院御幸あり。世になき清らを尽さる。銀金の御皿ども、螺鈿の御台、うち敷、見なれぬ程の事どもなり。院の御分、御小直衣皆具、夜の御衾、白御太刀、御馬二疋、唐綾、魚綾などにて、二階つくられて、御草子箱、御硯は、世々を経て重き宝の石なり。管絃の御厨子、楽器、色々の綾錦などにて、造りて置かる。女院の御かた、新院の御分なども同じやうなり。大納言の二位殿にも、装束、まもりの筥まで、いとなまめかしう、清らなるものどもありける。上達部、殿上人にも、馬牛ひかる。銀のかたみを五つ組ませて、松茸入れらる。山へ皆入らせおはしまして、御覧の後、御かはらけ幾返となくきこしめせば、人々も酔ひ乱れ、様々にて過ぎぬ。

その同じ頃、安嘉門院、丹後の天の橋立御覧じにとておはします。それより但馬の城崎のいでゆめしに、下らせ給ふ。為家の大納言、光成の三位など、御供仕うまつらる。この女院の御有様ぞ、又、いといみじう、来しかた行く末の例にもなりぬべく、万の事、御心のままに、好ましくものし給ひける。童舞、白拍子、田楽などいふこと好ませ給ひて、古への郁芳門院にも、やや勝りてぞおはします。候ふ人々も、常にうちとけず、衣の色あざやかに、はなばなと、今めかしき院の内なり。又、安養寿院といひて、山の峰なる御堂には、常にたてこもらせ給ひて、御観法などあるには、人の参る事もたやすくなし。鳴子をかけて引かせ給ひてぞ、おのづから、人をも召しける。

又、その頃にや、秋の雨、日頃ふりて、いと所せかりしに、たまたま雲間見えて、空の気色物すごき程に、一の院、新院、大宮院、東二条院など、皆一つ御方におはします。御前に太政大臣公相、常磐井の入道殿実氏も候ひ給ふ。前の左の大臣実雄、久我大納言雅忠など、うとからぬ人々ばかりにて、大御酒参る。あまた下りながれて、上下、少しうち乱れ給へるに、太政大臣、本院の御盃を賜はり給ひて、持ちながら、とばかりやすらひて、「公相、官位共に極め侍りぬ。中宮 今出川院 さておはしませば、もし、皇子降誕もあらば、家門の栄華衰ふべからず、実兼も、けしうは侍らぬ男なり。うしろめたくも思ひ侍らぬに、一つの憂へ、心の底になん侍る」と申し給へば、人々、「何事にか」とおぼつかなく思す。左の大臣実雄は、中宮の御事かく宣ふを、いでやと、耳にとまりて、うち思さるらんかし。一の院、「何事にか」と宣ふに、しばしありて、「入道相国に、いかにも先立ちぬべき心地なんし侍る。『恨の至りて恨めしきは、盛りにて親に先だつ恨み、悲の至りて悲しきは、老いて、子に後るるには過ぎず』とこそ、澄明におくれたる願文にも、かきて侍りしか」など申し給ひて、うちしほたれ給へば、皆、いとあはれに聞き思す。入道殿は、まして、墨染の御袖ぬらし給ひける、ことわりなりかし。

また、その頃大風ふきて、人々の家々、損はれ失する事数知らぬ中に、明堂殿もまろびぬ。この内には、木にて人形をつくりて、宮殿を金にてつくりて、入れたる宝あり。眼をあてては見ぬものなり。おのづからも誤りて見つる人は、目のつぶれけるぞ恐ろしき。陰陽寮の守護神の社もまろびぬ。山の文殊楼、稲荷の中の宮なども、吹き損ひて、すべて、来しかた行く末も例ありがたき風なり。西国の方には、人の家を、さながら吹きあぐれば、内なる人は、塵のやうに落ちて、死に失せなどしけるぞ、珍らかなる。あまりにかくおびただしき風なれば、御占行はれけるにも、「重き人の御つつしみ、軽からぬ」など奏しけり。果してその頃、西園寺の太政大臣 公相 なやましくし給ふとて、山々寺々、修法、読経、祭祓など、かしがましくひびきののしりつれど、それもかひなくて、十月十二日失せ給ひぬ。入道殿を始め、思し歎く人々数知らず。中宮も、御服にて出で給ひぬ。北の方は、徳大寺の太政大臣 実基 の御女なれど、この御腹には、更に御子もなし。中宮をも、少納言とて、召し使ふ、女房の生み聞えたれど、北の方の御子になして、男公達も、腹々にあまたおはすれど、いづれをも北の方の御子になされけり。この大臣、入道殿よりは、少し情けおくれ、いちはやくなどおはしければ、心のそこには、さのみ嘆く人もなかりけるとかや。御わざの夜、御棺に入れ給へる御かしらを、人の盗み取りけるぞ珍らかなる。御顔の下短かにて、中半程に、御目のおはしましければ、外法とかやまつるに、かかる生首のいることにて、なにがしの聖とかや、東山のほとりなりける人、取りてけるとて、後に、沙汰がましく聞えき。中宮の御事などを、深く思さるめりしかば、いとほしくあたらしきわざにぞ、世の人も思ひ申しける。ありし一ことを思しいでつつ、誰もあはれに悲しくて、女院の御方々もそれをのみ宣はせけり。

皇后宮は、日にそへて、御覚えめでたくなり給ひぬ。姫宮・若宮など出で物し給ひしかど、やがて失せ給へるを、御門をはじめ奉りて、たれもたれも思し嘆きつるに、今年又その御気色あれば、いかがと思し騒ぎつつ、山々寺々に御祈りこちたくののしる。こたみだに、げに又うちはづしては、いかさまにせん」と、大臣・母北の方も安き寝も寝給はず、思し惑ふこと限りなし。程近くなり給ひぬとて、土御門殿の、承明門院の御跡へ移らせ給ふ。世の中ひびきて、天下の人高きも下れるも、つかさある程のは参りこみてひしめきたつに、殿の内の人々は、まして、心も心ならず、あわたたし。大臣、限りなき願どもをたて給ひ、賀茂の社にも、かの御調度どもの中に、すぐれて御宝と思さるる御手箱に、后の宮自ら書かせ給へる願文入れて、神殿にこめられけり。それには、「たとひ御末まではなくとも、皇子一人」とかや侍りけるとぞ承りし、誠にや侍りけん。かくいふは、文永四年十二月一日なり。例の御物の怪ども現れて、叫びとよむ様いと恐ろし。されども、御祈のしるしにや、えもいはず、めでたき玉の男御子生れ給ひぬ。その程の儀式、いはずとも推しはかるべし。上も、限りなき御志にそへて、いよいよ思す様に、嬉しと聞し召す。大臣も、今ぞ御胸あきて、心おちゐ給ひける。新院の若宮も、この殿の御孫ながら、それは、東二条院の御心の中おしはかられ、大方も又、うけばりやむごとなき方にはあらねば、万聞し召しけつ様なりつれど、この今宮をば、本院も、大宮院も、きはことに、もてはやしかしづき奉らせ給ふ。これも中宮の御ため、いとほしからぬにはあらねど、いかでかさのみはあらんと、西園寺ざまにぞ、一方ならず思しむすぼほれ、すさまじう聞き給ひける。

その頃近衛の左大臣殿へ、摂〓渡りぬ。二十二にぞなり給ふ。いとめでたき様なり。岡の屋殿の御太郎君ぞかし。御悦申に、両院より御馬ひかる。大宮院琴、東二条院は御笛など、贈物ども、いつものことなるべし。西谷殿とも申し、深心院の関白とも申しき。

増鏡 10 あすか川

10 あすか川

隙行く駒の足にまかせて、文永も五年に成りぬ。正月二十日、本院のおはします富の小路殿にて、今上の若宮、御五十日聞こし召す。いみじう清らを尽くさるべし。今年正月に閏有り。後の二十日余りの程に、冷泉院にて舞御覧有り。明けむ年、一院、五十に満たせ給ふべければ、御賀あるべしとて、今より世の急ぎに聞こゆ。楽所始めの儀式は、内裏にてぞ有りける。試楽、二十三日と聞こえしを、雨ふりて、明くる日つとめて、人々参り集ふ。新院はかねてより渡らせ給へり。寝殿の御階の間に、一院の御座設けたり。其の西によりて、新院の御座を設く。東は大宮院・東二条院、皆白き御袴に、二御衣奉れり。聖護院の法親王・円満院など参り給ふ。土御門の中務の宮も参り給ふ。上達部・殿上人、数多御供し給へり。仁和寺の御室・梶井の法親王なども、すべて残り無く集ひ給ふ。月花門院・花山院の准后などは、大宮院のおはします御座に御几帳押しのけて渡らせ給ふ。寝殿の第四の間に、袖口共心異にて押し出ださる。大納言の二位殿・南の御方など、やむごとなき上臈は、院のおはします御簾の中に、引きさがりて候ひ給ふ。いづれも、白き袴に二衣なり。東のすみの一間は、大宮院・月花門院の女房共参り集ふ。西の二間には、新准后候ひ給ふ。御前の簀子には、関白殿を始めて、右大臣〔基忠〕・内大臣〔家経〕・兵部卿隆親・二条の大納言良教・源大納言通成・花山院の大納言師継・右大将通雅・権大納言基具・一条の中納言公藤・花山院の中納言長雅・左衛門督通頼・中宮権大夫隆顕・大炊御門の中納言信嗣・前の源宰相有資・衣笠宰相の中将経平・左大弁の宰相経俊・新宰相の中将具氏・別当公孝・堀川の三位中将具守・富小路三位中将公雄、皆御階の東に著き給ふ。西の第二の間より、又、前の左大臣実雄・二条の大納言経輔・前の源大納言雅家・中宮大夫雅忠・藤大納言為氏・皇后宮大夫定実・四条の大納言隆行・帥の中納言経任、此の外の上達部、西東の中門の廊、それより下ざま、透渡殿・打橋などまで著きあまれり。皆、直衣に色々の衣重ね給へり。時なりて、舞人共参る。実冬の中将、唐織物の桜の狩衣、紫の濃き薄きにて桜を織れり。赤地の錦の表着・紅の匂の三衣・同じ単・しじらの薄色の指貫、人よりは少しねびたりしも、あな清げと見えたり。大炊御門中将冬輔と言ひしにや、装束先のに変はらず。狩衣はから織物なりき。花山院の中将家長、右大将の御子、魚綾の山吹の狩衣、柳桜を縫ひ物にしたり。紅の打衣を輝くばかりだみ返して、萌黄の匂の三衣・紅の三重の単、浮織物の紫の指貫に、桜を縫ひ物にしたる、珍しく美しく見ゆ。花山院の少将忠季は師継の御子也、桜の結び狩衣、白き糸にて水を隙無く結びたる上に、桜柳を、それも結びてつけたる、なまめかしく艶なり。赤地の錦の表着、金の文をおく。紅の二衣・同じ単・紫の指貫、これも柳桜を縫ひ物に色々の糸にてしたり。中宮の権亮少将公重実藤の大納言の子、唐織物の桜萌黄の狩衣・紅の打衣・紫の匂の三衣・紅の単、指貫例の紫に桜を白く縫ひたり。堀川の少将基俊基具の大納言の子、唐織物、裏山吹、三重の狩衣、柳だすきを青く織れる中に桜を色々に織れり。萌黄の打衣、桜をだみつけにして、輪違へを細く金の文にして、色々の玉をつく。匂つつじの三衣、紅の三重の単、これも箔ちらす。二条の中将経良良教の大納言の御子也、これも唐織物の桜萌黄・紅の衣・同じひとへなり。皇后宮権亮中将実守、これも同じ色の樺桜の三衣・紅梅の〔匂の〕三重の単、右馬頭隆良隆親の子にや、緑苔の赤色の狩衣、玉のくくりを入れ、青き魚綾の表着・紅梅の三衣・同じ二重の単・薄色の指貫、少将実継、松がさねの狩衣・紅の打衣・紫の二衣、これも色々の縫ひ物・おき物など、いとこまかになまめかしくなしたり。陵王の童に、四条の大納言の子、装束常の儘なれど、紫の緑苔の半尻、金の文、赤地の錦の狩衣、青き魚綾の袴、笏木のみなゑり骨、紅の紙にはりて持ちたる用意気色、いみじくもてつけて、めでたく見え侍りけり。笛茂通・隆康、笙は公秋・宗実、篳篥は兼行、太鼓は教実、鞨鼓はあきなり、三の鼓はのりより、左万歳楽、右地久、陵王、輪台、青海波、太平楽、入綾、実冬いみじく舞ひすまされたり。右落蹲、左春鴬囀、右古鳥蘇、後参、賀殿の入綾も実冬舞ひ給ひしにや。暮れかかる程にて、何のあやめも見えずなりにき。御たかだか宮達、あかれ給ひぬ。

同じ二月十七日に、又、新院富の小路殿にて舞御覧。其の朝、大宮院先づ忍びて渡らせ給ふ。一院の御幸は、日たけてなる。冷泉殿より只はひ渡る程なれば、楽人・舞人、今日の装束にて、上達部など皆歩み続く。庇の御車にて、御随身十二人、花を折り錦を立ち重ねて、声々、御さき花やかに追ひ罵りて、近く候ひつる、二無く面白し。新院は、御烏帽子直衣・御袴際にて、中門にて待ち聞こえさせ給ひつる程、いと艶にめでたし。御車中門に寄せて、関白殿、御佩刀取りて、御匣殿に伝へ給ふ。二重織物の萌黄の御几帳のかたびらを出だされて、色々の平文の衣共、物の具は無くて押し出ださる。今日は正親町の院も御堂の隅の間より御覧ぜらる。

大臣・上達部、有りしに変はらず。猶参り加はる人は多けれど、洩れたるは無し。実冬、今日は、花田うら山吹の狩衣、二重うち萌黄など、思ひ思ひ心々に、前には皆引きかへて、様々尽くしたり。基俊の少将、此の度は、桜萌黄の五重の狩衣・紅の匂の五衣、打衣は〔やりつき、〕山吹の匂、浮織物の三重のひとへ・紫の綾の指貫、中に勝れてけうらに見え給へり。此の度は、多く緑苔の衣を着たり。万歳楽を吹きて楽人・舞人参る。池の汀に桙を立つ。春鴬囀・古鳥蘇・後参・輪台・青海波・落蹲など有り。日暮らし面白く罵りて、帰らせ給ふ程に、赤地の錦の袋に御琵琶入れて奉らせ給ふ。刑部卿の君、御簾の中より出ださる。右大将取りて、院の御前に気色ばみ給ふ。胡飲酒の舞は、実俊の中将とかねては聞こえしを、父大臣の事にとどまりにしかば、近衛殿の前の関白殿の御子三位中将と聞こゆる、未だ童にて舞ひ給ふ。別して、此の試楽より先なりしにや、内々白河殿にて試み有りしに、父の殿も御簾の内にて見給ふ。若君いと美しう舞ひ給へば、院めでさせ給ひて、舞の師忠茂、禄賜はりなどしけり。

かやうに聞こゆる程に、蒙古の軍と言ふ事起こりて、御賀止まりぬ。人々口惜しく、本意無しと思すこと限り無し。何事もうちさましたるやうにて、御修法や何やと、公家・武家、只此の騒ぎなり。されども、程無く鎮まりて、いとめでたし。

かくて、今上の若宮、六月二十六日親王の宣旨有りて、同じき八月二十五日、坊にゐ給ひぬ。かく花やかなるにつけても、入道殿はあさましく思さる。故大臣の先だち給ひし歎きに沈みてのみ物し給へど、「かかる世の気色を、賢く見給はぬよ」と思しなぐさむ。中宮は、御服の後も参り給はず。万引きかへ、物怨めしげなる世の中なり。

一院は、御本意をとげ給はん事をやうやう思す。其の年の九月十三夜、白河殿にて月御覧ずるに、上達部・殿上人、例の多く参り集ふ。御歌合有りしかば、内の女房共召されて、色々の引き物、源氏五十四帖の心、様々の風流にして、上達部・殿上人までも分かち賜はす。院の御製、

我のみや影も変はらんあすか川同じふち瀬に月はすむとも

かねてより袖も時雨て墨染めの夕べ色ます峰の紅葉葉此の御歌にてぞ、御本意の事思し定めけりと、皆人、袖をしぼりて、声も変はりけり。あはれにこそ。民部卿入道為家、判ぜさせられけるにも、「身をせめ心をくだきて、かきやる方も侍らず」とかや奏しけり。

かくて神無月の五日、亀山殿へ御幸なる。今日を限りの御旅なれば、心異に整へさせ給ふ。新院も例のおはします。大宮・東二条院、一つ御車にて、同じく渡らせ給ふ。大宮女院は白菊の御衣、東二条院は青紅葉の八、菊の御小袿奉る。先づ、北野・平野の社へ御参りあれば、御随身共花を折り尽くし、今日を限りと、様あしきまで装束きあへり。両社にて、馬上げさせられけり。神もいかに名残多く見給ひけん。空さへうち時雨て、木の葉さそふ嵐も折知り顔に物悲しう、涙争ふ心地し給ふ人々多かるべし。中務の御子、「今日の袂さぞしぐるらん」と宣ひし御返し、中将、

袖ぬらす今日をいつかと思ふにも時雨てつらき神無月かな

やがて其の夜御髪おろし給ひぬ。御戒の師には、青蓮院の法親王参り給ふ。其の頃やがて、御逆修始めさせ給へば、其の程、女院色々の御捧持共奉り給ふ。今は弥法の道をのみもてなさせ給ひつつ、ある時は止観の談義、ある時は真言の深き沙汰・浄土の宗旨などをも尋ねさせ給ひつつ、万に御心通ひ暗からず物し給へば、何事も、前の世より賢くおはしましける程あらはれて、今行末も、げに頼もしく、めでたき御有様なり。

かくて今年も暮れぬ。又の年三月の一日、月花門院、俄に隠れさせ給ひぬ。法皇も女院も、限り無く思ひ聞こえさせ給ひつるに、いとあさまし。さるは誠にや有らん、又、人違へにや、とかく聞こゆる御事共ぞ、いと口惜しき。四辻の彦仁の中将、忍びて参り給ひけるを、基顕の中将、彼の御まねをして、又参り加はりける程に、あさましき御事さへ有りて、それ故隠れさせ給へるなど、ささめく人も侍りけり。猶さまでは有らじと思ひ給ふれど、いかが有りけん。

法皇は、又文永七年神無月の頃、御手づから書かせ給へる法華経一部、供養せさせ給ふ。御八講、名高く才勝れて賢き僧共を召しけり。世の中の人残り無く仕る。新院かねてより渡り給へり。さるべき御事とは申しながら、何につけても、御心ばへのうるはしくなつかしうおはしまして、院の思いたる筋の事は、必ず同じ御心に仕り、いささかも、いでやとうち思さるる一ふしも無く物し給ふを、法皇もいと美しう忝しと思されけり。第二日の夜に入りて行幸もなる。五の巻の日の御捧物共参り集ふ。様々学び尽くし難し。内の御捧物は、紙屋紙に黄金を包みて、柳箱にすゑて、頭弁ぞ持ちたる。つぎに新院・女院達、宮々御方々、皆そなたざまの宮司・殿上人などもて続きたり。関白・大臣など座につき給ふ。大中納言・参議・四位五位などは、自らの捧物を持ちて渡る。各心々にいどみ尽くして、様々をかしき中に、兵部卿隆親は、糸鞋をはきて、鳩の杖をつきて出でたり。此の杖をやがて捧物にとなりけり。銀にてひた打ちにして、先は黄金にて鳩をすゑたりけり。結願の日は、舞楽などいみじく面白くて過ぎぬ。又の年正月に、忍びて新院と御方わかちの事し給ふ。初めは法皇御負けなれば、御勝ちむかひに、上達部皆五節のまねをして、色々の衣あつづまにて、「思ひの津に船のよれかし」とはやして参る。新院引きつくろひて渡り給ふ。御酒いく返りと無く聞こし召さる。一番づつの御引出物、伊勢物語の心とぞ聞こえし。かねの地盤に、銀の伏篭に、たき物くゆらかして、「山は富士の嶺いつと無く」と、又、銀の船に麝香の臍にて、蓑着たる男つくりて、「いざ言問はむ都鳥」など、様々いとなまめかしくをかしくせられけり。わざとことごとしき様には有らざりけり。こたみは、新院よりこそ仙人のまねをして、「梵王は鵝にのる。杯は花にのる」とかやはやして、法皇の御迎ひに参る。上達部の大人び給へるなどは、少し軽々にや見えけんと推し量らる。此の度は、源氏の物語の心にや有りけむ、唐めいたる箱に、金剛子の数珠入れて、五葉の枝につけたり。又、斎院よりの黒方、梅の散り過ぎたる枝につけなど、これもいとささやかなる事共になむ有りける。男・女房、乱りがはしく強ひ交はして、御箏共召し、拍子うち鳴らしなどして明けぬ。

かやうの事にのみ心やりて明かし暮らさせ給ふ程に、又の年の秋になりぬ。東二条院、日頃只にもおはしまさざりつるが、其の御気色有りとて、世の中騒ぐ。院の中にてせさせ給へば、いよいよ人参り集ふ。大法・秘法、残り無く行はる。七仏薬師・五壇の御修法・普賢延命・金剛童子・如法愛染など、すべて数知らず。御験者には、常住院の僧正参り給ふ。八月二十日宵の事なり。既にかと見えさせ給ひつつも、二日・三日になりぬれば、ある限り物覚ゆる人も無し。いと苦しげにし給へば、仁和寺の御室の、如法愛染の大阿闍梨にて候ひ給ふを、御枕上に近く入れ奉らせ給ひて、「いと弱う見え侍るは、いかなるべきにか」と、院も添ひおはしまして、扱ひ聞こえ給ふ様、おろかならねば、あはれと見奉り給ひて、「さりとも、けしうはおはしまさじ。定業の亦能転は、菩薩の誓ひなり。今更妄語有らじ」とて、御心を致して念じ給ふに、験者の僧正も「一持秘密」とて、念珠押しもみたる程、げに頼もしく聞こゆ。御誦経の物共、運び出で、女房の衣など、こちたきまで押し出だせば、奉行取りて、殿上人、北面の上下、あかれあかれに分かち遣はす。そこらの上達部は、階の間の左右に著きて、王子誕生を待つ気色なり。陰陽師・巫女立ちこみて、千度の御祓ひつとむ。御随身・北面の下臈などは、神馬をぞ引くめる。院拝し給ひて、二十一社に奉らせ給ふ。すべて上下・内外罵り満ちたるに、御気色只弱りに弱らせ給へば、今一しほ心惑ひして、さと時雨渡る袖の上も、いとゆゆし。院もかき暗し悲しく思されて、御心の中には、石清水の方を念じ給ひつつ、御手をとらへて泣き給ふに、候ふ限りの人、皆え心強からず。いみじき願共を立てさせ給ふしるしにや、七仏の阿闍梨参りて、「見者歓喜」とうち上げたる程に、辛うじて生まれ給ひぬ。何と言ふも聞こえぬは、姫宮なりけりと、いと口惜しけれど、むげに無き人と見え給へるに、平かにおはするを喜びにて、いかがはせむと思しなぐさむ。人々の禄など常のごとし。法皇も、中々、いたはしくやんごとなき事に思して、いみじくもてはやし奉らせ給ふ。いでやと口惜しく思へる人々多かり。かかるにしも、実雄の大臣の御宿世あらはれて、かたつ方には、心おち居給ふも、世の習ひなれば、理なるべし。五夜・七夜など、異に花やかなる事共にて、過ぎもて行く。

其の頃ほひより、法皇時々御悩み有り。世の大事なれば、御修法共いかめしく始まる。何くれと騒ぎあひたれど、怠らせ給はで、年もかへりぬ。正月の始めも、院の内かいしめりて、いみじく物思ひ歎きあへり。十七日、亀山殿へ御幸なる。これや限りと、上下心細し。法皇は御輿なり。両女院は例の一つ御車に奉る。尻に御匣殿候ひ給ふ。道にて参るべき御煎じ物を、胤成・師成と言ふ医師共、御前にてしたためて、銀の水瓶に入れて、隆良の中納言承りて、北面の信友と言ふに持たせたりけるを、内野の程にて、参らせんとて召したるに、此の瓶に露程も無し。いと珍かなるわざなり。さ程の大事の物を、悪しく持ちて、うちこぼすやうは、いかでか有らん。法皇も、いとど御臆病そひて、心細く思されけり。新院は、大井川の方におはしまして、隙無く、男・女房、上下と無く、「今の程いかにいかに」と聞こえさせ給ふ御使ひの、行き帰る程を、猶いぶせがらせ給ふに、正月も立ちぬ。いかさまにおはしますべきにかと、誰も誰も思し惑ふ事限り無し。かねてより、かやうの為と思しおきてける寿量院へ、二月七日渡り給ふ。ここへは、おぼろけの人は参らず。南松院の僧正、浄金剛院の長老覚道上人などのみ、御前にて、法の道ならでは宣ふ事も無し。六波羅北南、御訪ひに参れり。西園寺の大納言実兼、例の奏し給ふ。十一日、行幸有り。中一日渡らせ給へば、泣く泣く万の事を聞こえ置かせ給ふ。新院も御対面有り。御門は、御本上いと花やかに賢く、御才なども昔に恥ぢず、何事も整ほりてめでたくおはします。世を治めさせ給はん事も、後ろめたからず思せば、聞こえ給ふ筋異なるべし。十七日の朝より、御気色変はるとて、善智識召さる。経海僧正・往生院の聖など参りて、ゆゆしき事共聞こえ知らすべし。遂に、其の日の酉の時に、御年五十三にて隠れさせ給ひぬ。後嵯峨院とぞ申すめる。今年は文永九年なり。院の中くれふたがりて、闇に迷ふ心地すべし。十八日に薬草院に送り奉り給ふ。仁和寺の御室・円満院・聖護院・菩堤院・青蓮院、皆御供仕らせ給ふ。内より頭の中将、御使ひに参る。三十年が程、世をしたためさせ給ひつるに、少しの誤り無く、思す儘にて、新院・御門・春宮、動き無く、又外ざまに分かるべき事も無ければ、思しおくべき一ふしも無し。無き御跡まで、人の靡き仕れる様、来し方も例無き程なり。

二十三日、御初七日に、大宮院御髪おろさる。其の程、いみじく悲しき事多かり。天の下、押しなべて黒み渡りぬ。万しめやかにあはれなる世の気色に、心あるも心無きも、涙催さぬは無し。院・内の御歎きはさる事にて、朝夕むつましく仕りし人々の、思ひ沈みあへる様、理にも過ぎたり。其の中に、経任の中納言は、人より異に御覚え有りき。年も若からねば、定めて頭おろしなんと、皆人思へるに、なよらかなる狩衣にて、御骨の御壺持ち参らせて参れるを、思ひの外にもと、見る人思へり。権中納言公雄と聞こゆるは、皇后宮の御兄なり。早うより、故院いみじくらうたがらせ給ひて、夜昼御傍去らず候ひて、明け暮れ仕らせ給ひしかば、限りある道にもおくらかし給へる事を、若き程に、やる方無く悲しと思ひ入り給へり。西の対の前なる紅梅の、いと美しきを折りて、具氏の宰相の中将、彼の中納言に消息聞こゆ。

梅の花春は春にも有らぬ世をいつと知りてか咲き匂ふらん 

返し、

心有らばころもうき世の梅の花折忘れずば匂はざらまし 

「夜さり、対面に、何事も聞こえん」と言へるを、此の中将も、故院の御いとほしみの人にて、同じ心なる友に覚えければ、いとあはれにて、悲しき事も語り合はせんと、日ぐらし待ち居たるに、遂に見えず。怪しと思ふに、はや其の夜頭おろしてけり。齢も盛りに、今も皇后宮の御兄、春宮の御伯父なれば、世覚え劣るべくも有らず。思ひなしも頼もしく、誇りかなるべき身にて、かくて捨てはつる程、いみじくあはれなれば、皆人、いとほしう悲しき事に言ひあつかふめり。経任の中納言にはこよなき心ばへにや。父大臣も、院の御事を尽きせず歎き給ふにうち添へて、いみじと思す。

公宗の中納言も、甲斐無き物思ひのつもりにや、はかなくなり給ひぬ。又此の中納言さへかく物し給ひぬるを、様々につけて心細く思すに、いく程無く皇后宮さへ又失せ給ひぬ。いよいよ臥し沈みてのみおはする程に、いと弱う成りまさり給ふ。春宮の御代をもえ待ち出づまじきなめりと、あはれに心細う思し続けて、

はかなくもおふの浦なし君が代にならばと身をも頼みける哉 

歎きにたへず、遂に失せ給ひにけり。物思ひには、げに命も尽くるわざなりけり。あはれに悲しと言ひつつも、とまらぬ月日なれば、故院の御日数も程なう過ぎ給ひぬ。世の中は、新院かくておはしませば、法皇の御代はりに引きうつして、さぞ有らんと世の人も思ひ聞こえけるに、当代の御一つ筋にてあるべき様の御おきてなりけり。長講堂領、又播磨の国、尾張の熱田の社などをぞ、御処分有りける。いづれの年なりしにか、新院、六条殿に渡らせ給ひし頃、祇園の神輿互の行幸有りし時、御対面のやうを、故院へ尋ね申されたりしにも、「我とひとしかるべき御事なれば、朝覲になぞらへらるべし」と申されけり。一つ腹の御兄にてもおはします。方々理なるべき世を、思ひの外にもと、思ふ人々も多かるべし。「いでや位におはしますにつきて、差しあたりの御政事などは理なり。新院にも若宮おはしませば、行く末の一ふしは、などかは」など、言ひしろふ。かかれば、いつしか、院がた・内がたと、人の心々も引き別るるやうに、うちつけ事共出で来けり。人一人おはしまさぬあとは、いみじき物にぞ有りける。朝の御まもりとて、田村の将軍より伝はり参りける御佩刀などをも、彼の御気色のしかおはしましけるにや、御隠れの後、やがて内裏へ奉らせ給ひしかば、それなどをぞ、女院の恨めしき御事には、院も思ひ聞こえさせ給ひける。さてしもやはなれば、此の由をも関の東へぞ宣ひ遣はしける。内には、花山院の太政大臣、後院の別当になされて、世の中自らしたためさせ給ふ。もとよりいと花やかに、今めかしき所おはする君にて、万かどかどしうなん。皇后宮隠れさせ給ひにし後は、尽きせぬ御歎きさめがたうて、所せき御有様もよだけう、いかで本意をも遂げてばやなど〔まで〕思されけり。故院の御果ても過ぎさせ給へば、世の中、色改まりて、花やかに、人々の御歎きの色も薄らぎ行くしも、あはれなる習ひなりかし。

其の夏、春宮例にもおはしまさで日頃ふれば、内の上、御胸つぶれて、御修法や何やと騒がせ給ふ。和気・丹波の医師氏成・春成共、夜昼候ひて、御薬の事、色々に仕れど、只同じ様にのみおはす。いかなるべき御事にかと、いとあさましうて、上も、つと此の御方に渡らせ給ひて見奉らせ給ふに、御目の内、大方、御身の色なども、事の外に黄に見えければ、いと怪しうて、御大壺を召し寄せて御覧ぜらる。紙をひたして見せらるるに、いみじう濃く出でたる黄皮の色なり。いとあさましく、などかばかりの事を知り聞こえざらんとて、御気色あしければ、医師共、いたう畏まり、色を失ふ。かばかりになりては、御灸無くては、まがまがしき御こと出で来べしと、各驚き騒ぐ。未だ例無き事は、いかがあるべきと、定め兼ねらる。位にては、只一度例有りけり。春宮にては、未ださる例無かりけれど、いかがはせむとて、思し定む。七にならせ給へば、さらでだに心苦しき御程なるに、まめやかにいみじと思す。医師と大夫定実君一人召し入れて、又、人も参らず。御門の御前にて、五所ぞせさせ奉らせ給ひける。御乳母共、いと悲しと思ひて、いぶかしうすれど、をさをさ許させ給はず。宮いと熱くむつかしう思せど、大夫につと抱かれ給ひて、上の御手をとらへ、万に慰め聞こえさせ給ふ御気色の、あはれに忝さを、幼き御心に思し知るにや、いとおとなしく念じ給ふ。かくて後、程無く怠らせ給ひぬれば、めでたく御心おち居給ひぬ。

大方、今年は地震しげくふり、世の中騒がしきやうなれば、つつしみ思されて、十月十五日より、円満院の二品親王、内に候ひ給ひて、尊星王の御修法勤め給ふに、二十日の宵、二の対より火出で来たり。あさましとも言はむ方無し。上下立ち騒ぎ罵る様、思ひやるべし。大宮院も内におはしましける頃にて、急ぎ出でさせ給ふ。御車の棟木にも、既に火燃え尽きけるを、又差し寄せて、春宮奉らせけり。其の夜しも、勾当の内侍里へ出でたりければ、塗篭の鍵をさへ求め失ひて、いみじき大事なりけるを、上聞こし召して、荒らかに踏ませ給ひたりければ、さばかり強き戸、まろびて開きたりけるぞ恐ろしき。さ無くば、いとゆゆしきこと共ぞあるべかりける。故院の御処分の入りたる御小唐櫃、何くれの御宝、こと故無く取り出だされぬ。それだにも、あまり騒ぎて、御勘文・御産衣などの入りたる物は焼けにけり。上は、腰輿にて、押小路殿へ行幸なりぬ。法親王は、「修法の強き故に、かかる事はあるなり」とぞ宣はせける。此の四月に、御わたまし有りつるに、いく程なうかかるは、げにいみじきわざなれど、昔も、三条院、位の御時かとよ、大内造り立てられて、御わたましの夜こそ、やがて火出で来て焼けにし事もあれば、これより重き大事もあるべかりけるに、夜変はりたらんはいかがはせん。かくて今年も暮れぬ。上は、いよいよ世の中の〔心〕あわたたしう思されて、おり居なんの御心遣すめり。位におはしましては、十五年ばかりにやなりぬらん。未だ三十にも遙かに足らぬ程の御齢なれば、今ぞ盛りに、若う清らかなる御程なめる。

増鏡 11 草枕

11 草枕

文永十一年正月二十六日、春宮に位譲り申させ給ふ。二十五日夜、先づ、内侍所・剣璽引き具して、押小路殿へ行幸なりて、又の日、ことさらに二条内裏へ渡されけり。九条の摂政殿〈 忠家 〉参り給ひて、蔵人召して、禁色仰せらる。上は八にならせ給へば、いと小さく美しげにて、びんづらゆひて、御引直衣・打御衣・はり袴奉れる御気色、おとなおとなしうめでたく御座するを、花山院の内大臣、扶持し申さるるを、故皇后宮の御兄公守の君などは、あはれに見給ひつつ、故大臣・宮などの御座せましかばと思し出づ。殿上に人々多く参り集まり給ひて、御もの参る。其の後上達部の拝有り。女房は朝餉より末まで、内大臣公親の女を始めにて、三十余人並み居たり。いづれと無くとりどりにきよげなり。二十八日よりぞ、内侍所の御拝始められける。

かくて新院、二月七日御幸始めせさせ給ふ。大宮院の御座します中御門京極実俊の中将の家へなる。御直衣、唐庇の御車、上達部・殿上人残り無く、上の衣にて仕らる。同じ十日、やがて菊の網代庇の御車奉りはじむ。此の度は、御烏帽子・直衣、院へ参り給ふ。同二十日、布衣の御幸始め、北白河殿へ入らせ給ふ。八葉の御車、萌黄の御狩衣・山吹の二御衣・紅の御単・薄色の織物の御指貫奉る。

本院は、故院の御第三年の事思し入りて、正月の末つ方より、六条殿の長講堂にて、あはれに尊く行はせ給ふ。御指の血を出だして、御手づから法華経など書かせ給ふ。衆僧も十余人が程召しおきて、懺法など読ませらる。御掟の思はずなりしつらさをも、思し知らぬには有らねど、それもさるべきにこそは有らめと、いよいよ御心を致して、懇ろに孝じ申させ給ふ様、いとあはれ也。新院もいかめしう御仏事嵯峨殿にて行はる。三月二十六日は御即位、めでたくて過ぎもて行く。十月二十二日御禊なり。十九日〔より〕官の庁へ行幸有り。女御代、花山院より出ださる。糸毛の車、寝殿の階の間に、左大臣殿・大納言長雅寄せらる。みな紅の五衣、同じき単、車の尻より出ださる。十一月十九日、又官の庁へ行幸、二十日より五節始まるべく聞こえしを、蒙古起こるとてとまりぬ。二十二日、大嘗会、廻立殿の行幸、節会ばかり行はれて、清暑堂の御神楽も無し。

新院は、世を知ろし召す事変はらねば、万御心の儘に、日頃ゆかしく思しめされし所々、いつしか御幸しげう、花やかにて過ぐさせ給ふ。いと有らまほしげなり。本院は、猶いと怪しかりける御身の宿世を、人の思ふらん事もすさまじう思しむすぼほれて、世を背かんの設けにて、尊号をも返し奉らせ給へば、兵仗をも止めむとて、御随身共召して、禄かづけ、暇賜はする程、いと心細しと思ひあへり。大方の有様、うち思ひめぐらすもいと忍び難き事多くて、内外の、人々、袖共うるほひ渡る。院もいとあはれなる御気色にて、心強からず。今年三十三にぞ御座します。故院の、四十九にて御髪おろし給ひしをだに、さこそは誰も誰も惜しみ聞こえしか。東の御方も、後れ聞こえじと御心遣し給ふ。さならぬ女房・上達部の中にも、とりわきむつましう仕る人、三、四人ばかり、御供仕るべき用意すめれば、程々につけて、私も物心細う思ひ歎く家々あるべし。かかる事共、東にも聞こえ驚きて、例の陣の定めなどやうに、これ彼数多、武士共、寄り合ひ寄り合ひ評定しけり。

此の頃は、有りし時頼の朝臣の子、時宗、相模守と言ふぞ、世の中計らふ主なりける。故時頼の朝臣は、康元元年に頭おろして後、忍びて諸国を修行し歩きけり。それも国々の有様、人の愁へなど、くはしくあなぐり見聞かんの謀にて有りける。怪しの宿りに立ち寄りては、其の家主が有様を問ひ聞き、理ある愁へなどの埋もれたるを聞きひらきては、「我は怪しき身なれど、昔、よろしき主を、持ち奉りし、未だ世にや御座すると、消息奉らん。持て詣でて聞こえ給へ」など言へば、「なでう事無き修行者の、何ばかりかは」とは思ひながら、言ひ合はせて、其の文を持ちて東へ行きて、しかじかと教へし儘に言ひて見れば、入道殿の御消息なりけり。「あなかまあなかま」とて、ながく愁へ無きやうに、計らひつ。仏神などの現はれ給へるかとて、皆額をつきて悦びけり。かやうの事、すべて数知らず有りし程に、国々も心遣をのみしけり。最明寺の入道とぞ言ひける。

その子なればにや、今の時宗の朝臣もいとめでたき物にて、「本院のかく世を思し捨てんずる、いと忝くあはれなる御事なり。故院の御掟は、やうこそ有らめなれど、そこらの御兄にて、させる御誤も御座しまさざらん、いかでかは、たちまちに、名残無くは物し給ふべき。いと怠々しきわざなり」とて、新院へも奏し、かなたこなた宥め申して、東の御方の若宮を坊に立て奉りぬ。十一月五日、節会行はれて、いとめでたし。かかれば、少し御心慰めて、此の際は、しひて背かせ給ふべき御道心にも有らねば、思しとまりぬ。これぞあるべき事と、あいなう世の人も思ひ言ふべし。御門よりは、今二ばかりの御兄なり。儲けの君、御年勝れる例、遠き昔はさておきぬ、近頃は三条院・小一条院・高倉院などや御座しましけん。高倉院の御末ぞ今もかく栄えさせ御座しませば、賢き例なめり。古の天智天皇と天武天皇とは、同じ御腹の御はらからなり。其の御末、しばしばうち変はりうち変はり世を知ろし召しし例などをも、思ひや出でけむ。御二流れにて、位にも御座しまさなむと思ひ申しけり。新院は、御心行くとしも無くや有りけめど、大方の人目には、御中いとよくなりて、御消息も常にかよひ、上達部なども、かなたこなた参り仕れば、大宮院も目安く思さるべし。

誠や、文永の初めつ方下り給ひし斎宮は、後嵯峨院の更衣腹の宮ぞかし。院隠れさせ給ひて後、御服にており給へれど、猶御暇ゆりざりければ、三年まで伊勢に御座しまししが、此の秋の末つ方御上りにて、仁和寺に衣笠と言ふ所に住み給ふ。月花門院の御つぎには、いとらうたく思ひ聞こえ給へりし昔の御心おきてを、あはれに思し出でて、大宮院、いと懇ろに訪ひ奉り給ふ。亀山殿に御座します。十月ばかり、斎宮をも渡し奉り給はんと、本院にも入らせ給ふべき由御消息あれば、珍しくて御幸有り。其の夜は、女院の御前にて、昔今の御物語など、のどやかに聞こえ給ふ。又の日夕づけて、衣笠殿へ御迎ひに、忍びたる様にて、殿上人一二人、御車二つばかり奉らせ給ふ。寝殿の南面に、御褥共引きつくろひて、御対面有り。とばかりして、院の御方へ御消息聞こえ給へれば、やがて渡り給ふ。女房に、御佩刀持たせて、御簾の内に入り給ふ。女院は香の薄にほひの御衣、香染めなど奉れば、斎宮、紅梅の匂に、葡萄染めの御小袿なり。御髪いとめでたく盛りにて二十に一、二や余り給ふらんと見ゆ。花と言はば、霞の間のかば桜も猶匂ひ劣りぬべく、言ひ知らずあてに美しう、あたりも薫る御様して、珍かに見えさせ給ふ。院は、われもかう乱れ織りたる枯野の御狩衣、薄色の御衣、紫苑色の御指貫、なつかしき程なるを、いたくたきしめて、えならず薫り満ちて渡り給へり。上臈だつ女房、紫の匂五に、裳ばかり引きかけて、宮の御車に参り給へり。神世の御物語など良き程にて、故院の今はの頃の御事など、あはれに懐かしく聞こえ給へば、御いらへも慎ましげなる物から、いぶせからぬ程に、ほのかに物うち宣へる御様なども、いとらうたげなり。をかしき様なる御酒・御果物・強飯などにて今宵は果てぬ。院も我が御方に帰りて、うちやすませ給へれど、まどろまれ給はず。有りつる御面影、心にかかりて覚え給ふぞいとわりなき。「差しはへて聞こえんも、人聞きよろしかるまじ。いかがはせん」と思し乱る。御はらからと言へど、年月よそにて生ひ立ち給へれば、うとうとしく習ひ給へる儘に、慎ましき御思ひも薄くや有りけん、猶ひたぶるにいぶせくてやみなんは、あかず口惜しと思す。けしからぬ御本性なりや。某の大納言の女、御身近く召し使ふ人、彼の斎宮にも、さるべき縁有りてむつましく参りなるるを、召し寄せて、「馴れ馴れしきまでは思ひよらず。只少しけ近き程にて、思ふ心の片端を聞こえん。かく折良き事もいと難かるべし」と切にまめだちて宣へば、いかがたばかりけむ、夢うつつとも無く近づき聞こえさせ給へれば、いと心憂しと思せど、あえかに消え惑ひなどはし給はず。らうたくなよなよとして、あはれなる御けはひなり。鳥もしばしば驚かすに、心あわたたしう、さすがに人の御名のいとほしければ、夜深く紛れいで給ひぬ。日たくる程に大殿篭り起きて、御文奉り給ふ。うはべは、只大方なるやうにて、「ならはぬ御旅寝もいかに」などやうに、すくよかに見せて、中に小さく、

夢とだにさだかにも無きかり臥しの草の枕に露ぞこぼるる 

いとつれなき御気色の、聞こえん方なさに」とぞあめる。悩ましとて、御覧じも入れず。しひて聞こえんもうたてあれば、「なだらかにもてかくして、おこたらせ給へ」など、聞こえしらすべし。

さて御方々御台など参りて、昼つ方又御対面共有り。宮はいと恥づかしうわりなく思されて、「いかで見え奉らんずらん」と思し休らへど、女院などの御気色のいとなつかしきに、聞え返さひ給ふべきやうも無ければ、只おほどかにて御座す。今日は、院の御経営にて、善勝寺の大納言隆顕、桧破子やうの物、色々にいと清らに調じて参らせたり。三めぐりばかりは、各別に参る。其の後「余りあいなう侍れば忝けれど、昔ざまに思しなずらへ、許させ給ひてんや」と、御気色とり給へば、女院の御土器を斎宮参る。其の後、院聞こし召す。御几帳ばかりを隔てて、長押の下へ、西園寺の大納言実兼、善勝寺の大納言隆顕召さる。簀子に、長輔・為方・兼行・資行など候ふ。数多度流れ下りて、人々そぼれがちなり。「故院の御事の後は、かやうの事もかき絶えて侍りつるに、今宵は珍しくなん。心とけて遊ばせ給へ」など、うち乱れ聞こえ給へば、女房召して、御箏共かき合はせらる。院の御前に御琵琶、西園寺もひき給ふ。兼行篳篥、神楽うたひなどして、ことごとしからぬしも面白し。こたみは、先づ斎宮の御前に、院自ら御銚子を取りて聞こえ給ふに、宮いと苦しう思されて、とみにもえ動き給はねば、女院「此の御土器の、いと心もと無く見え侍るめるに、こゆるぎの磯ならぬ御さかなやあるべからん」と宣へば、「売炭の翁はあはれなり。おのが衣は薄けれど」と言ふ今様をうたはせ給ふ。御声いと面白し。宮聞こし召して後、女院御杯をとり給ふとて、「天子には父母無しと申すなれど、十善の床をふみ給ふも、いやしき身の宮仕へなりき。一言報ひ給ふべうや」と宣へば、「さうなる御事なりや」と、人々目をくはせつつ忍びてつきしろふ。「御前の池なる亀岡に、鶴こそ群れ居て遊ぶなれ」とうたひ給ふ。其の後、院聞こし召す。善勝寺「せれうの里」を出だす。人々声加へなどして、らうがはしき程になりぬ。かくていたう深けぬれば、女院も我が御方に入らせ給ひぬ。かくて其の儘のおましながら、かりそめなるやうにてより臥し給へば、人々も少し退きて、苦しかりつる名残に程無く寝入りぬ。

明日は宮も御帰りと聞こゆれば、今宵ばかりの草枕、猶結ばまほしき御心の鎮め難くて、いとささやかに御座する人の、御衣など、さる心して、なよらかなるを、まぎらはしすべしつつ、忍びやかにふるまひ給へば、驚く人も無し。何やかやと、なつかしう語らひ聞こえ給ふに、靡くとは無けれども、只いみじうおほどかに、やはらかなる御様して、思しほれたる御気色を、よそなりつる程の御心惑ひまでは無けれど、らうたくいとほしと思ひ聞こえ給ひけり。長き夜なれど、深けにしかばにや、程なう明けぬる夢の名残は、いとあかぬ心地しながら、きぬぎぬになり給ふ程、女宮も心苦しげにぞ見え給ひける。其の後も、折々は聞こえ動かし給へど、差しはへてあるべき御事ならねば、いと間遠にのみなん。「まくる習ひ」までは有らずや御座しましけん。あさましとのみ尽きせず思し渡るに、西園寺の大納言、忍びて参り給ひけるを、人がらもまめまめしく、いと懇ろに思ひ聞こえ給へれば、御母代の人なども、いかがはせんにて、やうやう頼みかはし給へば、ある夕つ方、「内よりまかでんついでに、又必ず参りこん」と頼め聞こえ給へりければ、其の心して誰も待ち給ふ程に、二条の師忠の大臣、いと忍びて歩き給ふ道に、彼の大納言、扈従など数多して、いときらきらしげにて行きあひ給へれば、むつかしと思して、此の斎宮の御門あきたりけるに、女宮の御もとなれば、ことごとしかるべき事も無しと思して、しばし、彼の大納言の車やり過してんに出でんよと思して、門の下にやり寄せて、大臣、烏帽子直衣のなよらかなるにて降り給ひぬ。内には、大納言の参り給へると思して、例は、忍びたる事なれば、門の内へ車を引き入れて、対のつまより降りて参り給ふに、門より降り給ひぬ。怪しとは思ひながら、たそかれ時のたどたどしき程、何のあやめも見えわかで、妻戸をはづして人の気色見ゆれば、何と無くいぶかしき心地し給ひて、中門の廊に上り給へれば、例のなれたる事にて、をかしき程の童女房歩み出でて、気色ばかりを聞こゆるを、大臣は覚え無き物から、をかしと思して、尻につきて入り給ふ程に、宮も待ち聞こえ給ふと思しくて、御几帳にかくれて、なに心無くうち向ひ聞こえ給へるに、大臣もこはいかにとは思せど、何くれとつきづきしう、日頃の志有りつる由聞こえなし給ひて、いとあさましう、一方ならぬ御思ひ加はり給ひにけり。大納言は、此の宮をさして、かく参り給ひけるに、例ならず、男の車より降るる気色見えければ、あるやう有らんと思して、「御随身一人、其の渡りに、さりげなくてをあれ」とて、止めて帰り給ひにけり。男君は、いと思ひの外に心起こらぬ御旅寝なれど、人の御気色を見給ふも、有りつる大納言の車など思し合はせて、「いかにも此の宮にやうあるなめり」と心得給ふに、「いと好き好きしきわざなり。由なし」と思せば、深かさで出で給ひにけり。彼の残し置き給へりし随身、此の様よく見てければ、しかじかと聞こえけるに、いと心憂しと覚えて、「日頃もかかるにこそは有りけめ」。いとをこがましう、「彼の大臣の心の中もいかにぞや」と、数々思し乱れて、かき絶え久しく訪れ給はぬをも、此の宮には、かう残り無く見あらはされけんとも知ろし召さねば、怪しながら過ぎもて行く程に、只ならぬ御気色にさへ悩み給ふをも、大納言殿は一筋にしも思されねば、いと心やましう思ひ聞こえ給ひけるぞわりなき。然れども、さすが思しわく事や有りけむ、其の御程の事共も、いと懇ろに訪ひ聞こえさせ給ひけり。異御腹の姫宮をさへ、御子になどし給ふ。御処分も有りけるとぞ。いく程無くて、弘安七年二月十五日に、宮隠れさせ給ひにしをも、大納言殿、いみじう歎き給ひけるとや。誠や、新院には、一とせ、近衛殿の大殿の姫君、女御に参り給ひにしぞかし。女御と聞こえつるを、此の程院号有り、新陽明門院とぞ聞こゆめる。建治二年の冬の頃、近衛殿にて若宮生まれさせ給ひしかば、めでたくきらきらしうて、三夜・五夜・七夜・九夜など、いかめしく聞こえて、御子もやがて親王の宣旨など有りき。

増鏡 12 老のなみ

12 老のなみ

建治三年正月三日、内の上御冠し給ふ。十一にぞならせ給ふらんかし。御諱、世仁と聞こゆ。引きいれは関白太政大臣〔照念院〕殿兼平、理髪頭の中将基顕、御総角大炊御門大納言信嗣の君仕られけり。御遊び始まる。琵琶玄象今出川の大納言実兼、和琴鈴鹿信嗣大納言、箏の琴殿の大納言兼忠の君にて御座せしなんめり。屯食・禄などの事、常の如し。

二十二日、朝覲の行幸、亀山殿へなりしかば、上達部・殿上人、例の色々のえり、下襲・織物・打物、めでたくゆゆしかりき。御前の大井河に、龍頭鷁首浮かべらる。夜に入りて、鵜飼共召して、かがり火ともして乗せらる。御前の御遊び・地下の舞など、様々の面白き事共、例の事なれば、うるさくて、さのみもえ書かず。同じ三月二十六日、石清水の社へ行幸、四月十九日、賀茂の社へ行幸、いづれもめでたかりき。人々定めて記しおき給へらんと、譲りてとめ侍りぬ。春宮の御元服、八月と聞こえしを、奈良の興福寺の火の事により、延びて十二月十九日にぞせさせ給ひける。十六日に、先づ内裏へ行啓なる。清涼殿の東の廂に倚子を立てらる。御門も倚子につかせ給ふ。引きいれは左大臣師忠、理髪春宮の権大夫具守勤めらる。御諱煕仁と申しき。持明院殿より、女房、二無く清らにし立てて、十二人参る。東の御方も院の御車にて、殿上人・北面・召次など、いと美々しうて参り給へり。御門・春宮、いづれもいと美しき御有様なめり。新院は、つきせず、皇后宮の御座しまさましかばとのみ、しほたれがちに、思し忘るる世無き御心や慰むと、これ彼参らすれど、をさをさなずらへなるも無し。新陽明門院も、初めは御覚えあるやうなりしかど、次第にかれがれなる御事にて、御一人寝がちなり。故皇后宮の御はらからの中の君も、御面影や通ひたらんと、なつかしさに、忍びて懇ろに宣ひしかば、参らせ奉り給へれど、いとしも無くて、姫宮一所ばかり取り出で給へりし儘にてやみにき。姫宮をば、大宮院の御傍にぞ、かしづき聞こえ給ふ。

かくて弘安元年になりぬ。十月ばかり、又二条内裏に火出で来て、いみじうあさまし。万里小路殿は、有りし火の後又造られて、今年の八月に御わたまし有りて、新院住ませ給へれど、内裏焼けぬれば、此の院又内裏に成りぬ。うち続き火のしげさいと恐ろし。

其の頃、大宮院いと久しく悩ませ給へば、本院も新院も常に渡り給ひて、夜なども御座しませば、異御腹の法親王、姫宮達なども、絶えず御訪ひに詣でさせ給ふ中に、故院の位の御時、勾当の内侍と言ひしが腹に出で物し給へりし姫宮、後には五条院と聞こえし、未だ宮の御程なりしにや、いと盛りに美しげにて、切に隠れ奉り給ふを、新院あながちに御心にかけて、うかがひ聞こえ給ふ程に、此の御悩みの頃、いかが有りけん、いみじう思ひの外にあさましと思し歎く。彼の草枕よりは誠しう、にがにがしき御事にて、姫宮まで出で来させ給ひにき。限り無く人目をつつむ事なれば、怪しう、誰が御腹と言ふ事も無くて、院の御乳母の按察の二位、里に渡し奉り給へり。幼き御心にも、いかが心得給ひけん、「宮の御母君をば誰とか申す」と人の問ひ聞こゆれば、「言はぬ事」とのみぞ、いらへさせ給ひける。御心のあくがるる儘に、御覧じ過す人無く、乱りがはしきまで、たはれさせ給ふ程に、腹々の宮達、数知らず出で来給ふ。大方、十三の御年より、宮は出で来そめさせ給ひしが、年々に多くのみなり給へば、いとらうがはしきまでぞあるべき。故皇后宮の御雑仕にて、貫川と言ひし、御霊とかや聞こゆる社の御子にてぞ有りける。先にも聞こえしやうに、位の御程に度々召されて、姫宮生まれ給へりしを、それも御乳母の按察の二位殿の里に、彼の五条院の御腹のと二所、同じ御かしづき草にて御座せし程に、近衛殿へ参らせ給へれば、殿はもと御座せし北政所をもすさめ給ひて、此の宮を類無く思ひ聞こえさせ給ふ程に、かひがひしく若君〈 左大臣経平 〉出で来給へるをも、いみじうかしづきいたはり給ひて、前の北政所の御腹の太郎君、中将ばかりにて物し給ふをも、よくせずは、押しのけつべうもてなし奉り給ひけるを、新院聞かせ給ひて、いといとほしき事なり。これは未だ稚児なり。ちと大人しうなり給へるをば、いかでか引き違ふるやうは有らん」と宣はせて、其の弟君は、遂に御家も保たせ給はざりしなり。又、北白河殿の女院に、大納言の君とて候ひし人の曹司に、下野と言ひし物は、田楽とかや言ふ事する怪しの法師の、名をば玄駒と言ふが娘なりき。彼の女院は、新院の御母代にて、常に御幸もなりにしかば、おのづから御覧じそめけるにや、事の外に時めき出でて、此の院に召し渡されて、花山院の太政大臣の御子になされ、廊の御方とぞつけさせ給ふ。其の御腹にも宮生まれ給ひぬ。大宮の女院に讚岐とて候ひしは、西園寺の御家の者景房と言ひしが娘なりしを、いみじう思いて、これも召し取りて、西園寺の大臣の御子になして、二品の加階賜はる。これも若君生まれ給ひにき。帥の中納言為経の娘の帥の典侍殿と言ひしが御腹にも、宮たち数多生まれ給ふ。九条殿の北政所、又梨本・青蓮院の法親王など大納言の典侍の御腹、昭慶門院は中納言の典侍、十楽院の慈道法親王は帥の典侍殿の腹、かやうにすべて多く物し給ふ。昔の嵯峨天皇こそ、八十余人まで御子もち給へりけると、承り伝へたるにも、ほとほと劣り給ふまじかめり。内には中々女御・更衣も候ひ給はず。いとさうざうしき雲の上なり。西園寺より女御参り給ふべしと聞こえながら、いかなるにか、すがすがとも思し立たぬは、思ふ心御座するなめりとぞ、世の人もささめきける。新院の御位の時参り給へりし西園寺の中宮は、院号有りて、今出川の院と聞こゆなり。彼の御覚えなどのいと口惜しかりしより、此の院の御方様をつらく思ひ聞こえ給ふなめりなどぞ、言ひなす人も侍りけるとぞ。

三月の末つ方、持明院殿の花盛りに、新院渡り給ふ。鞠のかかり御覧ぜんとなりければ、御前の花は木末も庭も盛りなるに、外の桜をさへ召して、散らし添へられたり。いと深う積りたる花の白雪、跡つけがたう見ゆ。上達部・殿上人、いと多く参り集まり、御随身・北面の下臈など、いみじうきらめきて候ひあへり。わざとならぬ袖口共押し出だされて、心異に引きつくろはる。寝殿の母屋に、御座対座に設けられたるを、新院入らせ給ひて、「故院の御時、定め置かれし上は、今更にやは」とて、長押の下へ引き下げさせ給ふ程に、本院は出で給ひて、「朱雀院の行幸には、主の座をこそ直され侍りけるに、今日の御幸には、御座をおろさるる、いとことやうに侍り」など聞こえ給ふ程、いと面白し。むべむべしき御物語は少しにて、花の興に移りぬ。御土器など良き程の後、春宮〈 伏見院 〉御座しまして、かかりの下に皆立ち出で給ふ。両院・春宮立たせ給ふ。半ば過る程に、客人の院上り給ひて、御襪など直さるる程に、女房別当の君、又上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや、樺桜の七・紅のうち衣・山吹の表着・赤色の唐衣・すずしの袴にて、銀の盃、柳箱にすゑて、同じひさげにて、柿ひたし参らすれば、はかなき御たはぶれなど宣ふ。暮れかかる程、風少しうち吹きて、花も乱りがはしく散りまがふに、御鞠数多く上がる。人々の心地いと艶なり。故ある木蔭に立ち休らひ給へる院の御かたち、いと清らにめでたし。春宮もいと若う美しげにて、濃き紫の浮き織物の御指貫、なよびかに、気色ばかり引き上げ給へれば、花のいと白く散りかかりて、文のやうに見えたるもをかし。御覧じ上げて、一枝押し折り給へる程、絵にかかまほしき夕ばえ共なり。其の後も、御酒など、らうがはしきまで聞こし召しさうどきつつ、夜深けて帰らせ給ふ。六条殿の長講堂も、焼けにしを造られて、其の頃、御わたましし給ふ。卯月の初めつ方より、院の上、庇の御車にて、上達部・殿上人・御随身、えも言はず清らなり。女院の御車に、姫宮も奉る。出車数多、皆白きあはせの五衣・濃き袴・同じ単にて、三日過ぎてぞ、色々の衣共、藤・躑躅・撫子など着かへられける。しばし此の院に渡らせ給へば、人々絶えず参り集ふ。西園寺の殿ばらなども、日ごとに参り給ふ。御壺わかたせ給ひて、前栽合はせ有りしにも、をかしう珍しき事共多かりき。某の朝臣の、槙の島の気色を造りて侍りけるを、平大納言経親、未だ下臈にて、兵衛佐など言ひける程にや、其の宇治川の橋を盗みて、我がつくろひたる方に渡して侍りける、いと恐ろしく心賢くぞ侍りける。

例の五月の供花、やがてうち続きければ、女院達宮々など、夜の御時に閼伽奉らせ給へば、御堂のかをり、名香の香も、外には多く勝りて、いとしみ深うなまめかしう面白し。大方、いづれも年に二度は昔よりの事にて、いみじう経営し給へば、世の人の靡き仕る様限り無し。日に二度院の出で居させ給ふに、関白・大臣以下、やむごとなき人々絶えず候ひ給ふ。大中納言・二位三位・非参議・四位五位などは、まして数知らず。すべて前の司、道々の人々、道なども参る事なれば、時ならぬ院の御前とも無く、いみじう花やかに面白う尊し。昔の後二条の関白師通と聞こえしは、「おりゐの御門の門に、車の立つべき事なし」と、そしり給ひけるに、今の世を見給はばと思ひ出でらる。九月の供花には、新院さへ渡り物し給へば、いよいよ女房の袖口心異に用意加へ給ふ。

御花はつれば、両院一つ御車にて、伏見殿へ御幸なる。秋山の気色御覧ぜさせんとなりけり。上達部・殿上人、かなたこなた押し合はせて、色々の狩衣姿、菊紅葉こき交ぜてうちむれたる、見所多かるべし。野山の気色色づき渡るに、伏見山、田の面に続く宇治の川浪、遙々と見渡されたる程、いと艶なるを、若き人々などは、身にしむばかり思へり。鷹司殿の大殿も参り給ふべしと聞こえけるを、御物忌みとてとまり給へれば、五葉の枝につけて奏せられける。

伏見山幾万代も枝添へてさかへん松の末ぞ久しき

御返し、

栄ゆべき程ぞ久しき伏見山おひそふ松の枝をつらねて

又の日は、伏見の津に出でさせ給ひて、鵜舟御覧じ、白拍子御船に召し入れて、歌うたはせなどせさせ給ふ。二、三日御座しませば、両院の家司共、我劣らじといかめしき事共調じて参らせあへる中に、楊桃の二位兼行、桧破子共の、心ばせ有りて仕れるに、雲雀と言ふ小鳥を荻の枝につけたり。源氏の松風の巻を思へるにや有りけん。為兼の朝臣を召して、本院「彼はいかが見る」と仰せらるれば、「いと心得侍らず」とぞ申してける。誠に、定家の中納言入道が書きて侍る源氏の本には、荻とは見え侍らぬとぞ承りし。かやうに御中いとよくて、はかなき御遊びわざなども、いどましき様に聞こえかはし給ふを、目安き事に、なべて世の人も思ひ申しけり。ある時は、御小弓射させ給ひて、「御負けわざには、院の内に候ふ限りの女房を見せさせ給へ」と、新院宣ひければ、童の鞠蹴たる由を作りなして、女房共に水干着せて出だされたる事も侍りけり。新院の御賭物には、亀山殿にも、五節のまねに、舞姫・童・下仕へまでになされけり。上達部、直衣に衣出だして、露台の乱舞・御前の召し・北の陣・推参まで尽くされ侍り〔ける〕とぞ承りし。此の御代にも、又勅撰の沙汰、一昨年ばかりより侍りし、為氏の大納言撰ばれつる、此の十二月にぞ奏せられける。続拾遺集と聞こゆ。「たましひある様にはいたく侍らざめれど、艶には見ゆる」と、時の人々申し侍りけり。続古今の引きうつし、おぼろけの事は、立ちならび難くぞ侍るべき。

かくて年も変はりぬ。其の頃、新陽明門院、又只ならず御座しますと聞えし、五月ばかり、御気色あれば、珍しう思す。内々、殿にてせさせ給へば、天の下の人々参り集ふ。前の度、生まれさせ給へる若宮は、隠れさせ給ひにしを、新院本意無しと思されけるに、又かく物し給へば、めでたう思ふ様なる御事も有らばと、今より思しかしづくに、いとかひがひしう若宮生まれさせ給へれば、限り無く思さる。八月、御子の御歩きぞめとて、万里小路殿に渡らせ給ふ。唐庇の御車に、後嵯峨院の更衣腹の姫宮、聖護院の法親王の一つ御腹とかや、御母代にて添ひ奉り給ふ。又、三条の内大臣公親の御女、内の上の御乳母なりしも、めでたき御肖物とて、御車にて、二人乗り給ふ。女院は、院の上一つ御車に、菊の網代の庇に奉る。宮の御車にやり続けて、よそほしくめでたき御事なり。其の頃、倹約行はるとかや聞こえし程にて、下簾短くなされ、小金物抜かれけり。物見車共のも、召次寄りて切りなどしけるをぞ、「時しもや、かかるめでたき御事の折ふし」など、つぶやく人も有りけるとかや。此の宮も親王の宣旨有りて、いとめでたく聞こえし程に、明くる年九月、又隠れさせ給ひにし、いと口惜しかりし御事なり。

弘安も四年になりぬ。夏頃、後嵯峨院の姫宮、隠れさせ給ひぬ。後堀川院の御女にて神仙門院と聞こえし女院の御腹なれば、故院もいとおろかならずかしづき奉らせ給ひけり。御かたちも類無く美しう御座しまして、「人の国より女の本を尋ねんには、此の宮の似絵をやらん」などぞ、父の御門仰せられける。御乳母隆行の家に御座しましける程に、御乳母子隆康、忍びて参りける故に、あさましき御事さへ出で来て、これも御うみながしにて、俄に失せさせ給ひけりとぞ聞こえし。其の頃、蒙古起こるとかや言ひて、世の中騒ぎ立ちぬ。色々様々に恐ろしう聞こゆれば、「本院・新院は東へ御下りあるべし。内・春宮は京に渡らせ給ひて、東の武士共上り候ふべし」など沙汰有りて、山々寺々、御祈り、数知らず。伊勢の勅使に、経任の大納言参る。新院も八幡へ御幸なりて、西大寺の長老召されて、真読の大般若供養せられ、大神宮へ御願に、「我が御代にしもかかる乱れ出で来て、誠に此の日本の損なはるべくは、御命を召すべき」由、御手づから書かせ給ひけるを、大宮院、「いとあさましき事なり」と、猶諌め聞こえさせ給ふぞ、理にあはれなる。東にも、言ひ知らぬ祈り共こちたく罵る。故院の御代にも、御賀の試楽の頃、かかる大事有りしかど、程無くこそ鎮まりにしを、此の度は、いとにがにがしう、牒状とかや持ちて参れる人など有りて、わづらはしう聞こゆれば、上下思ひ惑ふ事限り無し。然れども、七月一日、おびたたしき大風吹きて、異国の舟六万艘、兵乗りて筑紫へよりたる、皆吹き破られぬれば、或は水に沈み、おのづから残れるも、泣く泣く本国へ帰りにけり。石清水の社にて、大般若供養説法いみじかりける刻限に、晴れたる空に、黒雲一村、俄に見えてたなびく。彼の雲の中より、白き羽にてはぎたる鏑矢の大なる、西をさして飛び出でて、鳴る音おびたたしかりければ、彼処には、大風の吹きくると兵の耳には聞こえて、浪荒くたち海の上あさましくなりて、皆沈みにけるとぞ。猶我が国に神の御座します事、験に侍りけるにこそ。さて為氏の大納言、伊勢の勅使にて上る道より申しおくりける。

勅をして祈るしるしの神風に寄せくる浪ぞかつくだけつる

かくて静まりぬれば、京にも東にも、御心共おち居て、めでたさ限り無し。彼の異国の御門、心憂しと思して、湯水をも召さず、「我いかにもして、此の度日本の帝王に生まれて、彼の国を滅ぼす身とならん」とぞ誓ひて死に給ひけるとぞ、聞き侍りし、誠にや有りけむ。

同じ六年正月六日、日吉の社の訴訟勅裁無しとて、御輿は都へ入らせ給ふ。六波羅の武士共、気色ばかり防き奉りけれど、まめやかには、神に向かひ奉りて弓射る者無ければ、紫宸殿・清涼殿などに振り捨て参らせて、山法師は上りぬ。御門は急ぎ対屋に出でさせ給ひて、腰輿にて近衛殿へ行幸なる。殿上人共柏挟みして仕りけり。七日の節会も、まほには行はれず。それより三条坊門万里小路の通成の大臣の家へ行幸なりて、しばし内裏になりし時、万里小路おもての四足は建てられ侍りき。かかりし程に、此の家に、石清水の若宮をいはひ参らせたる神御座しますに、狐多く侍りけるを、滝口の某とかや、過ちたりける御とがめにて、万わづらはしく、かうがうしき事共有りければ、万里小路殿へかへらせ給ひにき。

此の御門は、ねび給ふ儘に、いと賢く、御才なども勝れさせ給へれば、なべて世の人も目出き事に思ひ聞こゆ。はかばかしき女御・后なども候ひ給はで、いと徒然なるに、新陽明門院の御方に、堀川の大納言の御女、東の御方とて候ひ給ふを、忍び忍び御覧じける程に、弘安八年二月ばかり、若宮出で物し給へり。いとやむごとなき御宿世なるべし。

今年、北山の准后、九十に満ち給へば、御賀の事、大宮院思しいそぐ。世の大事にて、天の下かしがましく響きあひたり。かく罵るは、安元の御賀に青海波舞ひたりし隆房の大納言の孫なめり。鷲の尾の大納言隆衡の娘ぞかし。大宮院・東二条院の御母なれば、両院の御祖母、太政大臣の北の方にて、天の下皆此の匂ならぬ人は無し。いとやむごとなかりける御幸なり。昔、御堂殿の北の方鷹司殿と聞こえしにも劣り給はず。大方、此の大宮院の御宿世、いと有り難く御座します。すべて古より今まで、后・国母多く過ぎ給ひぬれど、かくばかり取り集めいみじき例は、未だ聞き及び侍らず。御位の初めより選ばれ参り給ひて、争ひきしろふ人も無く、三千の寵愛一人にをさめ給ふ。両院うち続き出で物し給へりし、いづれも平かに、思ひの如く、二代の国母にて、今は既に御孫の位をさへ見給ふまで、いささかも御心にあはず思し結ぼるる一ふしも無く、めでたく御座します様、来し方も類無く、行末にもまれにや有らん。古の基経の大臣の御女、延喜の御代の大后宮、朱雀・村上二代の国母にて御座せしも、初め出で来給ひて殊に悲しうし給ひし前坊に後れ聞え給ひて、御命の内は、絶えぬ御歎き尽きせざりき。九条の大臣師輔の御女、天暦の后にて御座せし、冷泉・円融、両代の御母なりしかど、めでたき御代をも見奉り給はず、御門にも先だち給ひて失せ給ひにき。御堂の御女上東門院、後一条・後朱雀の御母にて、御孫後冷泉・後三条まで見奉り給ひしかども、皆先立たせ給ひしかば、逆様の御歎き絶ゆる世無く、御命余り長くて中々人目を恥づる思ひ深く御座しましき。これも皆一の人にて、世の親と成り給へりしだに、やうをかへて様々の御身の愁ひは有りき。只人には、大納言公実の御娘こそ、待賢門院とて、崇徳・後白河の御母にて御座せしかど、それも後白河の御世をば御覧ぜず、讚岐の院の御末も御座しまさず。然れば、今のやうに、只人の御身にて、三代国のおもしといつかれ、両院とこしなへに仰ぎ捧げ奉らせ給へば、前の世もいかばかりの功徳御座しまし、此の世にも、春日大明神を初め、万の神明仏陀の擁護あつく物し給ふにこそと、有り難くぞ推し量られ給ふ。

かくて御賀は二月三十日頃なり。本院・新院・東二条院・遊義門院未だ姫宮と申す、皆予てより北山に渡らせ給ふ。新陽明門院も新院の一つの御車にて御座します。二十九日の夜、先づ行幸有り。歌づかさ楽を奏す。院司左衛門督公衡、事の由申して後、中門に寄せらる。其の後、春宮行啓、門よりおりさせ給ふ。傅の大臣二条殿、御車に参り給へり。其の日に成りぬれば、寝殿の東面の母屋・廂まで取り払ひて、釈迦如来の絵像かけ奉る。道場の飾り、誠の浄土の荘厳もかくこそと、めでたく清らを尽くされたり。御経の箱二合、金泥の寿命経九十巻・法華経入れらる。名香、柳の織物に藤を縫いたるに包みて、御経の机に寄せかく。御簾の中に、西の一間に繧繝二帖、唐錦の褥しきて、内の上の御座とす。同じ御座の北に、大文の高麗一帖敷きて、春宮渡らせ給ふ。西の廂に、これも屏風を添へて、繧繝二帖、錦の褥に、准后ゐ給へり。同じ廂に、東二条院渡らせ給ふ。遙々と、纐纈の几帳のかたびら出だして、色々の袖口共、御方々けぢめ別れて押し出でたる程、龍田姫もかかる錦の色はいかでかはと、いみじう好ましげなり。事なりぬるにや、両院・御門・春宮・大宮院・東二条院・今出川の院・春宮の大夫などうち続き、誦経の鐘の響きも、耳驚くばかり所せう聞こゆ。衆僧集会の鐘うちて後、上達部御前の座につく。階より東に、関白〔兼平公〕・左大臣〔師忠公〕・内大臣〔家基公〕・花山院の大納言長雅・源大納言通頼・大炊御門大納言信嗣・右大将通基・春宮の大夫実兼・左大将公守・三条の中納言実重・花山院の中納言家教・右衛門督公衡など候ひ給ふ。階より西に、四条の前の大納言隆親・春宮の権大夫具守・権中納言実冬〈 宗冬 〉・四条の宰相隆保・右衛門の督為世など、祗候せられたり。内の上、御引直衣・すずしの御袴、本院御烏帽子直衣・青鈍の御指貫、新院、御直衣・綾の指貫、春宮、桜の御直衣・霰に〓の紋、紫の御指貫、言ひ知らずなまめかしう見え給ふ。今日は皆御簾の中に御座します。大宮女院、白き綾の三御衣、東二条院、唐織物の桜の八・紅梅のひねりあはせの御単・かば桜の御小袿奉れり。姫宮、紅の匂十・紅梅の御小袿・萌黄の御単・赤色の御唐衣・生絹の御袴奉れる、常よりも異に美しうぞ見え給ふ。御座しますらんと思ほす間の辺に、内の上、常に御目じり只ならず、御心遣して御目止め給ふ。楽人・舞人、鳥向楽を奏す。鶏婁を先だてて、乱声、左右桙を振る。其の後、壱越調の調子を吹きて、楽人・舞人、衆僧集会の所に向ひて、安楽塩を吹く。衆僧、左右に分かれて参る。階の間より昇りて座につく。講師、法印憲実。読師、僧正守助。導師、高座に上りぬれば、堂童子、花篭をわかつ。杖とりの使、公敦の朝臣、杖を退けて舞を奏する程、気色ばかりうちそそぎたる春の雨、青柳の糸に玉ぬくかと見えたり。一の舞、久資と言ふ者、少しねびていとよしよししう、面もち足踏みかみさびて面白し。万歳楽・賀殿・陵王、右、地久・延喜楽・納曾利。久忠二の物にて、勅禄の手と言ふ事仕る時、右の大臣座を立ちて賞仰せらるれば、承りて拝し奉る程、いと艶なり。久助・正秋など言ふ物共も、賞承りて、笛を持ちながら起き伏し拝する様も、つきづきしう故有りて見ゆ。講讚の言葉めでたういみじ。今の世には富楼那尊者の如く言はるる者なれば、心止めて人々聞き給ふに、涙止め難き事共言ひ続く。高座果てて後、楽人、酒胡子を奏す。其の程に僧の禄を給ふ。頭の中将公敦より始めて、思ひ思ひの姿にて禄を取る。あるは闕腋に平胡〓、縫腋の袍に革総の剣など、心々なり。俊定・経継などは、巡方の帯をさしたり。衆僧まかづる程に、廻忽・長慶子奏して、楽人・舞人も退きぬる後、大宮院・准后の御台参る。陪膳権中納言、役送は実時・実冬・実躬・信輔・俊光など仕る。

かくて、又の日は三月の一日なり。寝殿のよそひ昨日の儘なり。舞台・楽屋ばかりを取りのけて、母屋の四方に壁代をかく。両院・内の上の御簾の役、関白候ひ給ふ。春宮のは、傅遅く参り給へば、大夫実兼勤め給ふ。内の上、今日は例の御直衣・紅のうちたる綿厚き御衣・織物の御指貫、いとめでたき御匂なり。本院、かた織物の薄色の御指貫・少し薄らかなる御直衣、新院、雲に鶴の浮織物の御直衣・同じ御指貫・紅の今少し色変はれるを奉れり。有らまほしき程にねび整ほり、しうとくに、ものものしき御様かたち、あなきよげ、今ぞ盛りに見え給ふ。春宮は色濃き御直衣・浮線綾の御指貫・紅のうちたるあはせを奉れり。とりどりにめでたく清らに御座します御かたち共の、いづれと無くあな美しと、うち見奉る人の心地さへ、そぞろにゑまし。大宮院などは、まして何事をかは思さるらむと推し量られ給ふ。かなたこなたの御随身共、近く候ひつるを、院出でさせ給ひぬれば、退きて、御階の西に並み居たる装束共、色々の花をつけ、高麗・唐土の綾錦、黄金・銀を延べたる様、いと余りうたてある程にぞ見ゆる。

今日は、内・春宮・両院、御膳参る。陪膳花山院の大納言〔長雅〕、役送四条の宰相・三条の宰相の中将、本院の陪膳大炊御門大納言信嗣、新院のは春宮の大夫など勤めらる。其の後、御遊び始まる。内の上御笛、柯亭と言ふ物とかや。御箱に入れたるを、忠世持ちて参れるを、関白取りて御前に奉らる。春宮、御琵琶〈 牧場 〉、宮権亮親定持ちて参りたるを、大夫御前に置かる。上達部の笛の箱別に有り。笛兵部卿良教・花山院の大納言〈 長雅 〉、笙源大納言通頼・左衛門督、篳篥兼行の朝臣、琵琶春宮の大夫、琴洞院の左大将、三位の中将実泰、和琴大炊御門大納言、拍子徳大寺中納言公孝、末拍子実冬、皆人々、直衣に色々の衣を出だす。例の安名尊・席田・鳥破急・律青柳・万歳楽・三台急。御遊び果てぬれば、殿上の五位共参りて、管絃の具をわかつ。御方々、冠り賜はり給ふ。道々の師共、加階賜はる。其の後、和歌の披講始まる。為道の朝臣、縫腋の袍に、壺負いて、弓に懐紙を取り具して、上達部の座の前を通りて、階の間より入りて、文台の上におく。其の外の殿上人共の歌は、一つに取り集めて、信輔一度に文台におく。文台の東に円座をしきて、春宮披講の程渡らせ給ふ。内宴など言ふ事にぞかくは有りけると、古き例も面白くこそ。上達部皆色々の衣を出だす。右大将〔通基〕、魚綾の山吹の衣着給へり。笏に歌をもち具し給ふ。内の上の御歌は殿ぞ書き給ひける。

行末を猶ながき世とちぎる哉弥生にうつる今日の春日に

新院の御製は内大臣書き給ふ。

ももいろと今や鳴くらん鴬も九かへりの君が春へて

春宮のは、左大将に書かせらる。

限り無き齢は未だ九十猶千代遠き春にもある哉

製に応ずと、上文字載せられたるも、内宴の例とかや。次々、例の多けれど、むつかしくてもらしつ。春宮の大夫こそ、いとうけばりてめでたく侍りしか。

代々の跡に猶立ち上る老の浪よりけん年は今日の為かも

其の後、東向の鞠のかかりある方へ渡らせ給ふ。御方々の女房、色々の衣、昨日には引きかへて、珍しき袖口を思々に押し出でたり。紫の匂・山吹・青鈍・かうじ・紅梅・桜萌黄などは女院の御あかれ、内の御方は、内侍のすけよりしも、皆松がさね・白格子・うら山吹、院の御方、葡萄染めに白筋・樺桜の青筋、春宮の女房、上紫格子・柳など、様々に目もあやなる清らを尽くされたり。同じ文も色もまじらず、心々に変はりて、いみじうぞ侍りける。後嵯峨院、蓮花王院御幸有りし時、両貫首同じやうに、藤の下がさね・山吹の上の袴なりしをば、いと念無き事に世の人も言ひ侍りしにや。御方々の女房共、八十余人押しこみて候はるる、いづれとも無く目うつりして、いみじうかたちも気色も目安くもてつけたり。後鳥羽院建仁の例とて、新院御上鞠三足ばかり立たせ給ひて、落とされぬ。内の上、御直衣・紺地の御袴、始めは御草鞋を奉りけれど、後には御沓、片足がはりの御襪、藍白地竹・紫白地桐の文、紫革の御結緒也。春宮、御直衣・紫の御指貫・同じ色革の御襪、新院、織物の御直衣・御指貫・文無き紫の御襪、関白殿文無きふすべ革、内の大臣紫革に菊をぬいたり。藤大納言為氏無文のふすべ革、其の外色々の錦革・藍革・藍白地、各けぢめわかるべし。為兼紫革、為道は藍白地なりけり。為兼とは、為氏の大納言の弟兵衛督為教と言ひしが子なり。為道は大納言の孫、為世の太郎なり。離れぬ中にて、いといたくいどみかはしたり。内の上は、白骨の御扇、左の御手に持たせ給ひて、花のいみじく面白き木蔭に立ち休らひ給へる御かたち、いとゆゆしきまで清らに見え給ふ。飽かず名残多く思さるれど、春の司召し・御燈など言ふ事共あれば、行幸は今宵かへらせ給ふ。御贈り物に御本参る。

明くる日、午の時ばかり、寝殿より西園寺まで筵道しきて、両院御烏帽子直衣、春宮御括り上げて堂々拝ませ給ふ。左衛門督、新院の御はかせ持たせ給へり。権亮親定、春宮の御はかせ持たれけり。妙音堂に御参りあるに、遅き桜一本ほころびそめて、今日の御幸を待ち顔なり。仏の御前に、かりそめの御座ながら、皆渡らせ給ふ。廂に上達部つきて、御遊の具召す。笛花山院の大納言、笙左衛門督、篳篥兼行、春宮御琵琶、大夫笙、大鼓具顕、鞨鼓範藤、盤渉調に調べ整へて、採桑老・蘇合・白柱・千秋楽など、いみじう面白し。うるはしき事よりも中々艶なり。兼行、「花は上苑に明なり」と、うち出だしたるに、いとど物の音もてはやされて、えも言はず聞こゆ。具顕・範藤など「羅綺の重衣」と、二返りばかり言へるに、「情け無き事を機婦にねたみ」と本院加へ給へば、新院、御声たすけ給ふ程、そぞろ寒きまで艶なり。帰らせ給ひても、又、昨日の花の蔭にて、舞御覧ぜられつつ、それよりやがて御船に奉りて押し出でたれば、遙かなる海づらに漕ぎ離れたらん心地して、いとをかし。小さき舟に上達部乗りて、はしにつけられたり。飽かざりつる妙音堂の調子をうつされて、有りつる同じ人々仕る。春宮又御琵琶。箏の琴は右衛門督と言ふ女房、御舟に参れるにひかせらる。舟の中の調べはいと艶なり。蘇合の五帖・輪台・青海波・竹林楽・越殿楽など、いく返りとも無く面白し。兼行「山又山」などうち誦したるに、「変態繽紛たり」と両院遊ばしたるに、水の底も怪しきまで、身の毛立ちぬべく聞こゆ。中島に御舟差しとめて見れば、旧苔年ふりたる松の枝差しかはせる岩のたたずまひ、いと暗がりたるに、池の水、心のどかに見えて、名も知らぬ小鳥共乱れ飛ぶ気色、何と無くをかし。遠きさかひに臨める心地するに、めぐれる山の滝つ岩ね、遙かにかすみて見渡さるる程、仙人の洞もかくやとぞ覚ゆる。「二千里の外の心地こそすれ」など宣ひて、新院、

雲の浪煙のなみをわけてけり

誰にか有らん、女房の中より、

行末遠き君が御代とて

春宮の大夫、

昔にも猶立ち越ゆるみつぎもの

具顕の中将、

曇らぬ影も神のまにまに

春宮、

九十に猶も重ぬる老のなみ

本院、

たちゐ苦しき世の習ひ哉

暮れはつる程に、釣殿へ御舟寄せて、降りさせ給ひぬ。春宮、今夜帰らせ給へば、御贈り物に、和琴一つ奉らせ給ふ。誠や、准后にも恵果和尚の三衣、紺地の錦に包みて、銀の箱に入れて参らせらる。いづれも大宮院の御沙汰なり。掃部寮、火しげうともして、うち群れつつゐたる様も、なまめかしうみやびかなり。ここ彼処には、此の御賀の事共書きつけしるす人のみぞ多かめれば、片端だに、いとかたくなならんとあさまし。

何と無く過ぎ行く程に、弘安も十年になりぬ。此の御門、位に即かせ給ひて、十三年ばかりにや成りぬらん。本院、待ち遠に思さるらんと、いとほしく推し量り奉るにや、例の東より奏する事あるべし。新院の御方様には、心細う聞こし召し悩むべし。去年の春、御乳母の按察の二位殿失せにしかば、一めぐりの仏事に亀山殿へ御座しまして、いかめしう八講行はせ給ふ日、雪いたう降りければ、九条の三位隆博、桧扇のつまを折りて、

跡とめてとはるる御代の光をや雪の内にも思ひいづらん

女房の中に聞こえたるを、院御覧じて、返しに宣ふ。

無き人の重ねし罪も消えねとて雪の中にも跡を問かな

万飽かず思さるる程なれど、其の年の十月にをり居させ給ふ。もとの上は二十一にぞならせ給ひける。御本性もいとうるはしく、のどめたる様に思して、すくよかに、御才も賢うめでたう御座しませば、御政事共やうやう譲りや聞こえましなど思されつるに、いとあへ無く移ろひぬる世を、すげなく新院は思さるべし。春宮、位に即き給ひぬれば、天の下本院に推し移りぬ。世の中押し別れて、人の心共も、かかる際にぞあらはれける。今の御門も、故山階の大臣の御孫にて渡らせ給へば、彼の殿ばらのみぞ、いづ方にもすさめぬ人にて御座しける。

増鏡 13 今日の日影

13 今日の日影

正応元年三月十五日、官庁にて御即位有り。此の程は、香園院の左の大臣師忠関白にて御座しき。其の後、近衛殿家基、又九条の左大臣忠教、其の後、又近衛殿かへりなり給ひき。猶後に、歓喜園院など、いとしげう変はり給ふ。おりゐの御門を、今は新院と聞こゆれば、太上天皇三人世に御座します頃なり。いと珍しく侍るにや。御門の御母三位し給ふ。其の御はらからの姫君、御傍に候ひ給ふを、上いと忍びたる御むつびあるべし。東二条院の御例にやなどささめく人もあれど、さばかりうけばりては、えしもや御座せざらむ。三位殿御兄の公守の大納言の姫君も、幼くよりかしづきて候ひ給ふ。それもよそならぬ御契なるべし。此の君をぞ、父の殿も、いとうるはしき様にても、参らせまほしう思しつれど、西園寺の大納言実兼の姫君、いつしか参り給へば、きしろふべきにも有らず。其の年六月二日入内有り。其の夜先づ御裳着し給ふ。前の御代にもあらましは聞こえしかど、いかなるにか、さも御座せざりしに、いつしかかうも有りけるは、猶、思す心有りけるなめりとぞ、うちつけにひがひがしう言ひなす人も侍りける。此の姫君の母北の方は、三条坊門通成の内の大臣の女なり。候ふ人々も、押しなべたらぬ限りえり整へ、いみじう清らに思しいそぐ。万、人の心も昨日に今日は勝りのみ行くめれば、いやめづらに好ましうめでたし。大方大宮の院の御参りの例を思しなずらふべし。院の御子にこれも又なり給ふとて、東二条院御腰結はせ給ひて、時なりぬれば、唐庇の御車に奉りて、上達部十人・殿上人十余人・本所の前駆二十人、つい松ともして、御車の左右に候ふ。出車十両、一の左に母北の方の御妹一条殿、右に二条殿、実顕の宰相の中将の女を、大納言子にし給ふとぞ聞こえし。二の車の左に久我大納言雅忠の女、三条とつき給ふを、いとからい事に歎き給へど、皆人先だちてつき給へれば、あきたる儘とぞ慰められ給ひける。右に近衛殿、源大納言雅家の女なり。三の左には大納言の君、室町の宰相の中将公重の女、右に新大納言、同じき三位兼行とかやの女。四の左には宰相の君、坊門の三位基輔の女、右は治部卿兼倫の三位の女也。それより下は例のむつかしくてなん。多くは本所の家司、何くれが娘共なるべし。童・下仕へ・雑仕・はした物に至るまで、髪かたち目安く親うち具し、少しもかたほなる無く整へられたり。

其の暮れつ方、頭の中将為兼の朝臣、御消息もて参れり。内の上、自ら遊ばしけり。

雲の上に千代をめぐらん初めとて今日の日影もかくや久しき

紅の薄様に、同じ薄様をもて包まれたんめり。関白殿、「包むやう知らず」とかや宣ひけるとて、花山に心得たると聞かせ給ひければ、遣はして包ませられけるとぞ承りしと語るに、又此の具したる女、「いつぞやは、御使ひ、実教の中将とこそは語り給ひしか」と言ふ。女御のよそひは、蘇芳のはり一重がさね・濃きうらのひへぎ・濃き蘇芳の御表着・赤色の御唐衣・濃き御袴・地ずりの御裳奉る。女房のよそひ、押しなべて皆蘇芳のはり一重がさね・紅のひへぎ・濃き袴・蘇芳の表着・青朽葉の唐衣・薄色の裳・三重だすき、上下同じ様也。参り給ひぬれば、蔵人左衛門権佐俊光承りて、手車の宣旨有り。殿上人参りて御車引き入れ、御兄の中納言公衡、別当兼ね給へり。上の御甥の左衛門督通重、御兄になずらうる由聞こゆれば、御屏風・御几帳立てらる。昼の御座へ御車よせらる。御衾、二位殿参らせ給ふ。御台参りて、やがて夜の御殿へまう上り給ふ。此の御衾は、京極院のめでたかりし例とかや聞こえて、公守の大納言、沙汰し申されけるとかや承りしは、誠にや侍りけん。三が夜の餅も、やがて彼の大納言沙汰し申さる。内の上の、夜の御殿へ召して入らせ給へる御草鞋をば、二位殿取りて出でさせ給ひて、大納言殿と二人の御中に抱きて寝給ふと聞こえし。さきざきもさる事にてこそは侍りけめ。

八日、御所あらはしとて、上渡らせ給へば、袖口共心異にて、わざとなく押し出ださる。今日は、各紅の一重がさね・青朽葉の表着・二藍の唐衣なり。大納言殿も候はせ給ふ。上も御台参る。二位殿御陪膳、女御のは一条殿仕り給ふ。女御の君は、蘇芳のはり一重がさね・紅のひへぎ・青朽葉の表着・赤色の唐衣二重織物・唐の薄物の御裳・濃き綾の御袴、御髪いとうるはしくて盛りにねび整ほり給へる、いと見所多くめでたし。御共に参り給へる人々、右大臣・内大臣・大納言の左大将・花山院の中納言・権大夫・殿上人共、数多此処彼処の打橋・渡殿などに、気色ばみつつ群れ居たるも、艶なる心地すべし。上達部の勧盃果てて後、内の御方の御乳母を始めて、内侍・女官共、かなへ殿まで禄賜はる。十日の夕つ方、下大所の御覧有り。台盤所の北の御壺へ参る。同じそばの間にて、内の御方御覧ぜらる。やがて東面より女御も御覧ず。二位殿・一条殿・二条殿を始めて、上臈だつ人々、数多候ひ給ふ。御簾の外にも、上達部数多候はる。いとはればれし。十四日、又内の上入らせ給ひて、こなたにて初めて御酒聞こし召せば、南面へ出でさせ給ふ。女御、蘇芳の御一重がさね・萩の経青の御表着・朽葉の御小袿、皆二重織物、綾の織物、生絹の御袴、御紋竹立涌を織る。上は、御引直衣・生絹の御袴、櫑子参る。御陪膳は一条殿、今日よりはうちとけたる心地にて、女房共色々の一重がさね・唐衣、様々珍しき色共を尽くして、生絹の袴に着かへたる、今少し見所そひて、なつかしき様也。得選、櫑子をもて参る。次第に取りつぎて参らす。金の御ごき・銀の片口の御銚子、一条殿御陪膳、其の後、女御殿も御銚子に手かけさせ給ふ事侍りけり。今宵二位殿、今出川へまかで給ひて、手車の宣旨ゆり給ふ。御送りには御子の公衡の中納言。御甥の通重の左衛門の督など、殿上人共数多也。縫殿の陣より出で給ふ気色、いとよそほし。誠や、御入内の夜の御使ひ、勾当の内侍参れりし禄に、表着・唐衣を賜はる。御消息の御使ひに参られし上の人も、女の装束かづきながら帰り参りて、殿上の口に落とし捨つ。殿もりづかさぞ取る習ひなりける。後朝の御使ひには、公実の中将なりし。公衡の中納言対面して、勧盃の後、これも女の装束かづけらる。かくて八月二十日、后に立ち給ふ。予てより今出川の御家へまかで給ひて、節会の儀式、引き移し待ちとり給ふ様、いとめでたく、今更ならぬ事なれど、父の殿も遂の御位はさこそなれど、只今差しあたりては、未だ浅く御座するに、すがやかに后妃の位に定まり給ふこと、限り無き御世の覚えと、めでたく見ゆ。大宮院・本院・東二条院、皆渡り御座しまして、見奉り給ふさへぞやむごとなき。今日は、紅のはり一重がさね・ひへぎ・女郎花の表着・二藍の唐衣・薄色の裳、すべて二十人、同じ色のよそひ也。此の外、威儀の女房八人、白きはり一重がさね、濃きひへぎ、同じ袴、女郎花の衣にて候ふ。いづれと無く、かたち共きよげに目安し。

其の年の十一月八日ぞ、后の宮の御父、右大将になり給ひぬる。同じ二十五日、正二位し給ふ。此の程は、大嘗会・五節など罵る。前の御世に引きかへて、中宮・皇后宮・院達、あかれあかれ多く御座しませば、殿上人共推参の所多く、頭痛きまでめぐり歩く。其の年の十二月に、御門の御母三位殿、院号有り。朝に准后の宣旨有りて、同じき日の夕べに玄輝門院と申す。めでたくいみじかりき。

年返りて、正応も二年になりぬ。万めでたき事共多くて、三月二十三日、鳥羽殿へ朝覲の行幸なる。本院は、予てより鳥羽殿に御座しまして、池の水草かきはらい、いみじう磨かれて、例のことごとしき唐の御船うかべられて、二十四日に舞楽有りき。二十六日にぞ返らせ給ひける。さても、去年の三月三日かとよ、経氏の宰相の女の御腹に、若宮出で来させ給へりしを、太子に立て奉らせ給ふ。いと賢き御宿世也。中宮の御子にぞなし奉らせ給ひける。同じうは、誠にて御座せましかばとぞ、大将殿など思しけんかし。おりゐの御門も、御子数多御座しませば、坊になど思しけるを、引きよぎぬる、いと本意無し。十月二十五日、一院の御所にて、真魚聞こし召す。いとめでたき事共、罵り過ぎもて行く。

同じき三年三月四日五日の頃、紫宸殿の獅子・狛犬、中よりわれたる、驚き思して御占あるに、「血流るべし」とかや申しければ、いかなる事のあるべきにかと、誰も誰も思し騒ぐに、其の九日の夜、右衛門の陣より、恐ろしげなる武士三、四人、馬に乗りながら九重の中へ馳せ入りて、上に昇りて、女嬬が局の口に立ちて、「やや」と言ふ物を見上げたれば、丈高く恐ろしげなる男の、赤地の錦の鎧直垂に、緋をどしの鎧着て、只赤鬼などのやうなるつらつきにて、「御門はいづくに御よるぞ」と問ふ。「夜の御殿に」といらふれば、「いづくぞ」と又問ふ。「南殿より東北のすみ」と教うれば、南ざまへ歩み行く間に、女嬬、内より参りて、権大納言の典侍殿・新内侍殿などに語る。上は、中宮の御方に渡らせ給ひければ、対の屋へ忍びて逃げさせ給ひて、春日殿へ、女房のやうにて、いと怪しき様をつくりて、入らせ給ふ。内侍、剣璽を取りて出づ。女嬬は玄象・鈴鹿取りて逃げけり。春宮をば、中宮の御方の按察殿抱き参らせて、常盤井殿へかちにて逃ぐ。其の程の心の中共言はん方無し。此の男をば、浅原の某とか言ひけり。からくして、夜の御殿へ尋ね参りたれども、大方人も無し。中宮の御方の侍の長景政と言ふ物、名乗り参りて、いみじく戦い防きければ、疵冠りなどしてひしめく。かかる程に、二条京極の篝屋備後の守とかや、五十余騎にて馳せ参りて時をつくるに、合はする声、僅かに聞こえければ、心安くして内に参る。御殿共の格子引きかなぐりて乱れ入るに、適はじと思ひて、夜の御殿の御褥の上にて、浅原自害しぬ。太郎なりける男は、南殿の御帳の内にて自害しぬ。弟の八郎と言ひて十九になりけるは、大床子の足の下にふして、寄る者の足を斬り斬りしけれども、さすが、数多して搦めんとすれば、適はで自害すとて、腸をば皆繰り出だして、手にぞ持たりける。其の儘ながら、いづれをも六波羅へかき続けて出だしけり。ほのぼのと明くる程に、内・春宮、御車にて忍びて帰らせ給ひて、昼つ方ぞ、又更に春日殿へなる。大方、雲の上けがれぬれば、いかがにて、中宮の昼の御座へ腰輿寄せて、兵衛の陣より出でさせ給ふ。春宮は糸毛の御車にて、又常盤井殿へ渡らせ給ふ。中宮も春日殿へ行啓なる。世の中ゆすり騒ぐ様、ことの葉も無し。

此の事、次第に六波羅にて尋ね沙汰する程に、三条の宰相の中将実盛も召しとられぬ。三条の家に伝はりて、鯰尾とかや言ふ刀の有りけるを、此の中将、日頃持たれたりけるにて、彼の浅原自害したるなど言ふこと共出で来て、中の院(ゐん)も知ろし召したるなど言ふ聞こえ有りて、心憂くいみじきやうに言ひあつかふ、いとあさまし。中宮の御兄権大納言公衡、一院の御前にて、「此の事は、猶、禅林寺殿の御心合はせたるなるべし。後嵯峨院の御処分を引き違へ、東よりかく当代をも据ゑ奉り、世を知ろし召さする事を、心よからず思すによりて、世を傾け給はんの御本意なり。さてなだらかにも御座しまさば、勝る事や出で詣でこん。院を先づ六波羅に移し奉らるべきにこそ」など、彼の承久の例も引き出でつべく申し給へば、いといとほしうあさましと思して、「いかでか、さまでは有らん。実ならぬ事をも、人はよく言ひなす物也かし。故院の無き御影にも、思さん事こそいみじけれ」と涙ぐみて宣ふを、心弱く御座しますかなと、見奉り給ひて、猶内よりの仰せなど、きびしき事共聞こゆれば、中の院(ゐん)も新院も思し驚く。いとあわたたしきやうになりぬれば、いかがはせんにて、知ろし召さぬ由誓ひたる御消息など、東へ遣はされて後ぞ、事鎮まりにける。

さて九月の初めつ方、中の院(ゐん)は御髪おろさせ給ふ。いとあはれなる事共多かるべし。禅林寺殿にて、やがて御如法経など書かせ給ふ。一院の世の中恨み思されし時、既にと聞こえしは、さも御座しまさで、かくすがやかにせさせ給ひぬる、いと定め無し。しばしは禅僧にならせ給ふとて、緑衫の御衣に掛絡と言ふ袈裟かけさせ給へり。四十一にぞ物し給ひける。御法名金剛覚と申すなり。新陽明門院を始め奉りて、色々御召人共、廊の御方・讚岐の二位殿など、さびしき院に残りて、あるは様かへ、あるは里へまかでなど、様々散り散りになる程、いと心細し。

中務の宮の御娘は、もとよりいとあざやかならぬ御覚えなりしかば、世を捨てさせ給ふ際とても、取りわきたる御名残も無かるべし。禅林寺の上の院の、人はなれたる方に据ゑ聞こえさせ給へれば、異にふれて、いと寂しく心細き御有様なるを、おのづから言とひ聞こゆる人も無し。源氏の末の君に、中将〔ばかり〕なる人、院に親しく仕りなれて、家もやがて其の渡りにあれば、程近き儘に、折々此の宮の御宿直など心にかけて仕るを、候ふ人々もいと有り難くもと思ふ。宮の御方は、此の頃いみじき御盛りの程にて、まほに美しう御座しますを、あたらしう見奉りはやす人の無き事と思ひあへり。七月ばかり、風あららかに吹き、稲妻けしからずひらめきて、神鳴り騒ぐ、常よりも恐ろしき夜、はかばかしき人も無ければ、上下いとあわたたしく、心細う思し惑ふ。法皇は、亀山殿に過ぎにし頃より御座しませば、近きあたりにだに人のけはひも聞こえず。あはれなる程の御有様にて、墨をすりたらむやうなる空の気色のうとましげなるを、ながめさせ給ひなどするに、例の中将、そぼち参りて、侍めく物一、二人、弓など持たせて、「御宿直仕り侍るべし。某も、侍の方に侍らん」など申すにぞ、いささか頼もしくて、人々なぐさめ給ふ。御座します母屋にあたれる廂の勾欄に押しかかりて、香染めのなよらかなる狩衣に、薄色の指貫うちふくだめる気色にて、しめじめと物語しつつ、いたう深け行くまで、つくづくと候ひ給へば、御簾の中にも心遣して、はかなきいらへなど聞こゆ。暁がたになりぬれば、御几帳引き寄せて、御殿ごもりぬる傍に、いと馴れ顔に添ひふす男有り。夢かやと思して御覧じ上げたれば、「年月、思ひ聞こえつる様、おほけなくあるまじき事と思ひかへさひ、ここら忍ぶるに余りぬる程、只少し、かくて胸をだに休め侍らんばかり」など、いみじげに聞こゆるは、早う有りつる中将なりけり。いとうたて、心憂のわざやと思すに、御涙もこぼれぬ。近き手あたり御もてなしのなよびかさなど、まして思ひ沈むべうも無ければ、いといとほしう、ゆくりなき事とは思ひながら、残りなうなりぬ。身のうさの限りなうもあるかなと、前の世もうらめしう、言ふ甲斐無き事を思し続けて、よよと泣き給ふ様、いよいよらうたし。見るとしも無き夢のただぢをうち驚かす鐘の声・鳥の音も、人遣りならぬ心づくしに、え出でやらず。

起き別れ行く空も無き道芝の露より先に我や消なまし

出でがてに休らいたる面影も、何の御目とまるふしも無し。さばかりいみじかりし院の御目うつりに、こよなの契の程やと、思し知らるるもつらければ、いらへもし給はず。あさましうも心憂くも、様々思し乱るるに、御心地もまめやかに損なはれぬべし。按察の君と言ふ人、語らひとられけるなめり。忍びて御消息しげう聞こゆるをも、いとうたて、心づきなう思されながら、さてしも果てぬ習ひにや、いと又あはれなる事さへ物し給ひけり。かかるにつけても、此の世一つには有らざりける御契の程、浅からず推し量らる。中将もよとともにあくがれ勝りて、夢の通ひ路、足も休めず成り行く。此の御気色もやうやうしるき程になり給へば、空恐ろしとて、忍びて御乳母だつ人の家など言ひなして、白河わたり、かごやかにをかしき所用意して、率て渡し奉りつつ、猶自らは、さすがに世のつつましければ、忍びつつぞ御宿直しける。そこにてこそ御子も生み給ひけれ。此の中将、才賢くて、末の世には、事の外にもてなされて、先づ一品して、しばし御座せし頃、御百首の歌に、

位山上り果てても峰におふる松に心を猶残すかな

さて遂に内大臣まで上られき。さて元応の頃かとよ、百首歌奉りし中に、

集めこし窓の蛍の光もて思ひしよりも身をてらすかな

と詠まれ侍りき。有房と聞こえしが、若くての世の異なるべし。

新陽明門院も、禅林寺殿のしもの放ち出でに、徒然として御座します程に、松殿宰相の中将兼嗣、いかがしたりけん、常に参り給ひし程に、果てには、其の宰相の中将の御子に、世を逃れたる人有りき。其の御房に思しうつりて、限り無く思したりし程に、御子をさへ生み給ひき。其の姫君は、始めは富の小路の中納言秀雄の北の方にて御座せしが、後には歓喜園院の摂政と聞こえし末の御子に、基教の三位中将と聞こえし上になりて、失せ給ふまで御座しき。故女院いとほしくし給ひしかば、御処分など、いといと猛に有りき。「さのみかかる御事共をさへ聞こゆるこそ、物言ひさが無き罪去り所無けれど、よしや昔もさる事有りけりと、此の頃の人の御有様も、おのづから軽き事有らば、思ひ許さるる例にもなりてん物ぞと思へば、遠き人の御事は、今は何の苦しからんぞとて、少しづつ申すなり」と、うち笑ふもはしたなし。「いづら。此の頃は、誰か悪しく御座する」と問へば、「いないなそれは空恐ろし」とて、頭をふるもさすがをかし。

増鏡 14 つげの小櫛

14 つげの小櫛

さても、石清水の流れをわけて、関の東にも、若宮と聞こゆる社御座しますに、八月十五日、都の放生会を学びて行ふ。其の有様、誠にめでたし。将軍も詣で給ふ。位ある兵・諸国の受領共など、色々の狩衣、思ひ思ひの衣重ねて出で立ちたり。赤橋と言ふ所に、将軍御車止めて降り給ふ。上達部は、上の衣なるも有り。殿上人などいと多く仕れり。此の将軍は、中務の宮の御子なり。此の頃権中納言にて、右大将かね給へれば、御随身共、花を折らせてさうぞきあへる様、都めきて面白し。法会の有様も、本社に変はらず。舞楽・田楽・獅子がしら・流鏑馬など、様々所にしつけたる事共面白し。十六日にも、猶かやうの事なり。桟敷共いかめしく造り並べて、色々の幔幕など引き続けて、将軍の御桟敷の前には、相模の守を初め、そこらの武士共並み居たる気色、様変はりて、好ましううけばりたる、心地よげに、所につけては又無く見えたり。

其の後、いく程無く、鎌倉より騒がしきこと出で来て、皆人肝をつぶし、つぶし、ささめくと言ふ程こそあれ、将軍都へ流され給ふとぞ聞こゆる。珍しき言の葉なりかし。近く仕る男女、いと心細く思ひ歎く。たとへば、御位などの変はる気色に異ならず。さて上らせ給ふ有様、いと怪しげなる網代の御輿を逆様に寄せて、乗せ奉るも、げにいとまがまがしき事の様也。うちまかせては、都へ御上りこそ、いと面白くめでたかるべきわざなれど、かく怪しきは珍か也。御母御息所は、近衛殿の大殿と聞こえし御女也。父御子の、将軍にて御座しましし時の御息所也。先に聞こえつる禅林寺殿の宮の御方も、同じ御腹なるべし。文永三年より今年まで二十四年、将軍にて、天下 のかためといつかれ給へれば、日の本の兵を従へてぞ御座しましつるに、今日は彼らにくつ返されて、かくいとあさましき御有様にて上り給ふ。いといとほしうあはれなり。道すがらも思し乱るるにや、御たたう紙の音しげうもれ聞こゆるに、猛き武士も涙落としけり。

さて、此の代はりには、一院の御子、御母は三条の内大臣公親の娘、御匣殿とて候ひ給ひし御腹也。当代の御はらからにて、今少し寄せ重くやむごとなき御有様なれば、只受禅の心地ぞしける。もとの将軍御座せし宮をば造り改めて、いみじう磨きなす。兵の勝れたる七人、御迎へに上る中に、飯沼の判官と言ふ者、前の将軍上り給ひし道もまがまがしければ、あとをも越えじとて、足柄山をよぎて上るなどぞ、余りなる事にや。御子は十月三日御元服し給ひて、久明の親王と聞こゆめり。同じき十日、院よりやがて六波羅の北方、さきざきも宮の渡り給ひし所へ御座して、それよりぞ東に赴かせ給ふ。同じ二十五日、鎌倉へ著かせ給ふにも、御関迎へとて、ゆゆしき武士共うちつれて参る。宮は菊のとれんじの御輿に御簾上げて、御覧じならはぬ夷共のうち囲み奉れる、頼もしく見給ふ。しのぶを乱れ織りたる萌黄の御狩衣・紅の御衣・濃き紫の指貫奉りて、いと細やかになまめかし。飯沼の判官、とくさの狩衣、青毛の馬に、金の金物の鞍置きて、随兵いかめしく召し具して、御輿の際にうちたり。都にたとへば、行幸にしかるべき大臣などの仕り給へるによそへぬべし。三日が程は、椀飯と言ふ事、又馬御覧、何くれといかめしきこと共、鎌倉うちの経営也。宮の中の飾り御調度などは更にも言はず、帝釈の宮殿もかくやと、七宝を集めて磨きたる様、目も輝く心地す。いと有らまほしき御有様なるべし。関の東を都の外とて、おとしむべくも有らざりけり。都に御座しますなま宮達の、より所無くただよはしげなるには、こよなく勝りて、めでたくにぎははしく見えたり。時宗の朝臣と言ひしも、又頭おろして、法光寺の入道とて、いと尊く行ひて、世にもいろはず、太郎貞時、相模の守と言ふにぞ、万言ひつけける。さても上り給ひにし前の大将殿は、嵯峨の辺に御髪おろし、いとかすかにさびしくてぞ御座しける。

かくて年変はりぬ。その年二月の頃、一院御髪おろし給ふ。年月の御本意なれど、たゆたい過ぐし給ひけるに、禅林寺殿、去年の秋思し立ちにしに、いとど驚かさせ給ひぬるにや有りけん。二月十一日、亀山殿にて、いむ事受けさせ給ふ。四十八にぞならせ給ふ。御法名素実と申す也。

正月の一日、節会など果てて、夕つ方、内の上、皇后宮の御方へ渡らせ給へれば、宮は〔中〕濃き紅梅の十二の御衣に、同じ色の御単・紅のうちたる・萌黄の御表着・葡萄染めの御小袿・花山吹の御唐衣、唐の薄物の御裳気色ばかり引きかけて、御髪ぞ少し薄らぎ給へれど、いとなよびかに美しげにて、常よりも異に匂ひ加はりて見え給ふ。御前に御匣殿、花山院の内大臣師継の女、二藍の七に紅の単・紅梅の表着・赤色の唐衣・地摺の裳、髪うるはしく上げて候ひ給ふ。かんざし・やうだい、これもけしうは有らず見ゆ。あたらしき年の御喜びなど少し聞こえ給ひて、例の只ならぬ御事共うちささめきがちにて、これより公守の大納言の女の曹司差しのぞかせ給へば、いとささやかにて、衣がちにて、花桜のあはひ匂はしきに、山吹の表着、裳引きかけて、より臥し給へる、あてにらうたし。こまやかにうち語らひ聞こえ給ふ。玄輝門院の御そばにかしづき〔聞こえ〕給ひし習ひにや、押しなべての上宮仕への様よりは、思ひ上がれる気色なり。今一所の御曹司も近き程なれば、そなたざまに歩み御座して、いと心静ならねど、此の君をば、押しなべての際ならず思すめり。此の御腹に、御子達数多御座しましき。かくめぐらせ給ふ程に、いたく深けてぞ、中宮上らせ給ふ。此の御代にも、いみじき行幸ども、ゆゆしき事多かりしかど、年のつもりに何事もさだかならず、月日などおぼろに侍れば、中々聞こえず。

程無く明けくれて、永仁も六年になりぬ。七月二十二日、春宮に御位譲りて、降り給ひぬ。霜月になりて、五節の頃、去年を思し出でて、其の折に関白にて御座せし兼忠の大臣に、櫛遣はすとて、新院、

おとめ子がさすや小櫛の其のかみをともになれにし時ぞ忘れぬ

御返り、歓喜園の前の摂政殿、

いとど又こぞの今宵ぞ忍ばるるつげの小櫛を見るにつけても

堀川の具守の大臣の女の御腹に、前の新院の若宮生まれ給へりし、六月二十七日、御元服し給ひて、八月十日春宮に立ち給ひぬ。御諱邦治と聞こゆ。これも、内よりは御年三勝り給へり。今の御門は十一になり給ふ。御諱胤仁と聞こゆ。あてになまめかしう御座します。中宮の御腹には、大方、宮も物し給はねば、此の御門をぞ、御子にし奉らせ給ひける。譲位の後は、中宮もおりさせ給ひて、永福門院と聞こゆめり。皇后宮も此の頃は遊義門院と申す。法皇の御傍に御座しましつるを、中の院(ゐん)、いかなる便りにか、ほのかに見奉らせ給ひて、いと忍び難く思されければ、とかくたばかりて、盗み奉らせ給ひて、冷泉万里小路殿に御座します。又無く思ひ聞こえさせ給へる事限り無し。

正安二年正月三日、御門、御元服し給ふ。今年十三にならせ給へば、御行末遙かなる程也。又の年正月の頃、内侍所の御しめのおり給へるは、いかなるべき事にかなど、忍びささめく程こそあれ、東よりの御使ひ上るとて、世の中騒ぎて、禅林寺殿見奉り給ふ世にとや、正月二十一日、春宮御位に即かせ給ひぬ。おりゐの御門御年十四にて、太上天皇の尊号有り。いときびはにいたはしき御事なるべし。僅かに三年にて降りさせ給へれば、何事のはえも無し。此の春は、春日の社に行幸などあるべしとて、世の中まだきより面白き事に言ひあへりつるも、かいしめりていとさうざうし。さて此の君を新院と申せば、父の院をば、中の院(ゐん)と聞こゆ。御門の御父は一の院と申す。法皇も此の頃は一所に御座しますなめり。一の院、世の政事聞こし召せば、天の下の人、又押し返し、一方に靡きたる程も、さも目の前に移ろひ変はる世の中かなと、あぢきなし。土御門の前の内の大臣定実、六月に太政大臣になり給ふ、いとめでたし。故大納言入道顕定の、本意無かりし御面おこし給へる、いとゆゆし。院の御覚えの人なる上、才も賢く御座すれば、世に用いられ給へり。御子の大納言雅房・中納言親定とて、いづれも才ある人にて御座しき。

持明院殿には、世の中すさまじく思されて、伏見殿に篭り御座しますべく宣へれど、二の御子坊に定まり給へば、又めでたくて、なだらかにて御座しますべし。先に聞こえつる御母女院の御はらからの姫君、顕親門院と聞こえし御腹也。八月十五日、先づ親王になし奉らせ給ひて、同二十四日に春宮に立ち給ひぬ。

かくて新帝は十七になり給へば、いと盛りに美しう、御心ばへもあてにけだかうすみたる様して、しめやかに御座します。三月二十四日御即位、此の行幸の時、花山院の三位中将家定、御剣の役を勤め給ふとて、逆様に内侍に渡されけるを、今出川の大臣御覧じとがめて、出仕止めらるべき由申されしかど、鷹司の大殿、「中々沙汰がましくてあしかりなん。只音無くこそ」と申し止め給へりしこそ、情け深く侍りしか。後に思へば、げにあさましき事のしるしにや侍りけん。十月二十八日御禊、此の度の女御代にも、堀川の大臣の姫君いで給へり。今の上も、源氏の御腹にて物し給ふ。いと珍しくやむごとなし。然れど、うけばりたる様には御座せぬぞ、心もとなかめる。又の年は乾元元年、六月十六日亀山院へ行幸有り。法皇いと珍しく美しと見奉らせ給ふ。暁かへらせ給ひぬる後、法皇より内に聞こえさせ給ふ。

したはるる名残に堪えず月を見れば雲の上にぞ影はなりぬる

御返し、内の上、

君はよし千年のよはひたもてれば相見ん事の数も知られず

一院は、忠継の宰相の女の中納言の典侍殿と言ふ腹にも、男女御子達数多物し給ふ中にも、勝れ給へる内親王を、いと悲しき物にかしづき聞こえさせ給ふ。此の御世にも、又、為世の大納言承りて撰集有り。新後撰集と聞こゆ。嘉元元年披露せらる。

かくて、又の年春の頃より、東二条院、御悩み日々におもり給ひて、今はと見えさせ給へば、伏見殿へ出でさせ給ひて、遂に失せさせ給ひぬ。七十にあまらせ給へば、理の御事なり。法皇も其の御歎きの後、をさをさ物聞こし召さず〔など〕有りしを始めにて、うち続き心よからず、御わらはやみなど聞こゆる程に、七月十六日、二条富の小路殿にて、隠れさせ給ひぬ。六十二にぞならせ給ひける。いとあはれに悲しき事とも、言へば更也。御孫の春宮も一つに御座しましつれば、急ぎて外へ行啓なりぬ。御修法の壇共こぼこぼと毀ちて、くづれ出づる法師ばらの気色まで、今を限りと、とぢめはつる世の有様、いと悲し。宵過ぐる程に、六波羅の貞顕・憲時二人、御訪ひに参れり。京極おもての門の前に、床子に尻かけて候ふ。従ふ物共左右に並み居たる様、いとよそほしげ也。

又の日、夜に入りて、深草殿へ率て渡し奉る。御車差し寄せて、御棺乗せ奉る程、内とよみあひたる、いと理に、心をさむる人も無し。院の御前・宮達など、藁履とかや言ふ物奉りて、門まで御送り仕らせ給ひて、とみにえ上らせ給はず、御直衣の袖を押しあてて、遙かに程へてぞ、御車に奉りて、伏見殿への御送りもせさせ給ひける。院の中ゆゆしきまで泣きあへり。後深草院とぞ聞こゆめる。御日数の程は、伏見殿に宮達・遊義門院など御座します。秋さへ深く成り行く儘に、夜とともの御涙、干る間無く思し惑ふ。遊義門院、

物をのみ思ひ寝覚めにつくづくと見るも悲しき燈し火の色

春きてしかすみの衣ほさぬまに心もくるる秋ぎりの空

年返りぬれば、嘉元も三年になりぬ。万里小路殿の法皇、又御悩みとて、亀山殿へ移らせ給ふ。色々に、御修法や何くれ御祈り共、こちたくせさせ給へるもしるし無くて、九月十五日の曙に遂に隠れさせ給ひぬ。去年・今年の世のさがなさ、うち続きたる人々の御歎き共、言はん方無し。世を背かせ給ひにし初めつ方は、いと際だけう聖だちて、女房など御前にだに参らぬ事なりしかど、後には有りしより猶たはれさせ給ひし程に、永福門院の御さしつぎの姫君、はや御盛りも過ぐる程なりしを、此の法皇に参らせ〔奉らせ〕給へりしが、かひがひしく「水の白波」に若やがせ給ひて、やがて院号有りしかば、昭訓門院と聞こえつる、其の御腹に、一昨年ばかり、若宮生まれ給へるを、限り無く悲しき物に思されつるに、今少しだに見奉らせ給はずなりぬるを、いみじう思されけり。

さてしも有らぬ習ひなれば、同じ十七日に、御わざのことせさせ給ふ。理と言ひながら、いといかめしう人々仕り給ふ。網代庇の御車、前の右大臣殿寄せさせ給ふ。烏帽子直衣袴際にて参り給ふ。院の上も庭におりさせ給ふ。〔法親王達三人、〕山の座主・聖護院、十楽院、三人の法親王たちなどは、わらうづをぞ奉りて、上の山まで御供せさせ給ふ。上達部には、前の右大臣公衡・西園寺の大納言公顕・万里小路大納言師重・源中納言有房・三条の前の中納言実躬・宗氏の二位・重経の二位・為雄の宰相・経守・為行・親氏など也。殿上人は頼俊の朝臣・忠氏・為藤・国房・経世・泰忠・光忠、皆、狩衣の袖をしぼりしぼり参る気色さへ、あはれを添へたり。院も御供にひきさがりて参り給ふ。花山院の権大納言・西園寺の中納言・土御門の大納言、御子親実の少将、御太刀持ちて御供せられたり。よそほしかりつる御有様も、いと程無く、只今の間の煙にて上り給ひぬれば、誰も誰も夢の心地して、ほのぼのと明け行く程に、各まかで給ふ。三条の大納言入道公実・万里小路大納言師重などは、とりわき御志深くて、御荼毘の果つるまで、墨染めの袖を顔に押しあてつつ候ひ給ふ。予てより山道つくられて、木草きり払ひなどせられつれど、露けさぞ分けん方無き。涙の雨の添ふなるべし。内よりの御使ひに、始め長親の朝臣、雅行・有忠の朝臣など、三度参る。古き例なるべし。

同じき二十六日、院の上、御素服奉る。御座します殿には、黒き糸にてあみたる簾をかけらる。浅黄べりの御座に、上の御衣は黒く、上の御袴は、裏柑子色、御下襲も黒し。同じひへぎ、浅黄の御桧扇、御台参るも皆黒き御調度共なり。此の御ついでに、御方々も御素服奉る。〔人数、〕昭訓門院、昭慶門院〔は御娘〕、近衛殿の北政所、関白殿の北政所、良助法親王、覚雲、順助、慈道、性恵、益性、行仁、性融法親王達、上達部も、御山の御供し給ふ人々皆もれず。院の二の御子の御母も、近頃は法皇めし取りて、いと時めかせて、准后など聞こえつれば、思ひ歎き給ふべし。昭訓門院は、やがて御髪おろし給ふ。法皇は五十七にぞならせ給ひける。御骨も、此の院に法華堂を建ててをさめ給へば、亀山の院とぞ申すべかめる。禅林寺殿をば、御座しましし時より禅院になされき。南禅院と言ふはこれなめり。

院の二の御子の御母、忠継の宰相の娘、今は准后と聞こゆる御腹に御座します。此の頃帥宮と聞こゆるを、法皇とりわき御傍去らず馴らはし奉り給ひて、いみじうらうたがり聞こえさせ給ひしかば、人より異に思し歎くべし。頃さへ時雨がちなる空の気色に、山の木の葉も涙争ふ心地して、いと悲し。所がらしもいとどあはれを添へたり。川浪の響き、戸無瀬の滝の音までも、取り集めたる御心の中共なり。御日数の程は、帥の宮一つ御腹の内親王なども、此の院に御座します程、徒然なる儘に、はかなし事など聞こえかはして、花紅葉につけても、むつましく馴れ聞こえ給ふべし。

帥の御子は、大多勝院の西の廂に渡らせ給ふ。御前の松の木にはひかかれる蔦の、紅葉の、いたう染めこがしたるを取りて、九月三十日の夕つ方、昭訓門院の御方へ奉らせ給ふ。

あすよりの時雨もまたで染めてけり袖の涙や蔦の紅葉葉

木の葉よりもろき御涙は、ましていとどせき兼ね給へりし。御返し、

よもは皆涙の色に染めてけり空にはぬれぬ秋の紅葉葉

あはれに見奉らせ給ひつつ、名残もいみじくながめられて、勾欄に押しかかり給へる夕ばえの御かたち、いとめでたし。有りつる紅葉を、西園寺の大納言公顕の宿所所へ遣はす。

雨と降る涙の色やこれならん袖より外に染むる紅葉葉

女院の御兄なれば、しめやかなる御山ずみの心苦しさに、候ひ給ふなりけり。御返事、

いくしほか涙の色の染めつらん今日を限りの秋の紅葉葉

時雨はしたなく、風あららかに吹きて暮れぬれば、宮、内に入り給ひて、御殿油近く召して、昼御覧じさしたる御経など読み給ふ程に、若殿上人共うち連れて、こなたの御宿直に参れり。昼の蔦の葉の散りぼいたるを、人々見るに、宮、「それに各歌書きて」と宣へば、中将為藤の朝臣

紅葉葉になく音は絶えず空蝉のからくれなゐも涙とや見ん

清忠の朝臣、

山姫の涙の色も此の頃はわきてや染むる蔦の紅葉葉

光忠の朝臣、

世の中の歎きの色を知らねばや去年に変はらぬ蔦の紅葉葉

これらを取り集めて、北殿の内親王の御方へ奉らせ給ひければ、

さすが猶色は木の葉に残りけりかたみも悲し秋の別れ路

雨うちそそきて、けはひあはれなる夜、いたう深けて、帥の宮、例の北殿へ参り給へれば、姫宮も御殿ごもりぬ。候ふ人々も皆静まりぬるにや、格子などたたかせ給へど、開くる人も無ければ、空しく帰らせ給ふとて、書きて挿ませ給ふ。

おのづから眺めやすらむとばかりにあくがれ来つる有明の月

御返し、又の日、

徒に待つ宵すぎし村雨は思ひぞたえし有明の月

月日程無く移り〔過ぎ〕ぬれば、院も宮々も、各ちりぢりにあかれ給ふ程、今少し物悲しさ勝る御心のうち共は尽きせねど、世の習ひなれば、さのみしもはいかが。昭慶門院は、数多の宮達の御中に、勝れて悲しき物に思ひ聞こえさせ給ひしかば、御処分などもいとこちたし。大井川に向かいて、離れたる院のあるをぞ奉らせ給へれば、そこに御座しましし程に、川端殿の女院など、人は申し侍りし。彼の所は臨川寺とぞ言ふめる。都にも土御門室町に有りし院、いづれも此の頃は寺になりて侍るめりとぞ。めでたくこそあはれなれ。

増鏡 15 浦千鳥

15 浦千鳥

院の上は、御位に御座せし程は、中々さるべき女御・更衣も候ひ給はざりしかど、降りさせ給ひて後は、御心の儘にいとよく紛れさせ給ふ程に、此の程は、いどみ顔なる御方々数そひ給ひぬれど、猶遊義門院の御志に立ちならび給ふ人はをさをさ無し。中務の宮の御女も、押しなべたらぬ様にもてなし聞こえ給ふ。勝れたる御覚えには有らねど、御姉宮の、故院に渡らせ給ひしよりは、いと重々しう思しかしづきて、後には院号有りて、永嘉門院と申し侍りし御事也。又一条の摂政殿の姫君も、当代堀川の大臣の家に渡らせ給ひし頃、上臈に十六にて参り給ひて、はじめつ方は、基俊の大納言、うとからぬ御中にて御座せしかど、彼の大納言の東下りの後、院に参り給ひし程に、事の外にめでたくて、内侍のかみになり給へる、昔覚えて面白し。加階し給へりし朝、院より、

其のかみに頼めし事の変はらねばなべて昔の世にやかへらん

御返し、内侍のかみの君。〓子〔とぞ聞こゆめりし。〕

契りこし心の末は知らねども此の一言や変はらざるらむ

露霜重なりて、程無く徳治二年にもなりぬ。遊義門院、そこはかとなく御悩みと聞こえしかば、院の思し騒ぐ事限り無し。万に御祈り・祭り・祓ひと罵りしかど、甲斐無き御事にて、いとあさましくあへ無し。院もそれ故御髪=おろして、ひたぶるに聖にぞならせ給ひぬる。其の程、様々のあはれ思ひやるべし。悲しきこと共多かりしかど、皆もらしつ。

明くる年の春、八幡の御幸の御帰りざまに、東寺に三七日御座しまして、御潅頂の御加行とぞ聞こゆる。仁和寺の禅助僧正を御師範にて、彼の寛平の昔を思すらん、密宗をぞ学せさせ給ひける。六月には亀山殿にて御如法経書かせ給ふ。御髪=おろし¥給ひて後は、大方、女房は仕らず。男、番におりて、御台なども参らせ、万に仕る。いつも御持斎にて御座します。いと有り難き善知識にてぞ、故女院は御座しましける。嵯峨の今林殿にて、御仏事なども、日々に怠らずせさせ給ふ。此の今林は、北山の准后の御座せし跡なり。遊義門院の御髪にて、梵字縫はせ給へり。彼の御手のうらに、法華経一字三礼に書かせ給ひて、摂取院にて供養せらる。大覚寺の¥覚守僧正の御導師なり。故女院の御骨も、今林に法華堂建てられて、置き奉らせ給へれば、月ごとの二十四日には必ず御幸有りけり。思し入りたる程、いみじかりき。

かくて八月の初めつ方より、内の上例ならず御座しますとて、様々の御修法、五壇・薬師・愛染、色々の秘法共、諸社の奉幣神馬、何かと罵り騒ぎつれど、むげに不覚にならせ給ひて、二十三日御気色変はるとて、世の響き言はん方無く、馬・車走り違ひ、所も無きまで人々は参りこみたれど、いと甲斐無く、二十五日子の時ばかりに、果てさせ給ひぬ。火の消えぬる様にて、かきくれたる雲の上の気色、言はずとも推し量られなん。誠や、中宮は、徳大寺の公孝の=太政大臣の御女ぞかし。珍しく、かの御家にかかる事のいたく無かりつるに、御覚えもめでたくて候ひ給へるに、あさましとも言はん方無し。二十八日にまかで給ふ。先帝の御わざの沙汰有り。院号有りて後二条院とぞ聞こゆる。堀川の右大将具守、御車寄せらる。心の中いかばかりか御座しけん。大将になり給へるも、此の御門の、西花門院むつましうも仕り給へるに、いとほしき御事也。御素服を着給はざりしをぞ、思はずなる事に世の人も言ひ沙汰しける。内侍のかんの君も様変はり給ふ。中宮も院号有りて、長楽門院と聞こゆ。万あはれなる事のみ、書き尽くし難し。

春宮は正親町殿へ行啓なりて、剣璽渡さる。八月二十五日践祚なり。十二にぞならせ給ふ。夢の内の心地しつつも、程無く過ぎうつる御日数さへ果てぬれば、尽きせぬあはれさむる世無けれど、人々もおのが散り散りになる程、今一しほ堪えがたげ也。持明院殿には、いつしかめでたき事共のみぞ聞こゆる。大覚寺殿には、遊義門院の御事にうち添へて、御涙のひる世無く思さるべし。帥の御子の御事を、東へ宣ひ遣はしたる、「相違無し」とて、九月十九日、立太子の=節会有りて、坊にゐ給ひぬ。今はと世をとぢむる心地しつる人々、少し慰みぬべし。其の年十月、大なりつるを、保元の例とかやとて、十一月一日に宣下せられたり。あたらしき御代にあたりて、月日さへ改まりにけり。十一月十六日御即位¥あり。摂政は¥後照念院殿=冬平、今日は御悦申有りて、やがて行幸に参り給ふ。あるべき限りのこと共、古きに変はらで、めでたく過ぎ行きぬ。

延慶二年十月二十一日御禊、同じ二十四日、大嘗会、応長元年正月三日、御年十五にて御冠し給ふ。御諱富仁と聞こゆ。引き入れには〔関白〕殿、理髪家平仕り給ふ。南殿の儀式果てて、御よそひ改めて、更に出でさせ給ふ。清涼殿にて御遊び始まる。摂政殿箏、ふしみと言ふ名物、右大将=公顕琵琶玄上、土御門の大納言冬時笙きさぎえ、和琴大炊御門中納言冬氏、笛は西園寺の中納言兼季、別当季衡〔も〕笙の笛吹き給ひけり。篳篥公守の朝臣、拍子有時、めでたく様々面白くて明けぬ。五日には後宴とて、今少しなつかしう面白き事共有りき。此の御門をば、新院の御子になし奉らせ給ひしかば、朝覲の行幸の御拝なども、此の御前にてぞ有りける。広義門院も、同じく国母の御心地にて、万めでたかりき。院の上、さばかり和歌の道に御名高く、いみじく御座しませば、いかばかりかと思されしかども、正応に撰者共の事故に、わづらひ共有りて、撰集も無かりしかば、いとど口惜しう思されて、

我が世には集めぬ和歌の浦千鳥むなしき名をやあとに残さむ

など詠ませ御座したりしを、今だにと急ぎ立たせ給ひて、為兼の大納言承りて、万葉よりこなたの歌共集められき。正和元年三月二十八日奏せらる。玉葉集とぞ言ふなる。此の為兼の大納言は、為氏の大納言の弟に為教の右兵衛督と言ひしが子也。限り無き院の御覚えの人にて、かく撰者にも定まりにけり。そねむ人々多かりしかど、さはらんやは。此の院の上、好み詠ませ給ふ御歌の姿は、前の藤大納言為世の心地には、変はりてなん有りける。御手もいとめでたく、昔の行成の大納言にも勝り給へるなど、時の人申しけり。やさしうも強うも書かせ御座しましけるとかや。

正和も二年になりぬ。今年御本意とげなんと思さる。長月の暮れつ方、賀茂に忍びて御篭りの程、をかしき様のこと共侍りけり。近く候ふ女房共も、うちしほたれつつ、つごもりがたの空の気色、いと物あはれなるに、御製、

長月や木の葉も未だつれなきに時雨ぬ袖の色や変はらん

又、

我が身こそ有らずなるとも秋の暮惜しむ心はいつも変はらじ

人々も、さと時雨渡り、袖の上、今日を限りの秋の名残よりも忍び難し。大納言〔の三位〕為子、〔撰者のはらからなり。〕

一筋に暮れ行く秋を惜しまばや有らぬ名残を思ひ添へずて

又誰にか、

いかにしたひいかに惜しまん年々の秋には勝る秋の名残を

十月十五日、伏見殿へ御幸¥あり。限りの旅と思せば、えも言はず引きつくろはる。庇の御車也。上達部・殿上人、数知らず仕り給ふ。

世の政事なども、新院に譲り奉らせ給ひにしかば、御心静かにのみ思されて、伏見殿がちにのみぞ御座しましし程に、そこはかと-なく御悩み月日へて、文保元年九月三日、隠れさせ給ひにき。伏見院と申しき。御母玄輝門院、永福門院などの御歎き思ひやるべし。御門は御軽服の儀なれば、天の下色も変はらず。此の院、姫君数多御座しまししかど、院号は章義門院・延命門院ばかりにて御座します。二条富小路の昔の院のあとに、東より造りて奉る内裏、此の頃御わたまし有りしなど、いといと面白かりき。近き事は、皆¥人々御覧ぜしかば、中々にて止めつ。

増鏡 16 秋のみ山

16 秋のみ山

文保二年二月二十六日、御門降り居させ給ふ。春宮は既に、三十に満たせ給へば、待ち遠なりつるに、めでたく思さるべし。法皇、都に出でさせ給ひて、世の中知ろし召さる。亀山殿はさる事にて、近頃は、大覚寺の辺に御堂建てて篭り御座しましつつ、いよいよ密教の深き心ばへをのみ勤め学ばせ給へば、おのづからも京に出でさせ給ふ事無く、又参り通ふ人もまれなるやうにて、神さびたりつるを、引きかへ事しげき世に、行ひも懈怠し給へば、むつかしく思さる。三月二十九日御即位也。行幸の当日に、左大将内経・花山院の右大将家定、行列を争ひて、随身共わわしく罵れば、御輿を押さへて、職事奏し下しなどすめり。左大将の御父君は、内実の大臣と聞こえし。嘉元の頃、俄に隠れ給ひにしかば、摂〓もしあへ給はざりしにより、今は只人にてこそいますべければとて、かく争ふとぞ聞こえし。十月二十七日大嘗会、清暑堂の御神楽の拍子の為に、綾の小路の宰相有時と言ふ人、大内へ参り侍るとて、車より降りられける程に、いとすくよかなる田舎侍めく物、太刀を抜きて走り寄る儘に、あや無く討ちてけり。さばかり立ちこみたる人の中にて、いと珍かにあさまし。さて拍子俄に異人承る。大事共果てて後、尋ね沙汰ある程に、紙屋川の三位顕香と言ふ人の、此の拍子をいどみて、我こそつとむべけれと思ひければ、かかる事をせさせけり。道に好ける程はやさしけれども、いとむくつけし。さて彼の三位は流されぬ。

かくて今年は暮れぬ。誠や、こたみの春宮には、後二条院の一の御子定まり給ひぬれば、御門坊にて御座しましし時の儘に、冷泉万里小路殿の寝殿に移り住ませ給へるに、二月の頃、軒の桜盛りにをかしき夕ばえを御覧じて、内に奉らせ給ふ。彼の花につけて、

なれにける花は心や移すらん同じ軒端の春にあへども

御返しは、南殿の桜に差しかへ給ふ。

花はげに思ひ出づらん春をへてあかぬ色香に染めし心を

おりゐの御門は、御兄の本院と一つ持明院殿に住ませ給ふ。もとより御子の由にて御座しませば、まいて、一つ院の内にて、いささかも隔て無く聞こえさせ給ふ。いと思ふやうなる御有様也。さるべき御中と言へども、昔も今も御腹など変はりぬるは、いかにぞや、そばそばしき事もうちまじり、くせある習ひにこそあるを、此の院の御あはひ、まめやかに思ほしかはしたる、いと有りがたうめでたし。本院は、広義門院の御腹の一の御子を、此の度の坊にやと思されしかど、引き過ぎぬれば、いと遙けかるべき世にこそと、さうざうしく思さるべし。御歌合のついでなりしにや、

色々に都は春の時にあへど我がすむ山は花も開けず

大覚寺殿には、引きかへ、馬・車の立ち混みたるを御覧じて、法皇詠ませ給ひける。

我住めば寂しくも無し山里もあさまつりごと怠らずして

今の上は、早うより、西園寺の入道大臣実兼の末の御女、兼季の大納言の一つ御腹に物し給ふを、忍びて盗み御覧じて、わく方無き御思ひ、年に添へてやむごとなう御座しつれば、いつしか女御の宣旨など聞こえしが、程も無く、やがて八月に后だちあれば、入道殿も、齢の末にいと賢くめでたしと思す。北山にまかで給へる頃、行幸有りき。八月十五日の夜、名をえたる月も異に光を添へたり。所がら折から面白く、めでたきこと共花やかなるに、御姉の永福門院より、今の后の御方へ、御消息聞こえ給ふ。

今宵しも雲井の月も光そふ秋のみ山を思ひこそやれ

御返しは、「まろ聞こえん」と宣はせて、内の上、

昔見し秋のみ山の月影を思ひ出でてや思ひやるらん

御門の同じ御腹の前の斎宮も、皇后宮に立たせ給ふ。御母准后も院号有りて、談天門院とぞ聞こゆめる。万花やかにめでたき事共しげう聞こゆ。内には、万里小路大納言入道師重と言ひしが娘、大納言の典侍とて、いみじう時めく人あるを、堀川の春宮の権大夫具親の君、いと忍びて見そめられけるにや、彼の女、かき消ち失せぬとて、求め尋ねさせ給ふ。二三日こそあれ、程無く其の人とあらはれぬれば、上いとめざましく憎しと思す。やむごとなき際には有らねど、御覚えの時なれば、きびしく咎めさせ給ひて、げに須磨の浦へも遣はさまほしきまで思されけれども、さすがにて、官皆止めて、いみじう勘ぜさせ給へば、畏まりて、岩倉の山庄に篭り居ぬ。花の盛りに面白きをながめて、

うき事も花にはしばし忘られて春の心ぞ昔なりける

典侍の君は返り参れるを、つらしと思す物から、「うきに紛れぬ恋しさ」とや、いよいよらうたがらせ給ふを、さしも有らず正身は猶好き心ぞ絶えず有りけんかし。

たえはつる契を一人忘れぬも憂きも我が身の心なりけり

とて、一人ごたれける。末ざまには、公泰の大納言、未だ若う御座せし頃、御心と許して給はせければ、思ひかはして住まれし程に、彼処にて失せにき。御門の御母女院、十一月失せ給ひにしかば、内の上御服奉る。天の下一つに染め渡して、葦簾とか、いとまがまがしき物共かけ渡したるも、あはれにいみじくぞ見ゆる。五節もとまりぬ。若き人々などさうざうしく思へり。当代も又敷島の道をもてなさせ給へば、いつしかと勅撰の事仰せらる。前の藤大納言為世承る。玉葉のねたかりしふしも、今ぞ胸あきぬらんかし。此の大納言の娘、権大納言の君とて、坊の御時限り無く思されたりし御腹に、一の御子・女三の御子・法親王など、数多物し給ふ。彼の大納言の君は、早う隠れにしかば、此の頃三位贈らせ給ふ。贈従三位為子とて、集にもやさしき歌多く侍るべし。さて大納言は、人々に歌すすめて、玉津島の社に詣でられけり。大臣・上達部より始めて、歌詠むと思へる限り、此の大納言の風を伝へたるは、もるる者無し。子共孫共など、勢ひ異に響きて下る。先づ住吉へ詣で、逍遙しつつ罵りて、九月にぞ玉津島へ詣でける。歌共の中に、大納言為世、

今ぞ知る昔にかへる我が道の誠を神も守りけりとは

かくて、元応二年四月十九日、勅撰は奏せられけり。続千載と言ふなり。新後撰集と同じ撰者の事なれば、多くは彼の集に変はらざるべし。為藤の中納言、父よりは少し思ふ所加へたる主にて、今少し、此の度は心憎き様也などぞ、時の人々沙汰しける。

院にも内にも、朝政のひまひまには、御歌合のみしげう聞こえし中に、元亨元年八月十五夜かとよ、常より異に月面白かりしに、上、萩の戸に出でさせ給ひて、異なる御遊びなども有らまほしげなる夜なれど、春日の御榊、うつし殿に御座します頃にて、糸竹の調べは折あしければ、例の只内々御歌合あるべしとて、侍従の中納言為藤召されて、俄に題奉る。殿上に候ふ限り、左右同じ程の歌詠みをえらせ給ふ。左、内の上・春宮の大夫公賢・左衛門督公敏・侍従中納言為藤・中宮権大夫師賢・宰相維継・昭訓門院の春日為世女、右は藤大納言為世・富小路大納言実教・洞院の中納言季雄・公修・宰相実任・少将内侍為佐女・忠定の朝臣・為冬、忠守など言ふ医師も、此の道の好き物なりとて、召し加へらる。衛士のたく火も月の名だてにやとて、安福殿へ渡らせ給ふ。忠定の中将、昼の御座の御佩刀を取りて参る。殿上のかみの戸を出でさせ給ひて、無名門より右近の陣の前を過ぎさせ給へば、遣水に月のうつれる、いと面白し。安福殿の釣殿に床子立てて、東面に御座します。上達部は簀子の勾欄に背中押しあてつつ、殿上人は庭に候ひあへるもいと艶也。池の御船差し寄せて、左右の講師隆資・為冬乗せらる。御酒など参る様も、うるはしき事よりは、艶になまめかし。人々の歌いたく気色ばみて、とみにも奉らず、いと心もと無し。照る月波も、曇り無き池の鏡に、言はねどしるき秋のなかば、げにいと異なる空の気色に、月も傾きぬ。明けがた近うなりにけり。上の御製、

鐘の音もかたぶく月にかこたれて惜しと思ふ夜は今宵也けり

と講じ上げたる程、景陽の鐘も響きを添へたる、折からいみじうなん。いづれもけしうは有らぬ歌共多く聞こえしかど、御製の鐘の音に勝れるは無かりしにや。

かくて今年も又暮れぬ。明くる春元亨二正月三日、朝覲の行幸あり。法皇は御弟の式部卿の親王の御家大炊御門京極常盤井殿と言ふにぞ御座します。内裏は二条万里の小路なれば、陣の中にて、大臣以下かちより仕らる。関白内経・太政大臣通雄・左大臣実泰・左大将兼季・右大将冬教・中宮大夫実衡、中納言には具親・公敏・為藤・顕実・経定、宰相には実任・冬定・公明・光忠、中将は公泰・資朝、殿上人は頭の中将為定・修理大夫冬方を始めて、残るは少なし。此の院も、池のすまひ、山の木立、もとより由あるさまなるに、時ならぬ花の木末さへ造り添へられたれば、春の盛りに変はらず咲きこぼれたるに、雪さへいみじく降りて、残る常盤木も無し。州崎に立てる鶴の気色も、千代をこめたる霞の洞は、誠に仙人の宮もかくやと見えたり。

京極表の棟門に御輿を抑へて、院司事の由を奏す。乱声の後、中門に御輿を寄す。中門の下より出づるやり水に、小さく渡されたる反橋の左右に、両大将跪く。剣璽は権の亮宰相の中将公泰勤められしにや。関白、公卿の座の妻戸の御簾をもたげて入り奉らせ給ふ。とばかり有りて、寝殿の母屋の御簾皆上げ渡して、法皇出でさせ給へり。香染めの御衣、同じ色の御袈裟なり。御袈裟の箱を御そばに置かる。内の上、公卿の座より勾欄を経給ふ。御供に関白候ひ給ふ。階の間より出で給ひて、廂に御座奉りたれば、御拝し給ふ程、西東の中門の廊に、上達部多く打ち重なりて見遣り奉る中に、内の御乳母の吉田の前の大納言定房、まみいたう時雨たるぞあはれに見ゆる。其のかみの事など思ひ出づるに、めでたき喜びの涙ならんかし。御拝終りぬれば、又もとの道を経給ひて、公卿の座に入らせ給ひぬ。法皇も内に入り給ひて、しばし有りて、左右の楽屋の調子整ほりて後、又御門入らせ給ふ。法皇も同じ間の内に、御褥ばかりにて御座します。末の廂に、内より参れる女房共候ふ。一つ車に小大納言君〈 師重、娘 〉、「うきも我が身の」と詠みし人の妹なり。帥典侍資茂王女、讚岐・こいまとかや。二の左に新兵衛、中宮内侍、後に准后と聞こえにき。しりには夏びき・いはねを。三の車に少将内侍・尾張の内侍、しりに青柳・今参りなど聞こゆ。上達部、御前の座に著きて後、御台参る。役送公泰宰相の中将、陪膳右大将兼季、其の程、舞人跪く。地下の舞は目なれたる事なれど、折からにや、今日は異に面もち足ぶみもめでたく見ゆ。法皇の御覚えにて、寿王と言ふ人、松殿の某とかやが子也。落蹲など舞ふと聞きしかど、夜も深け雪も事にかき暗して、何のあやめも見えざりき。其の後御前の御遊び始まる。頭の太夫冬方、御箱の蓋に御笛入れて持ちて参る。関白取りて御前に参らせ給ふ。右大将も笛、中宮大夫琵琶、大宮大納言笙、春宮の大夫笙、右宰相の中将は和琴、光忠宰相篳篥、兼高も吹きしにや。拍子は左大臣、すゑは冬忠の宰相なり。深け行く儘に、上の御笛の音すみ上りて、いみじくさえたり。左の大臣の安名尊・伊勢の海、限り無くめでたく聞こゆ。こと共果てぬれば、御贈り物参る。錦の袋に入れたる御笛、箱の蓋に据ゑらる。左大臣取り次ぎて関白に奉る。御前に御覧ぜさせて、冬方を召して賜はす。次に唐の赤地の錦の袋に御琵琶入れて参る。其の後、御馬、殿上人口を取りて、御前に引き出でたり。ほのぼのと明くる程にぞ帰らせ給ひぬる。

法皇は、ややもすれば、大覚寺殿にのみ篭らせ御座します。人々、世の中の事共奏しに参り集ふ。今は一筋に御行ひにのみ御心入れ給へるに、いとうるさく思せば、其の夏の頃、定房の大納言、東へ遣はさる。御門に天の下の事、譲り申さむの御消息なるべし。大方は、いとあさましう成り果てたる世にこそあめれ。かばかりの事は、父御門の御心にいと安く任せぬべき物をと、めざましけれど、昨日今日始まりたるにも有らず、承久よりこなたは、かくのみ成りもてきにければなめり。内に近く候ふ上達部などの、なま腹ぎたなき、我が思ふ事のとどこほりなどするを、猶法皇をうれはしげに思ひ奉りて、此の事いかで東より許し申すわざもがなと、祈りなどをさへぞしける。かくて、大納言程無く帰り上りぬ。御心の儘なるべく奏したりとて、院の文殿、議定所にうつされ、評定衆など、少々変はるも有り。さて世をしたためさせ給ふ事、いと賢うあきらかに御座しませば、昔に恥ぢずいとめでたし。御才もいとはしたなう物し給へば、万の事曇りなかんめり。三史五経の御論議なども隙無し。

六月の頃、中殿の作文せさせ給ふ。題は式部の大輔藤範奉る。久しかるべきは賢人の徳とかや聞こえしにや。女の学ぶべき事ならねばもらしつ。上達部・殿上人三十人参れり。関白殿房実ばかり直衣にて御几帳の後ろに候はせ給ふ。上は御引直衣、御琵琶玄上ひかせ給ふ。右大将実衡琵琶、春宮の大夫〈 公賢 〉箏、権大納言親房笙、権中納言氏忠和琴、左の宰相の中将公泰笙〔のふゑ、〕右衛門督嗣家笛、右の宰相の中将光忠篳篥、拍子は例の左の大臣実泰、末は冬定なりしにや。上の御琵琶の音、言ひ知らずめでたし。右大将はなどにか有らん、心とけてもかき立てられざりき。御遊び果てての後、文台召さる。蔵人内記俊基、人々の文を取り集めて、一度に文台の上に置く。披講の終はる程に、短か夜もほのぼのと明け果てぬ。御製を左の大臣〈 実泰 〉返々誦して、うるはしく朗詠にせらる。声いと美し。折ふし郭公の一声名乗り捨てて過ぎたるは、いみじく艶也。かやうの誠しき事は、予て人も心遣すれば、あやまち無かるべし。時に臨みて、俄に難き題を賜はせて、内々唐歌を作らせ歌を詠ませて、賢く愚かなると御覧じわくに、いとからい事多く、心ゆるび無き世なり。

其の七月七日、乞巧奠、いつの年よりも御心止めて、予てより人々に歌共召され、ものの音共も試みさせ給ふ。其の夜は、例の玄象ひかせ給ふ。人々の所作、有りし作文に変はらず。笛・篳篥などは、殿上人共、鳴板の程に候ひて仕る。中宮も上の御局にまう上らせ給ふ。御簾の内にも琴・琵琶数多有りき。播磨の守永定の女、今は左大臣の北の方にて三位殿と言ふも、箏ひかれけり。宮の御方の播磨の内侍も、同じく琴ひきけるとかや。琵琶は権大納言の三位殿師藤大納言の女、いみじき上手に御座すれば、めでたう面白し。蘇香・万秋楽、残る手無くいく返りと無く尽くされたり。明け方は、身にしむばかり若き人々めであへり。さらでだに、秋の初風は、げにそぞろ寒き習ひを、理にや。御遊び果てて文台召さる。此の度は和歌の披講なれば、其の道の人々、藤大納言為世、子共孫共引き連れて候へば、上の御製、

笛竹の声も雲井に聞こゆらし今宵手むくる秋の調べは

ずんながるめりしかど、いづれも只天の川、鵲の橋より外は、珍しきふしは聞こえず。誠や、実教の大納言なりしにや、

同じくは空まで送れ焚き物の匂をさそふ庭の秋風

げにえならぬ名香の香共ぞ、めでたくかうばしかりし。

花も紅葉も散り果てて、雪つもる日数の程なさに、又年変はりて正中元年と言ふ。三月の二十日余り、石清水の社に行幸し給ふ。上達部・殿上人いみじき清らをつくせり。関白殿〔房実〕は御車也。右大将実衡、松がさねの下襲、鶴の丸を織る。蘇芳の固紋の衣。左大将経忠、桜萌黄の二重織物の御下襲桜に蝶を色々に織る。花山吹の上の袴・紅のうちたる御衣、人より異にめでたく見え給ふ。御かたちも、匂やかにけだかき様して、誠に、一の人とはかかるをこそは聞こえめと、あかぬ事無く見え給ふ。土御門の中納言顕実、花桜の下襲なりき。花山院の中納言経定などぞ、上臈の若き上達部にて、いかにも珍しからんと、世の人も思へりしかど、家のやうとかや何とかやとて、只いつもの儘也。公泰宰相の中将剣璽の役勤めらる。桜萌黄の上の袴・樺桜の下襲・山吹の浮織物の衣・紅のうちたる単を重ねられたり。白くまろく肥えたる人の、眉いとふとくて、おひかけのはづれ、あなきよげと頼もしくぞ見えられし。頭亮藤房、樺桜の下襲・蘇芳の浮織物の衣、弟の職事季房も、山吹の下襲・紅の衣。衛府のすけ共は、うちこみたれば見も別れず。別当左兵衛督資朝、はしり下部とかや言ふ物八人に、地は皆銀を延べたるにやと見ゆるに、鶴の丸を黄に磨きたる、好ましうきよげ也。

舞人にも、良き家の子共を選び整へられたり。一の左に、中の院(ゐん)の前の大納言道顕の子通冬少将、まだいとちいさきに、童なども同じ程なるを、好み整へて、いと清らにいみじうし立てて、秦の久俊と言ふ御随身をぞ具せられたる。右に久我の少将通宣、いたく過ぐしたる程にて、ひげがちに、ねび給へるかたちして、ちいさきに立ち並ばれたる、いとたとしへ無くぞ見えし。それより次々は、むつかしさに忘れぬ。大将の随身共こそ、昔の事はげには見ねば知らず、いとゆゆしく、誠に花を折るとはこれにやと、めでたう面白かりし。左大将殿の随身は、赤地の錦の色も文も目なれぬ様に好ましきを、情け無きまでさながらだみて、ませに山吹を、銀にてうち物にして、ひしとつけたり。花の色、重なりなどまで、こまかに美し。露を水晶の玉にておきたる、朝日の輝きて、すべていみじうぞ見ゆる。西園寺の随身も、同じ錦なれど、松を結びて、鶴の丸を白と黄とにうちてつけたる、山吹よりは匂無く見ゆ。様々の神宝・神馬・御てぐらなど、夜もすがら罵りあかして、又の日の暮れつ方返らせ給ひぬ。

同じ卯月十七日、賀茂の社に行幸なる。上達部など多くは先に同じ。衣がへの下襲共、けぢめ無くすずしげ也。別当の下部、此の度は十二人、かちんに雉の尾を白ううち違へてつけたる、これも掲焉に好ましげ也。明くる日は祭なれば、神館のかた、うち続き花やかに面白し。今日の使ひは、徳大寺中将公清也。春宮の大夫公賢の聟にて御座すればにや、左大臣の大炊御門富小路の御家よりぞ出で立たれける。人がらと言ひ、万めでたく見ゆ。萌黄の下襲、御家の紋のもかうを色々に織りたりしにや。近頃の使ひには似ず、いといみじくきらめき給へり。中宮の使ひは亮の藤房なり。此の頃、時にあひたる物なれば、いときよげに劣らぬ様也。

其の二十七日に任大臣の節会行はる。左大将経忠、右大臣にならせ給ふ。内大臣冬教、左にうつり給へば、右大将実衡内大臣になさる。又の日やがて右大臣殿、大饗行ひ給へば、尊者には内大臣参り給ふ。近衛殿、此の頃は御悩みがちにてのみ臥し給へれど、今日の御悦に珍しく出で居させ給へり。法皇は、今は大覚寺殿にのみ御座しませば、大炊御門の式部卿の親王の御家を、内大臣殿申し受けて、同じ日大饗し給ふ。尊者には右の大臣、やがて我が御家の大饗はつる儘に、引き連れて渡り給へり。主も客人も、大将兼ね給へれば、随身共えならず経営して、かたみに気色取りかはしたる、いと面白し。主の大臣琵琶、右衛門督兼高篳篥、隆資の朝臣笙、室町三位中将公春琴、教宗の朝臣笛、有頼宰相拍子取りて、遊び暮らし給ふ。御前の物共など、常の作法に事を添へて、こまかに清ら也。

其の後いく程無く、右大臣殿の御父君前の関白殿家平、御悩み重くなり給ひて、御髪おろさる。俄の事なれば、殿の内の人々いみじう思ひ騒ぎまどへり。此の殿若く御座します頃は、女にもむつましく御座しまして、此の右大臣殿なども出で来給ひける。中頃よりは、男をのみ御傍に臥せ給ひて、法師のちごのやうに語らひ給ひつつ、ひと渡りづつ、いと花やかに時めかし給ふ事、けしからざりき。左兵衛督忠朝と言ふ人も、限り無く御覚えにて、七八年が程、いとめでたかりし。時過ぎて其の後は、成定と言ふ諸大夫いみじかりき。此の頃は又、隠岐の守頼基と言ふもの、童なりし程より、いたくまとはし給ひて、昨日今日までの御召人なれば、御髪おろすにも、やがて御供仕りけり。病おもらせ給ふ程も、夜昼御傍はなたず遣はせ給ふ。既に限りになり給へる時、此の入道も御後ろに候ふに、よりかかりながら、きと御覧じ返して、「あはれ、諸共に出で行く道ならば、嬉しかりなん」と、宣ひも果てぬに、御息とまりぬ。右大臣殿も御前に候はせ給ふ。かくいみじき御気色にて果て給ひぬるを、心憂しと思されけり。さて其の後、彼の頼基入道も病づきて、あと枕も知らずまどいながら、常は人に畏まる気色にて、衣引きかけなどしつつ、「やがて参り侍る参り侍る」と一人ごちつつ、程無く失せぬ。粟田の関白の隠れ給ひにし後、「夢見ず」と、歎きし者の心地ぞする。故殿のさばかり思されたりしかば、めし取りたるなめりとぞ、いみじがりあへりし。

増鏡 17 春の別れ

17 春の別れ

卯月の末つ方より、法皇御悩み重くならせ給へば、天の下の騒ぎ思ひやるべし。御門もいみじく思し歎き、御修法共、いとこちたく、又々始め加へさせ給へど、しるしも無くて日々に重らせ給へば、夜昼と無く「いかにいかに」と訪ひ奉らせ給ふ。若き上達部などは、直衣に柏ばさみして、夜中暁と無く、遙けき嵯峨野を、寮の御馬にて馳せ歩き給ふめり。今はむげに頼み無き由聞こゆれば、大覚寺殿へ行幸、有りしこと思し出づ。万の事共聞こえさせ給ふ。上の一御腹の二品法親王性円と聞こゆるを、いと悲しき物に思ひ聞こえさせ給ひて、此の大覚寺に、そこらの御庄・御牧などを寄せ給ふ。法の主として御座しますべく思しおきてけり。さやうの事など、見給へざらんあと、後ろめたからぬ様などぞ聞こえさせ給ひける。

其の後、御孫の春宮行啓有り。世を知ろし召さむ時の御心遣など、今少し、こまやかに聞こえ知らせ給ふ。宮は先帝の御代はりにも、いかで心の限り仕らんと、あらまし思されつるに、あかず口惜しうて、いたうしほたれさせ給ふ。御門の御なからひ、うはべはいとよけれども、まめやかならぬを、いと心苦しと思さるれど、言に出で給ふべきならねば、只大方につけて、世にあるべきこと共、又此の頃少し世に恨みあるやうなる人々の、我が御心にはあはれと思さるるなど数多あるをぞ、御心の儘なる世にもなりなん時は、必ず御用意あるべくなど、聞こえ給ひける。中御門の大納言経継・六条の中納言有忠・右衛門督教定・左衛門佐俊顕など聞こえし人々の事にや有りけん。さて其の夜はとまり給へるも知ろし召さで、夜うち深けて、少し驚かせ給ひて、「春宮はいつ返り給ひぬるぞ」と宣ふに、うち声づくりて、近く参り給へれば、「未だ御座しましけるな」とて、いとらうたしと思されたる御気色あはれ也。大方の気色、院の内のかいしめりたる有様など、万思しめぐらすに、いと悲しきこと多かれば、宮、うち泣き給ひぬ。心細ういみじとのみ思さるるに、正中元年六月二十五日、遂に隠れさせ給ひぬ。御年五十八にぞならせ給ひける。後宇多院と申すなるべし。御門又御服奉る。あけくれ懇ろに孝じ奉り給ふ様、いと忝し。御女の皇后宮と聞こえし、今は達智門院と申すも、まいて一所をのみ頼み聞こえさせ給へるに、心細ういみじと思し歎くこと限り無し。昔の内侍のかんの殿、近頃院号有りて万秋門院と聞こゆるも、故院の御影にてのみ過ぐし給へれば、より所無くあはれげ也。御四十九日は八月十日余りの程なれば、世の気色何と無くあはれ多かるに、女院・宮達の御心の中共、朝霧よりも晴れ間無し。十五夜の月さへかき曇れるに、故院の御位の時に、宰相の典侍とて候ひしは、雅有の宰相の女也。其の世の古き友なれば、同じ心ならんと思しやるもむつましくて、万秋門院より宣ひ遣はす。

あふぎ見し月も隠るる秋なれば理知れと曇る空かな

いとあはれに悲しと見奉りて、御返し、宰相の典侍、

光無き世は理の秋の月涙添へてや猶曇るらむ

永嘉門院・西花門院など、いづれも思し歎く人々多かり。春宮もいと恋しくあはれとのみ思ひ聞こえ給ふ儘に、御法事をぞまめやかに勤めさせ給ひける。大覚寺にては、性円法親王取り持ちて行はせ給ふ。御門・春宮の御法事は、亀山殿の大多勝院にて勤めらる。

あはれあはれと言ひつつも、過ぎやすき月日のみ移り変はりて、年もかへりぬ。一昨年ばかりより、又重ねて撰集のこと仰せられしを、為世の大納言、二度になりぬればにや、為藤の中納言に譲りしを、いく程無く彼の中納言悩みて失せぬ。いといとほしうあはれなり。故為道の朝臣の失せにし、只年月ふれど、絶えぬ恨みなるに、又かく取り重ねたる歎き、大納言の心の中言はん方無し。春宮よりしばしば訪はせ給ふ御消息のついでに、

後れゐる鶴の心もいかばかり先だつ和歌のうらみなるらん

御返し、大納言為世、

思へ只和歌の浦には後れ居て老いたるたづの歎く心を

世に歌詠むと思しき人の、あはれがり歎かぬは無し。「せめて勅撰の事撰びはつるまで、などかは」とぞ、一族の歎き、いとほしげ也。故為道の中将の二郎為定と言ふを、故中納言とりわき子にして、何事も言ひつけしかば、撰歌の事もうけつぎて、沙汰すべきなどぞ聞こゆる。大納言は、末の子為冬少将と言ふをいたくらうたがりて、此の紛れに引きや越さましと思へる気色有りとて、為定もうらみ歎きて、山伏姿に出で立ちて、修行に出で失せぬるなど言ひ沙汰すれば、人々いとほしうあはれになどもてあつかへど、さすが求め出だして、もとのやうにおだしく定まりぬとなん。

其の頃、長月ばかり、まだしののめの程に、世の中いみじく騒ぎ罵る。何事にかと聞けば、美濃の国の兵にて、土岐の十郎とかや、又多治見の蔵人など言ふ者共忍び上りて、四条わたりに立ちやどりたる事有りて、人に隠れて居りけるを、早う又告げ知らする物有りければ、俄に其の所へ六波羅より押し寄せて、搦め捕る也けり。あらはれぬとや思ひけん、彼の物共は、やがて腹切りつ。又、別当資朝・蔵人の内記俊基、同じやうに武家へ捕られて、きびしく尋ねとひ、まもり騒ぐ。事の起こりは、御門世を乱り給はんとて、彼の武士共を召したる也とぞ、言ひあつかふめる。さて、其の宣旨なしたる人々とて、此の二人をも東へ下して、いましむべしとぞ聞こゆる。いかさまなる事の出で来べきにかと、いと恐ろしくむつかし。「故院御座しましし程は、世ものどかにめでたかりしを、いつしか、かやうの事共出で来ぬるよ」と、人の口安からざるべし。正応にも、浅原と言ひし騒ぎは、後嵯峨院の御処分を、東より引き違へし御恨みとこそは聞こえしか。今も其の御憤りの名残なるべし。過ぎにし頃、資朝も山伏のまねびして、柿の衣にあやゐ笠と言ふ物着て、東の方へ忍びて下れりしは、少しは怪しかりし事也。早うかかること共につけて、あなたざまにも、宣旨を受くる者の有りけるなめり。俊基も紀伊国へ湯浴に下るなど言ひなして、田舎歩きしげかりしも、今ぞ皆人思ひ合はせける。

さる儘には、言ひ知らず聞こゆること共あれば、まだきに、いと口惜しう思されて、此の事を、先づおだしく止めむと思せば、彼の正応に有りしやうなる誓ひの御消息を遣はす。宣房の中納言、御使ひにて東に下る。大方、古き御世より仕へきて、年もたけたる上、此の頃は、天の下にいさぎよくむべむべしき人に思はれたる頃なれば、此の事更に御門の知ろし召さぬ由など、けざやかに言ひなすに、荒き夷共の心にも、いと忝き事となごみて、無為なるべく奏しけり。此の御使ひの賞にや、宣房、大納言になされぬ。いといみじき幸ひ也。親は三位ばかりにて入道してき。子共などさへいときよげにて、数多あめり。然れば、おほやけは知ろし召されぬにても、彼の人々は逃るべき方無しとて、別当は佐渡の国へ流されぬ。俊基は、いかにして逃れぬるにか、都へ返りぬれど、有りしやうには出で仕へず、篭り居たる由なり。かやうにて、事無く静まりぬれば、いとめでたけれど、上の御心の中は、猶安からず、いかならむ時とのみ思ほし渡るべし。

月日程無く移り行きて、嘉暦元年になりぬ。三月の初めつ方より、春宮例ならず御座しまして、日々に重らせ給ふ。様々の御修法共始め、御祈り、何やかやと、伊勢にも御使奉らせ給へど、甲斐無くて、三月二十日、遂にいとあさましくならせ給ひぬ。宮の内、火を消ちたる心地して、惑ひあへり。御乳母の対の君と言ふ人、夜昼御傍去らず候ひなれたるに、いみじき心惑ひ、誠にをさめがたげなり。限りと見え給ふ御顔に差し寄りて、「かく残りなき身を御覧じ捨てては、え御座しましやらじ。今一度、御声なりとも聞かせ〔させ〕給ひて、いづ方へも御供に率て御座しましてよ」と、声も惜しまず泣き入り給へる様、いとあはれ也。すべて、宮の内とよみ悲しぶ様、言はん方無し。永嘉門院は御子も御座しまさねば、年月此の宮を故院聞こえつけさせ給ひしかば、今も一つ院に御座します。御息所にも、やがて、故院の姫宮を女院の御傍にかしづき聞こえ給ひしを、合はせ奉り給へれば、又なき様に思しかはして過ぐさせ給へるなど、いみじう沈み入り給へり。

さてあるべきならねば、常の行啓の様にて、先帝の御座しましし北白河殿へぞ入れ奉らせ給ひぬる。土用の程にて、しばし彼処に御座しますさへいと悲し。院号などの沙汰もあるべくこそ。然れど、御座しましし時に、其の事は由無かるべく仰せられ置きしかば、内よりも聞こし召しすぐしけり。昼の御座のよそひ取り毀ち、火たき屋などかき払ふ程、猶うつつとも覚えず。堀川の女御の、「見えし思ひの」など宣ひけんは、此の世ながら御心との御あかれなれば、羨ましくさへ覚ゆ。差しあたりてのあはれはさておきて、先帝の御位ながら失せ給へりしだにあるを、又かく、半ばなるやうにて、あさましければ、世の人の思はん事も心憂く、一方ならぬ歎きに添へたる憂へ、言はん方無し。大方、我が身を限り果てぬると思ふ人のみ多かりき。

有忠の中納言、先坊の御使ひにて東に下りにし、いつしかと思ふ様ならん事をのみ待ち聞こえつる、践祚の御使ひの都に参らんと同じやうに上らんとて、未だ彼処にも乗せられつるに、かくあやなき事の出で来ぬれば、いみじとも更なり。三月三十日、やがて彼処にて頭おろす。心のうちさこそはと悲し。

大方の春の別れの外に又我が世つきぬる今日のくれかな

都にも、前の大納言経継・四条の三位隆久・山の井の少将敦季・五辻少将長俊・公風の少将・左衛門佐俊顕など、皆頭おろしぬ。女房には、御息所の御方・対の君・帥君・兵衛督・内侍の君など、すべて男女、三十余人様変はりてけり。やむごとなき君の御時も、かくばかりの事はいと有り難きを、仏などの現はれ給ひて、ことさらに迷ひ深き衆生を導き給ふかとまで見えたり。御本上のいとなごやかに御座しまししかば、近う仕る限りの人は、年頃の御名残を思ふもいと忍び難き上、大方の世にも差し放たれて、身をえう無き物に思ひ捨つる類など、様々につけて、厭ひ背くなるべし。若宮三所、姫宮なども御座しましけり。御息所の御腹には有らねど、いづれをも今は昔の御形見とあはれに見奉らせ給ふ。卯月の末つ方、夏木立心よげに茂り渡れるも、羨ましくながめさせ給ふ。暁がた、ほととぎすの鳴き渡るも、「いかに知りてか」と、御涙の催しなり。

諸共に聞かまし物を郭公枕並べし昔なりせば

誠や、例の先に聞こゆべき事を、時違へ侍りにけり。兵衛督為定、故中納言のあとを受けて撰びつる撰集の事、正中二年十二月の頃、先づ四季を奏する由聞こえし残り、此の程世にひろまれる、いと面白し。御門、事の外にめでさせ給ひて、続後拾遺とぞ言ふなる。中宮大夫師賢承りて、此の度の集のいみじき由、様々仰せ遣はしたるに、御返しに、為定、

今ぞ知る集むる玉の数々に身を照らすべき光有りとは

御返し、内の御製

数々に集むる玉の曇らねばこれも我が世の光とぞなる

此の大夫は、もとより中良きどちにて、常に消息など遣はすに、かく世にほめらるるをいとよしと思ひて、兵衛督のもとへ言ひやる。

和歌の浦の浪も昔に帰りぬと人より先に聞くぞ嬉しき

返し、

和歌の浦や昔にかへる波ぞともかよふ心に先づぞ聞くらむ

此の為定のはらから、中宮に宣旨にて候ふも、上、例の時めかし給ひて、若宮出で物し給へり。其の宮の御乳母は、師賢大納言承りて、いみじうかしづき奉らる。又宮の内侍の御腹にも、次々、いと数多御座します。一の御子は、藤大納言の御腹、吉田の大納言定房の家に渡らせ給ふ。二の御子も、いときらきらしうて、源大納言親房の御預かりなり。かく様々に御座しますを、此の度いかで坊にと思しつれど、予てより、催し仰せられし事なれば、東より人参りて、本院の一の宮を定め申しつ。いとけやけく聞こし召せど、いかがはせむにて、七月二十四日に、皇太子の節会行はる。陣の座より引き渡して、持明院殿に人々参る。院の殿上にて禄など賜はる。常の事なれど、俄にいとめでたし。

八月になりて、陽徳門院の土御門東の洞院殿へ行啓始め有り。先坊の宮は鷹司なれば、間近き程に、世のおとなひ聞こし召す入道の宮・女院などの御心の中、今更にいと悲し。本院・新院一つ御車に奉りて、先立ちて入らせ給ふ。行啓は東の洞院おもての棟門に御車止めて、中門まで筵道をしきて歩み入らせ給ふ。御びんづら結いて、いときびはに美しげ也。十四ばかりにや御座しますらん。宮司共、院の殿上人など多く仕れり。花開けたる心地共すべし。あはれなる世の習ひなりかし。

かくて今年も暮れぬれば、嘉暦も二年に成りぬ。一の宮御冠し給ひて、中務の卿尊良の親王と聞こゆ。去年より内に御宿直所して渡らせ給ふ。正月の十六日の節会に珍しく出で給ふ。御門も、徳治の頃、帥にて、七日の節に出でさせ給へりし例、思し出づるにや。大方、古くは、皆さこそ有りけれど、近頃は、いたくかやうには無かりつるを、御子達、御冠の後は、いづれも昔覚えて、さるべき折々出で仕へさせ給ふめり。今日の節会は、常より異に引きつくろはるるなるべし。親王は蘇芳の上のきぬ奉れり。左大臣冬教・右大臣経忠・内大臣基嗣・右大将公賢・権大納言顕実・藤中納言実任・別当光経・三条の中納言実忠・左衛門督公泰・権中納言藤房、宰相には惟継・親賢・為定・冬信・国資など参れり。二の宮は西園寺の宰相の中将実俊の女の御腹也。帥の親王世良の親王と聞こゆ。照慶門院、とりわき養ひ奉らせ給ふ。此の宮は、御乳母源大納言親房也。それも内々、上の御衣にて、御門南殿へ出でさせ給へば、御供に候はせ給ふ。又常盤井の式部卿の宮は、亀山院の御子なれば、当代といと懇ろなる御中にて、此の御子達と同じやうに、常はうちつれ御宿直などせさせ給ふ。今日も御参り有りて、御子達歩み続かせ給へる、いと面白し。若き女房などは、心遣異なる頃ならんかし。

二月になれば、やうやう故宮の御一めぐりの事共、永嘉門院には営ませ給ふも、あはれつきせず。鷹司の大殿も失せ給ひぬ。此の頃の世には、いと重くやむごとなく物し給へるに、いとあたらし。北政所は中の院(ゐん)の内の大臣通重の御はらからなり。それも様変はり給ひぬ。近頃、良き人々多く失せ給ひぬるこそ、〔いと〕口惜しけれ。

増鏡 18 むら時雨

18 むら時雨

竹の園生は茂けれど、秋の宮の御腹には、只一品内親王ばかり物し給ふを、いとあかず思ほし渡るに、此の頃珍しき御悩みの由聞こゆれば、いとめでたく有らまほしき御ことなるべきにやと、上もいみじく思されて、予てより御修法共こちたく始めらる。まして、其の程近くならせ給ひぬれば、式部卿の宮の常盤井殿へ出でさせ給ひて、上も二、三日隔てず思ひ御座します。陣の内なれば、上達部・殿上人、夜昼と無く袴のそば取りて参り違ふ。御兄の兼季の大臣も、絶えず候ひ給ふ。いみじき世の騒ぎなり。故入道殿、今しばし御座せましかばと、思し出づる人々多かり。山・三井寺・山階寺・仁和寺、すべて大法・秘法・祭り・祓へ、数を尽くして罵る様、いと頼もし。七仏薬師の法は、青蓮院の二品法親王慈道勤めさせ給ふ。金剛童子、常住院の道昭僧正、如意輪の法、道意僧正、五壇の御修法の中壇は、座主の法親王行はせ給ふ。如法仏眼〔の法〕は、昭訓門院の御志にて、慈勝僧正承り行ふ。一字金輪は、浄経僧正、如法尊勝は桓守僧正、愛染王は賢助僧正、六字法は聖尋僧正、准胝法は達智門院の御沙汰にて信耀僧正つとめらる。其の外、猶本坊にて様々の法共行はせらる。六月ばかりいみじう暑き程に、壇共軒をきしりて、護摩の煙満ち満ちたる様、いとおどろおどろしきまでけぶたし。社々の神馬は更にも言はず、医師・陰陽師・巫共立ち騒ぎ、世のひびく様、めでたくゆゆしきにも、もし皇子にて御座しまさざらん折、いかにと思ふだに、胸つぶるるに、いかなる御事にか、怪しう、さるべき程もうち過ぎ行ば、猶しばしはさこそあれなど、待ち聞こゆれど、更につれなくて、十七八、二十、三十月にも余らせ給ふまで、ともかくも御座しまさねば、今はそらごとのやうにぞなりぬる。大方、上下の人の心地、あさましとも言ふべき際ならず。御産屋の儀式、あるべきこと共など、こちたきまで催し置かれ、よろしき家の子共、二親うち具したる選ばれしかど、ここらの月頃には、あるは服になり、其の主も病して頭おろしなど、すべて万あへなく珍かなれば、言はん方無し。

前坊のはじめつ方、中の院(ゐん)の内の大臣通重の御娘参り給ひて、十八月にて若宮生まれ給へりしかど、やがて御子も母御息所も失せ給ひにしかば、いみじうあさましき事に言ひ騒ぎし程に、又其の後、此のとまり給へる入道の宮参り給へりしも、十七月ばかりにや、只ならず御座しまして、既に御気色有りとて、宮の中立ち騒ぐ程に、只ゆくゆくと水のみ出でさせ給ひて、昔の弘徽殿の女御の、太秦に有りけんやうにてやみき。折ふし、賀茂の祭の頃にて、春宮の使もとどまりなどして、さやうの折々、人の口さがなさ、せめても、先坊の御方様の事を、おとしめざまに言ひ悩ましし人々も、此の頃ぞ、又かく勝る例も有りけりと、はしたなく思ひ合はせける。さのみやは、さてしも御座しますべきならねば、内へ返り入らせ給ふにも、いとあさましう珍かなる事を、思し歎くべし。御修法共も、有りしばかりこそ無けれど、猶少しづつは絶えず、いつを限りにかと見えたり。其の頃、左の大臣実泰も失せ給ひぬ。世の中いみじく歎きあへり。

かくて元徳元年にもなりぬ。今年はいかなるにか、しはぶきやみ流行りて、人多く失せ給ふ中に、伏見院の御母玄輝門院、前坊の御母代の永嘉門院、近衛殿の大北政所など、やんごとなき限り、うち続き隠れ給ひぬれば、此処彼処の御法事しげくて、いとあはれなり。かやうの事共にて、今年も又暮れぬ。明くる春の頃、内には中殿にて和歌の披講有り。序は源大納言親房書かれけり。予てよりいみじう書かせ給へば、人々心遣すべし。題は「花に万春を契」とぞ聞こえし。

御製、

時知らず花も常盤の色に咲け我が九重の万世の春

中務の卿尊良の親王、

のどかなる雲井の花の色にこそ万世ふべき春は見えけれ

帥の御子世良、

百敷の御垣の桜咲きにけり万世までの春のかざしに

次々多かれども、むつかし。

三月の頃、春日の社に行幸し給ふ。例のいみじき見物なれば、桟敷共えも言はずいどみ尽くしたり。其の後、日吉の社にも参らせ給ひき。今年も人多くにわか病みして死ぬる中に、帥の御子重く悩ませ給ひて、いとあへ無く失せ給ひぬ。内の上、思し歎く事おろかならず。一の御子よりも御才などもいと賢く、万きやうざくに物し給へれば、今より記録所へも御供に出でさせ給ふ。議定など言ふ事にも参り給ふべしと聞こえつるに、いとあさまし。御乳母の源大納言親房、我が世尽きぬる心地して、取りあへず頭おろしぬ。此の人のかく世を捨てぬるを、親王の御事にうち添へて、方々いみじく、御門も口惜しく思し歎く。世にもいとあたらしく惜しみあへり。

同じ年の冬の頃、平野北野両社に一度に行幸なり。勧修寺の殿ばら、昔より近衛司などにはならぬ事にて有りつれど、内の御乳母吉田の大納言定房、過ぎにし頃従一位して、いと珍しくめでたければ、今は上臈とひとしきにや、幼き子の宗房と言ふも少将になさる。色ゆりなどして、此の平野の行幸の舞人に参る。土御門の大納言顕実の子に、通房の中将、堀川の大納言具親の子の具雅の中将など、皆良き君達舞人にさされて、いづれも清らに美しう出で立ちて仕られたり。其の外は、くだくだしければ、例の止めつ。かやうのめでたき紛れにて過ぎもて行く。

又の年の春、三月の初めつ方、花御覧じに北山に行幸なる。常よりも異に面白かるべい度なれば、彼の殿にも心遣し給ふ。先づ中宮行啓、又の日行幸、前の右の大臣兼季参り給ひて、楽所の事などおきて宣ふ。康保の花の宴の例など聞こえしにや。北殿の桟敷にて、内々試楽めきて、家房の朝臣舞はせらる。御簾の内に大納言二位殿、播磨の内侍など、琴かき合はせて、いと面白し。六日の辰の時に事始まる。寝殿の階の間に御褥参りて、内の上御座します。第二の間に后の宮、其の次永福門院・昭訓門院も渡らせ給ひけるにや。階の東に、二条の前の殿道平・堀川の大納言具親・春宮の大夫公宗・侍従中納言公明・御子左中納言為定・中宮権大夫公泰など候はる。右大臣兼季琵琶、春宮の権大夫冬信笛、源中納言具行笙、治部卿篳篥、琴は室町の宰相公春、琵琶は薗の宰相基成など聞こえしにや。「其の日のこと見給へねば、さだかには無し。幼きわらはべなどの、しどけなく、語りし儘也。此の内に御覧じたる人も御座すらむ。承らまほしくこそ侍れ」と言ふ。御簾の内にも、大納言二位殿琵琶、播磨の内侍箏、女蔵人高砂と言ふも、琴ひくとぞ聞こえし。誠にや有りけむ。中務の宮も参り給へり。兵仗賜はり給ひて、御直衣に太刀はき給へり。御随身共、いと清らにさうぞきて、所得たる様也。万歳楽より納蘇利まで十五帖手を尽くしたる、いと見所多し。青海波を地下ばかりにてやみぬるぞ、あかぬ心地しける。暮れかかる程、花の木の間に夕日花やかにうつろひて、山の鳥の声惜しまぬ程に、陵王の輝きて出でたるは、えも言はず面白し。其の程、上も御引直衣にて、倚子に著かせ給ひて、御笛吹かせ給ふ。常より異に雲井をひびかす様也。宰相の中将顕家、陵王の入綾をいみじう尽くしてまかづるを、召し返して、前の関白殿御衣取りてかづけ給ふ。紅梅の表着・二藍の衣なり。左の肩にかけていささか一曲舞ひてまかでぬ。右の大臣大鼓打ち給ふ。其の後、源中納言具行採桑老を舞ふ。これも紅のうちたる、かづけ給ふ。

又の日は、無量光院の前の花の木蔭に、上達部立ち続き給ふ。廂に倚子立てて、上は御座します。御遊始まる。拍子に治部卿参る。上も桜人うたはせ給ふ。御声いと若く花やかにめでたし。去年の秋の頃かとよ、資親の中納言に、此の曲は受けさせ給ひて、賞に正二位許させ給ひしも、今日の為とにや有りけんと、いと艶也。ものの音共整ほりて、いみじうめでたし。其の後歌共召さる。花を結びて文台にせられたるは、保安の例とぞ言ふめりし。春宮の大夫公宗序書かれけり。

海内艾安之世、城北花開之春、我が君震臨を此の所に促し、調楽厥の中に懸れり、重ねて六義の言葉を課し、屡数柯の濃花を賞す、奉梢出雲の昔の雲再び懸れるかと疑ひ、満庭廻雪の昨日の雪の猶残れるかと省みる、小風情と言へども憖露詠に瀝す、其の詞に曰く、

時をえて御幸甲斐ある庭の面に花も盛りの色や久しき

御製、

代々の御幸のあとと思へば

兄忘れ侍る。後にも見出だしてとぞ。中務の御子、

代々をへて絶えじとぞ思ふ此の宿の花に御幸の跡を重ねて

誰も誰も、此の筋にのみ惑はされて、花の御幸の外は、珍しきふしも無ければ、さのみもしるし難し。万あかず名残多かれど、さのみはにて、九日に返らせ給ひぬ。

其の夏の頃、御門例ならず御座しまして、御薬の事など聞こゆ。いと重くのみならせ給ふとて、世の中あわてたる様なり。時しもあれや、彼の一年捕られたりし俊基を、又いかに聞こゆる事の出で来たるにか、搦めとらんとしければ、内へ逃げて参るを、追ひ騒ぎて、陣の辺まで武士共うちこみ罵れば、こは何事と聞きわくまでも無し。いと物騒がしく肝つぶれて、ある限り惑ひあへり。上も物覚え給はぬ御有様にて、おほとのごもれるに、かかる由奏すれば、いみじう思さる。遂に、又の日、六波羅へ遣はしたれば、東へ率て下りぬ。上は御悩み怠らせ給ひて、いとど安からず思すこと勝れり。日頃も御心にかけさせ給へる事なれば、すみやかに此のあらましとげてんと、ひたぶるに思し立ちて、忍びて此処彼処に、其の用意すべし。

后の宮の御腹の一品内親王、御占に合はせ給ひて、去年の冬頃より、御きよまはり有りつる、今日明日、斎宮にゐ給ふ。八月二十日、先づ川原へ出でさせ給ひて、やがて野の宮に入らせ給ふ。其の程の事共、いみじう清ら也。

此の御急ぎ過ぎぬれば、先づ六波羅を御かうじあるべしとて、予てより宣旨に従へりし兵共を忍びて召す。源中納言具行、取り持ちて事行ひけり。昔、亀山院に、御子など生み奉りて候ひし女房、此の頃は、后の宮の御方にて、民部卿三位と聞こゆる御腹に、当代の御子も出で物し給へりし、山の前の座主にて、今は大塔の二品法親王尊雲と聞こゆる、いかで習はせ給ひけるにか、弓ひく道にも猛く、大方御本性はやりかに御座して、此の事をも同じ御心におきて宣ふ。又、中務の御子の一つ御腹に、妙法院の法親王尊澄と聞こゆるは、今の座主にて物し給へば、方々、比叡の山の衆徒も、御門の御軍に加はるべき由奏しけり。つつむとすれど、こと広くなりにければ、武家にもはやうもれ聞こえて、さにこそあなれと用意す。先づ九重をきびしく固め申すべしなど定めけり。かく言ふは、元弘元年八月二十四日也。雑務の日なれば、記録所に御座しまして、人の争ひ愁ふる事共を行ひ暮らさせ給ひて、人々もまかで、君も本殿にしばしうち休ませ給へるに、「今夜既に武士共競ひ参るべし」と、忍びて奏する人有りければ、取りあへず雲の上を出でさせ給ふ。中宮の御方へ渡らせ給ひても、しめやかにも有らず、いとあわたたし。予て思し設けぬには有らねども、事の逆様なるやうになりぬれば、万うきうきと、我も人もあきれゐたり。内侍所・神璽・宝剣ばかりをぞ、忍びて率て渡らせ給ふ。上はなよらかなる御直衣奉り、北の対よりやつれたる女車の様にて、忍び出でさせ給ふ。彼の二条院の昔もかくやと思ひ出でらる。

日頃の御本意には、先づ六波羅を攻められん紛れに、山へ行幸有りて、彼処へ兵共を召して、山の衆徒をも相具し、君の御かためとせらるべしと定められければ、彼の法親王達も其の御心して、坂本に待ち聞こえ給ひけれど、今はかやうにこと違いぬれば、あへなしとて、俄に道をかへて、奈良の京へぞおもむかせ給ふ。中務の宮も、御馬にて追いて参り給ふ。九条わたりまで御車にて、それより、御門もかりの御衣にやつれさせ給ひて、御馬に奉る程、こはいかにしつる事ぞと、夢の心地して思さる。御供に按察の大納言公敏・万里小路の中納言藤房・源中納言具行・四条の中納言隆資など参れり。

いづれも怪しき姿にまぎらはして、暗き道をたどり御座する程、げに「闇のうつつ」の心地して、我にも有らぬ様也。丑三ばかりに、木幡山過ぎさせ給ふ。いとむくつけし。木津と言ふ渡りに御馬とめて、東南院の僧正のもとへ御消息遣はす。それより御輿を参らせたるに奉りて、奈良へ御座しまし著きぬ。ここに中一日有りて、二十七日、和束の鷲峰山へ行幸有りけれども、そこもさるべくや無かりけん、笠置寺と言ふ山寺へ入らせ給ひぬ。所の様、容易く人の通ひぬべきやうも無く、よろしかるべしとて、木の丸殿の構へを始めらる。これよりぞ人々少し心地取り静めて、近き国々の兵共召し遣はす。

さて都には、二十四日の夜、六波羅より常陸の守時知馳せ参りて、百敷の中をあさり騒ぐ。其の程、人の曹司などに、おのづから落ち残りたる女房の心地、言はん方無し。御座します殿を見れば、近き御厨子・御調度共、何くれ、すずりなども、さながらうち散りて、只今まで御座しましけるあとと見えながら、宮人などだに一人も無し。女房の曹司曹司より、樋洗しめく女の童など、我先にと走り出で、調度共運び騒ぎ、くづれ出づる気色共、いとあさましく、目もあやなり。錦の几帳の内にいつかれましましつる后の宮も、何の儀式も無く、忍びてあわて出でさせ給ひぬれば、あたりあたりかきはらい、時の間にいとあさましく、御簾几帳など、踏みしだき引き落として、火の影もせず。ここも彼処も暗がりて、うち荒れたる心地す。今朝まで、九重の深き宮の内に出で入り仕へつる男女、一人とまらず、えも言はぬ武士共うち散り、あらあらしげなるけはひに、続松高く捧げて、細殿・渡殿、何くれ、まかげさして、あさりたる気色、けうとくあさまし。世は憂き物にこそと、時の間に、げに、心有らむ人は、やがて修行の門出でにもなりぬべくぞ覚ゆる。中宮は、忍びて野の宮殿の傍にぞ御座しまし著きにける。宣房の大納言の二郎季房の宰相ばかり、御とのゐに候ふ。二十五日の曙に、武士共満ち満ちて、御門の親しく召し使ひし人々の家々へ押し入り押し入り捕りもて行く様、獄卒とかやのあらはれたるかと、いと恐ろし。万里小路の大納言宣房・侍従中納言公明・別当実世・平宰相成輔、一度に皆六波羅へ率て行きぬ。かやうの事を見るに、いとど肝心も失せて、おのづから取り残されたる人も、心と皆かきけち行き隠るる程に、主無き宿のみぞ多かる。坂本には行幸を待ち聞こえ給ひけるに、引き違へ南ざまへ御座しましぬれば、其の由衆徒に聞かれなばあしかりぬべし。又とまれかくまれ、誠の御座しまし所を、左右なく武家へ知らせじのたばかりにや有りけん、花山院の大納言師賢を山へ遣はして、忍びて御門の御座します由にもてないて、彼の両法親王、こと行ひ給ひつつ、六波羅の兵共の囲みを防かせ給ふ。其の日は、大納言も、大塔の前の座主の宮も、うるはしき武士姿に出で立たせ給ふ。卯の花をどしの鎧に鍬形の兜奉り、大矢負いてぞ御座する。妙法院の宮は、生絹の御衣の下に、萠黄の御腹巻とかや着給へり。大納言は、唐の香染めの薄物の狩衣に、けちえんに赤き腹巻をすかして、さすがに蒔絵の細太刀をぞはき給ひける。

六波羅より、御門ここに御座しますと心得て、武士共多く参り囲む。山法師も戦ひなどして、海東とかや言ふ兵討たれにけり。「事の初めに、東失せぬる、めでたし」などぞ言ふめる。かかれども、御門笠置に御座します由、程無く聞こえぬれば、計られ奉りにけるとて、山の衆徒もせうせう心がはりしぬ。宮々も逃げ出で給ひて笠置へぞ詣で給ひける。大納言は都へ紛れ御座すとて、夜深く志賀の浦を過ぎ給ふに、有明の月くま無く澄み渡りて、寄せ返る波の音もさびしきに、松吹く風の身にしみたるさへ、取り集め心細し。

思ふこと無くてぞ見ましほのぼのと有明の月の志賀の浦波

其の後、辛うじてぞ、笠置へはたどり参られける。

かやうの事共も、例の早馬にて東へ告げ遣りぬ。只今の将軍は、昔式部卿久明親王とて下り給へりし将軍の御子也。守邦の親王とぞ聞こゆる。相模の守高時と言ふは、病によりて、未だ若けれど、一年入道して、今は世の大事共いろはねど、鎌倉の主にてはあめり。心ばへなどもいかにぞや、うつつ無くて、朝夕好む事とては、犬くひ・田楽などをぞ愛しける。これは最勝園寺入道貞時と言ひしが子なれば、承久の義時よりは八代にあたれり。此の頃、私の後見には、長崎入道円基とか言ふ物有り。世の中の大小事、只皆此の円基が心の儘なれば、都の大事、かばかりになりぬるをも、彼の入道のみぞ取り持ちて、おきて計らひける。重き武士共多く上すべしと聞こゆ。大方、京も鎌倉も、騒ぎ罵る様、けしからず。承久の昔もかくやと、今更に思ひやらる。持明院殿には、春宮御座しませば、思ひの外にめでたかるべき事なれど、今日明日は、未だ軍の紛れにて、何の沙汰も無し。御宿直の物の、うべうべしきも無くて、離れ御座しますも、あぶなき心地すればにや、せめても六波羅近くとて、六条殿へ、本院・新院・春宮引き続きて移らせ給ひぬれど、日に添へて、天の下騒ぎ満ち、恐ろしき事のみ聞こゆれば、猶これも危ふしとて、六波羅の北に、代々の将軍の御料とて造りおける桧皮屋一つあるに、両院・春宮入らせ給ふ。大方は、いと物しきやうなれど、よろしき時こそあれ、かばかりの際には、何の儀式も無かるべし。笠置殿には、大和・河内・伊賀・伊勢などより、兵共参り集ふ中に、事の始めより頼み思されたりし楠の木兵衛正成と言ふ物有り。心猛くすくよかなる物にて、河内国に、おのが館のあたりをいかめしくしたためて、此の御座します所、もし危ふからん折は、行幸をもなし聞こえんなど、用意しけり。東の夷共、やうやう攻め上る由聞こゆ。もとより京にある武士共も、我先にと競ひ参る。木の丸殿には、さこそ言へ、むねむねしき物無し。いかに成り行くべきにかと、いと心細く思し乱る。我が御心もての事なれば、かこつかた無けれど、故郷の空もあはれに思し出でらる。秋も深く成り行く儘に、山の木の葉のうちしぐれ、谷の嵐の訪るるも、あたの競ふかと、肝を消す消す御住居、いつしか御身をかへたる御心地し給ふもあぢきなし。

憂かりける身を秋風にさそはれて思はぬ山の紅葉をぞ見る

既に、東の武士共、雲霞の勢ひをたなびかし上る由聞こゆれば、笠置にもいみじう思し騒ぐ。もとよりいと険しき山の〔深き〕つづらをりを、えも言はず木戸・逆茂木・石弓など言ふ事共したためらる。さりとも、容易くは破れじと頼ませ給へるに、後ろの山より、御敵共くづれ参りて、木戸共焼き払ひ、御座しますあたり近く、既に煙もかかりければ、今はいかがせんにて、怪しき御姿にやつれて、たどり出でさせ給ふ。座主の法親王〔尊澄〕、御手をひき奉り給へるも、いとはかなげなる御有様也。中務の御子・大塔の宮などは、予てよりここを出でさせ給ひて、楠の木が館に御座しましけり。行幸もそなたざまにやと思し志して、藤房・具行両中納言、師賢の大納言入道、手を取りかはして、炎の中を免れ出づる程の心地共、夢とだに思ひも別れず、いとあさまし。少し延びさせ給ひてぞ、御馬尋ね出でて、君ばかり奉りぬれど、ならはぬ山路に御心地も損なはれて、誠に危ふく見えさせ給へば、高間の山と言ふ渡りに、しばし御心地をためらふ所に、山城の国の民にて、深栖の五郎入道とか言ふ物、参りかかりて、案内聞こえたるしも、いとめざましう口惜し。上達部、思ひやるかた無くて、只目を見かはして、いかさまにせんとあきれたるに、東より上れる大将軍にて、陸奥国の守貞直と言ふ物、大勢にて参れり。今は只、ともかくも宣はすべきやう無ければ、遂に甲斐無くて、敵の為に御身をまかせぬる様也。

やがて宇治に行幸あるべき由奏すれば、御心にも有らで、ひかされ御座します程に、心憂しと言ふも斜なり。具行・藤房・忠顕の少将など、やがておのが手の物共に従へさせつ。大納言入道、御馬のしりに走り後れて、此処彼処の岩かげ、木のもとに休むみつつ、とかくためらふ程に、それも見つけられて捕られぬ。君をば宇治へ入れ奉りて、先づ事の由六波羅へ聞こゆる程に、一、二日御逗留有り。かく言ふは九月三十日なれば、空の気色さへ時雨がちに、涙催し顔なり。平等院の紅葉御覧じやらるるも、かからぬ御幸ならばと、あへなし。後冷泉院かとよ、ここに行幸し給ひて、三、四日御座しましける、其の世の人の心地、上下何事かはと、羨ましくあはれに思さる。

十月三日、都へ入らせ給ふも、思ひしに変はりて、いとすさまじげなる武士共、衛府のすけの心地して、御輿近くうち囲みたり。鳳輦には有らぬ網代輿の怪しきにぞ奉れる。六波羅の北なる桧皮屋には、もとより両院・春宮御座しませば、南の板屋のいと怪しきに、御しつらひなどして御座しまさするも、いとほしう忝し。間近き程に、万聞こし召し御覧じふるることごとにつけても、いかでか御心動かぬやうは有らん、口惜しう思し乱る。ならはぬ御宿りに、時雨の音さへはしたなくて、

まだなれぬ板屋の軒のむら時雨音を聞くにもぬるる袖かな

中務の宮は、正成がもとに御座しましつれど、御門のかくならせ給ひぬれば、今は甲斐無しとて、それも都へ入らせ給ひて、佐佐木の判官時信と言ふ物の家に渡らせ給ひぬ。徒然と、物思し乱るるより外の事無し。

世のうさを空にも知るや神無月理すぎて降る時雨かな

此の御子は、藤大納言為世の御孫にて物し給へば、彼の家に常は住み給ひし程に、大納言末の女、大納言の典侍と聞こゆるに御覧じ付きて、其の御腹に姫宮など出で来給へり。又、中宮の御匣殿は、宮の御兄の右の大臣公顕と聞こえし御娘也。其の御腹にも男御子など御座します。思ふ儘なる世をも待ち出で給はばと、誰も行末頼もしく思ひ聞こえつるに、かく思ひの外にあさましき事の出で来ぬるを、深う思ひ歎く人々数知らず。御匣殿は失せ給ひしかば、此の頃は、只此の典侍の君をのみ又無き物に思ほしかはしつるに、吹きかふ風も間近き程には御座すれど、御対面は思ひもよらず、おぼつかなさの慰むばかりなる御消息などだに、通ふ事も適はぬ御有様を、あはれにいぶせう思し結ぼほれたり。一つ御腹の座主の法親王も、長井の高広とかや言ふ物、預かり奉りぬ。御門遠く移らせ給はん程、此の御子達も、おのが散り散りになり給ふべしなど聞こえけり。

春宮は世をつつしみて、六波羅に渡らせ給ふ。先帝はあたの為に、同じ御やどり、葦垣ばかりを隔てにて、御座しませば、主無き院の内、いとさびしくて、衛士のたく火も影だに見えず。内には、いつしか怪しかる物など住み着きて、ある時は、紅の袴長やかに踏みたれて、火ともしたる女、見る儘に、丈は軒とひとしくなりて、後にはかき消ち失するも有り。又いみじう光を放ちて、髪を前に乱しかけたる童なども見えけり。鬼殿などはかくや有りけんと恐ろし。人住まで年経荒れぬる所などにこそ、かかる事もおのづから有りけれ。僅かに一月二月の中に、かかるべきには有らぬを、これ彼いと怪しきわざなるべし。

さて例の東より御使ひのぼれり。代々の例とかやとて、秋田の城の介高景、二階堂の出羽の入道道雲とかや言ふ物ぞ参れる。西園寺の大納言公宗卿に事の由申して、春宮御位に即き給ふ。さるべき御事と言ひながら、今日明日とは見えざりつるに、いとめでたし。さて六波羅より、此の度は世の常の行啓の儀式にて、持明院殿へ入らせ給ふ。両院も引きつくろひたる御幸の由なり。ひしめき立ちぬる世の音なひを聞こし召す先帝の御心地、たとしへ無くねたく人悪し。もとの内裏へ新帝移らせ給ふ。上達部残り無く仕らる。院も常盤井殿へ御座しまいて、世の政事聞こし召せば、後宇多院の昔思ひ出でられてあはれ也。

いつしか十月十二日綸旨下されて、前の御代の人々大中納言・宰相すべて十人、宣房・公明・藤房・具行・隆資・実世・実治・季房・隆重・忠顕、官止めらるる由聞こゆるも、昨日まで時の花と見えし人々、つかの間の夢かとあはれ也。かかるにつけては、一御族のみ、今はわく方無く定まり給ふべきかと、世の人も思ひ聞こゆる程に、亀山院の御流れ絶ゆべきには有らずとにや、先坊の一の宮を太子に立てまつらる。御乳母の雅藤の宰相の法性寺の家に渡らせ給へるを、土御門高倉の先坊の御跡へ入れ奉りて、十一月八日坊に定まり給ふ。今は思ひの絶えぬる心地しつるに、いとめでたし。松が浦島に年経給ひぬる入道の宮も、御親の心地にて御座しますべければ、太上天皇になずらへて崇明門院と聞こゆ。万斧の柄朽ちにし昔を改めたる宮の内也。有りし後、おのが様々まかで散りにし古女房・上達部・殿上人など、世の中屈じいたくて、此処彼処に篭り居たりしも、いつしかと参り集ふ様、谷の鴬の春待ちつけたる心地して、いと頼もしげ也。傅には久我右の大臣長通、大夫には中の院(ゐん)の大納言通顕なり給ふ。なべて世に年頃埋もれたりし人々、いつしか、官位様々に、思ふ儘なる気色共、目の前に移り変はる世の有様、今更ならねど、いとしるく掲焉なるもあぢきなし。かくて年も暮れぬ。

増鏡 19 久米の佐良山

19 久米の佐良山

元弘二年の春にもなりぬ。あたらしき御代の年の始めには、思ひなしさへ、花やかなり。上も若う清らに御座しませば、万めでたく、百敷の内、何事も変はらず。さるべき公事の折々、さらでも、院・内同じ陣の内なれば、一つに立ち込みたる馬車、隙無くにぎはしけれど、見し世の人は一人もまじろはず、参りまかづる顔のみぞ変はれる。

先帝は、未だ六波羅に御座します。二月の頃、空の気色のどやかに霞み渡りて、ゆるらかに吹く春風に、軒の梅なつかしく香りきて、鴬の声うららかなるも、うれはしき御心地には、物憂かる音にのみ聞こし召しなさる。ことやうなれど、〔彼の〕上陽人の宮の中思ひよそへらる。長き日影もいとど暮らし難き御慰めにとや聞こえ給ひけん、中宮より御琵琶奉らせ給ふついでに、いささかなるもののはしに、

思ひやれ塵のみつもる四の緒に払ひもあへずかかるなみだを

げにと思し召しやるに、いと悲しくて、玉水の流るるやうになん。御返し、

かき立てし音をたち果てて君恋ふる涙の玉の緒とぞなりける

彼の承久の例にとや、東より御使には、長井の右馬の助高冬と言ふ者なるべし。これは、頼朝の大将の時より、鎌倉に重き武士にて、未だ若けれども、かかる大事にも上せけるとぞ申しける。遂に隠岐の国へ移し奉るべしとて、三月の初めの七日に、都を出でさせ給ふ。今はと聞こし召す御心惑ひ共、言へば更也。所々の歎き、近う仕まつりし人々の心地共、おき所無く悲し。御門も限り無く御心悩むべし。いとかうしも人に見えじと、かつは思し沈むれど、あやにくにすすみ出づる御涙を、もてかくしつつ御座します。ふりにし事を思し出づるにも、立ち返り又世を安く思さん事のいとかたければ、万今をとぢめにこそと、思しめぐらすに、人遣りならず、口惜しき契り加はりける前の世のみぞ、つきせずうらめしき。

遂にかく沈みはつべき報ひ有らば上無き身とは何生まれけん

巳の時ばかりに出でさせ給ふ。網代の御車に、御前共などは、故院の御世より仕りなれにし物共、ある限り参れり。御車寄せに西園寺の中納言公重候ひ給ふ。上は、御冠に世の常の御直衣・指貫・白綾の御衣一重ね奉れり。去年の今日は、北山にて花の宴せさせ給ひしも、あはれに思し出でられて、其の日の事、かきつらね恋しく思さる。人々の禄にこそは賜はせしを、今日は御旅衣にたちかふるも、あはれに定め無き世の習ひ、今更心憂し。御車に奉るとて、日頃御座しましつる傍の障子に、書きつけさせ給ふ。

いさ知らず猶憂き方の又も有らば此の宿とても忍ばれやせん

御供には、内侍の三位殿・大納言の君・小宰相など、男には、行房の中将・忠顕の少将ばかり仕る。おのがじし、都の名残共言ひ尽くし難し。六波羅よりの御送りの武士、さならでも名ある兵共、千葉の介貞胤を始めとして、覚え異なる限り、十人選びて奉る。色々の綾錦の水干・直垂など言ふもの、様々に織り尽くし染め尽くして、いみじき清らを好み整へたれば、かくてしも、世に珍しき見物なり。六波羅より、七条を西へ、大宮を南へ折れて、東寺の門の前に御車抑へらる。とばかり御念誦あるべし。物見車所せき程なり。よろしき女房も壺装束などして、かちの物共もうちまじれり。若きも、老いたるも、尼法師、怪しき山賎まで立ち込みたる様、竹の林に異ならず。各目押しのごひ、鼻すすりあへる気色共、げに、うき世のきはめは、今に尽くしつる心地ぞする。崇徳院の讚岐に御座しましけん程の有様、後鳥羽院の隠岐に移らせ給ひけむ時なども、さこそは有りけめなれど、つてにのみ聞きて、見ねば知らず。これを始めたる心地ぞする。日頃は、何の御匂にも触れず、数ならぬ人、及ばぬ身までも、今日の御別のあはれさ、なべておき所なげにぞ惑ひあへるかし。君も御簾少しかき遣りて、此のも彼のも御覧じ渡しつつ、御目とまらぬ草木もあるまじかめり。岩木ならねば、武士の鎧の袖共も、しほとけげにぞ見ゆる。都の木末を隠るるまで御覧じ送るも、猶夢かと覚ゆ。鳥羽殿に御座しまし著きて、御よそひ改め、破子など参らせけれど、気色ばかりにて参らづ。これより御輿に奉れば、とどまるべき御前共の、空しき御車を、泣く泣くやりかへるとて、くれ惑ひたる気色、いと堪えがたげ也。

かくて、君は遙かに赴かせ給ふ。淀の渡りにて、昔八幡の行幸有りし時、橋渡しの使ひなりし佐々木の佐渡の判官と言ふ物、今は入道して、今日の御送り仕れるに、其の世の事思し出でられて、いと忍びがたさに賜はせける。

しるべする道こそ有らずなりぬとも淀の渡りは忘れしもせじ

又の日は、中務の御子、土佐国へ御座します。御供に為明の中将参る。日頃、かく怪しき御宿りに物し給ふを、忝く思ひ聞こえつるに、遙かなる世界にさへ居て御座しませば、ましていかさまなるわざをして御覧ぜさせんと、主時信、経営し騒ぐ。宮既に立たせ給ふとて、瓶にさしたる花を折らせ給ひて、

花は猶とまる主に語らへよ我こそ旅に立ちわかるとも

同じ日、やがて妙法院の座主尊澄法親王も、讚岐の国へ御座します。

先帝は今日津の国昆陽野の宿と言ふ所に著かせ給ひて、夕づく夜ほのかにをかしきを、ながめ御座します。

命あればこやの軒ばの月も見つ又いかならん行末の空

昆陽野より出でさせ給ひて、武庫川・神崎・難波、住吉など過ぎさせ給ふとて、御心の内に思す筋あるべし。広田の宮の渡りにても、御輿止めて、拝み奉らせ給ふ。葦屋の里、雀の松原・布引の滝など御覧じやらるるも、古き御幸共思し出でらる。生田の森をば訪はで過ぎさせ給ひぬめり。湊川の宿に著かせ給へるに、中務の宮は、こやの宿に御座します程、間近く聞き奉らせ給ふも、いみじうあはれに悲し。宮、

いとせめてうき人遣りの道ながら同じとまりと聞くぞ嬉しき

福原の島より、宮は御舟に奉る。御門は、和田の岬・刈藻川をうち渡して、須磨の関にかからせ給ふ。彼の行平の中納言、「関吹きこゆる」と言ひけんは、浦よりをちなるべし。あはれに御覧じ渡さる。源氏の大将の、「泣く音にまがふ」と宣ひけん浦波、今もげに御袖にかかる心地するも、様々御涙の催し也。播磨の国へ著かせ給ひて、塩屋・垂水と言ふ所をかしきを、問はせ給へば、「さなん」と奏するに、「名を聞くよりからき道にこそ」と宣はせて、差しのぞかせ給へる御様かたち、ふり難くなまめかし。けぢかき限りは、あはれにめでたうもと思ひ聞こゆべし。

大倉谷と言ふ所少し過ぐる程にぞ、人丸の塚は有りける。明石の浦を過ぎさせ給ふに、「島がくれ行く舟」共、ほのかに見えてあはれ也。

水の泡の消てうき世を渡る身の羨ましきは海士の釣舟

野中の清水・ふたみの浦・高砂の松など、名ある所々御覧じ渡さるるも、かからぬ御幸ならば、をかしうも有りぬべけれど、万かき暗す御乱り心地に、御目とまらぬも、我ながらいたう屈じにけるかなと思さる。いと高き山の峰に、花面白く咲き続きて、白雲をわけ行く心地するも艶なるに、都の事数々思し出でらる。

花は猶うき世もわかず咲きてけり都も今や盛りなるらむ

あと見ゆる道のしをりの桜花此の山人の情けをぞ知る

十二日に、加古河の宿と言ふ所に御座します程に、妙法院の宮、讚岐へ渡らせ給ふとて、同じ道、少し違ひたれど、此の川の東、野口と言ふ所まで参り給へる由奏せさせ給へば、いとあはれに相見まほしう思さるれど、御送りの兵共許し聞こえねば、宮むなしく帰らせ給ふ御心の中、堪へ難く乱れ勝るべし。更なる事なれど、かばかりの事だに、御心にまかせずなりぬる世の中、いへばえに、つらく恨めしからぬ人無し。

十七日、美作の国に御座しまし著きぬ。御心地悩ましくて、此の国に二、三日休らはせ給ふ程、かりそめの御宿りなれば、もの深からで、候ふ限りの武士共、おのづからけぢかく見奉るを、あはれにめでたしと思ひ聞こゆ。君も思ほし続くる事有りて、

あはれとは汝も見るらん我が民と思ふ心は今も変はらず御座しますに続きたる軒のつまより、煙の立ち来れば、「庵にたける」とうち誦ぜさせ給へるも艶なり。

よそにのみ思ひぞやりし思ひきや民のかまどをかくて見んとは

二十一日、雲清寺と言ふ所にて、いと面白き花を折りて、忠顕少将奏しける。

変はらぬを形見となして咲く花の都は猶も忍ばれにける

御返し、

色も香も変はらぬしもぞ憂かりける都の外の花の木末は

又、小山の五郎とか言ふ武士に、同じ花をやるとて、少将、

うき旅と思ひは果てじ一枝の花の情けのかかる折には

かくて猶御座しませば、来し方はそこはかとなく霞み渡りて、「あはれに遠くも来にけるかな」と、日数に添へて、都のいとど隔たりはつるも、心細う思さる。ほのかに咲きそむと見えし花の木末さへ、日数も山も重なるに添へて、うつろひ勝りつつ、上り下るつづらをりに、いと白く散りつもりて、むら消えたる雪の心地す。

花の春又見ん事のかたきかな同じ道をば行きかへるとも

いとかたしとは思す物から、なほさりとも平かにだに有らば、おのづから御本意とぐるやうも有りなんなど、御心もて慰め思すもはかなし。久米の佐良山と言ふ所越えさせ給ふとて、

聞きおきし久米の佐良山越えゆかん道とは予て思ひやはせし

逢坂と言ふは、東路ならでも有りけりと聞こし召して、

立ちかへり越え行く関と思はばや都に聞きし逢坂の山

三日月の中山にて、昔後鳥羽院の仰せられけん事思し出づるさへ、げに憂かりける例なり。

伝へ聞く昔がたりぞうかりける其の名ふりぬる三日月の森

御道半ばになりぬれば、御送りの物共、上下、都出でしよりも猶花やかに、今めかしう装束きかへたり。大方は、怪しう様異なる御幸なれど、道すがらの御設け、国々に心遣したる気色などは、かうざまの御歩きとは見えず、いとやむごとなくなん。さは言へど、今まで国の主にて、世をもいみじう治めさせ給へりつる名残にや有らん、いと懇ろにのみ仕れり。古の御幸共には、かうは有らざりけりとぞ、古き事知れる人々言ひ侍りける。四月一日の頃、百敷の宮の中思し出でられて、

さもこそは月日も知らぬ我ならめ衣がへせし今日にやは有らぬ

出雲の国やすぎの津と言ふ所より、御舟に奉る。大舟二十四艘、小舟共は、〔はしに〕数も知らず続きたり。遙かに押し出だす程、今一かすみ心細うあはれにて、誠に「二千里の外」の心地するも、今更めきたり。彼の島に御座しまし著きぬ。昔の御跡は、それとばかりのしるしだに無く、人のすみかも稀に、おのづから海士の塩やく里ばかり遙かにて、いとあはれなるを御覧ずるにも、御身の上は差し置かれて、先づ彼の古の事思し出づ。かかる所に世を尽くし給ひけん御心の内、いかばかりなりけんと、あはれに忝く思さるるにも、今はた、更にかくさすらへぬるも、何により思ひ立ちし事ぞ、彼の御心の末や果たし遂ぐると思ひし故也。苔の下にもあはれと思さるらんかしと、万にかき集めつきせずなん。海づらよりは少し入りたる国分寺と言ふ寺を、よろしき様に取り払いて、御座しまし所に定む。今はさは、かくてあるべき御身ぞかしと、思し静まる程、猶夢の心地して、言はん方無し。そこら参りし兵共もまかづれば、かいしめりのどやかになりぬる、いとど心細し。昔こそ、受領共も、任の程其の国をしたため行ひしか。此の頃は只名ばかりにて、いづくにも守護と言ふ物の、目代よりはおぞましきを据ゑたれば、武家のなびきにてのみ、おほやけざまの事は、万おろそかにぞしける。葛城の大君を、陸奥国へ遣はしたりけんも、かくやとあはれ也。

中務の御子も、土佐に御座しまし著きて、御送りの武士に賜はせける。

思ひきや恨めしかりし武士の名残を今日は慕ふべしとは

かやうの類、数多聞こえしかど、何かはさのみ。皆人もゆかしからず思さるらんとてなん。

都には、三月二十二日御即位の行幸なれば、世の中めでたく罵る。本院・新院一つに奉りて、待賢門の辺に御車立てて見奉らせ給ふ。万あるべき様に、整ほりてめでたし。

誠や、中宮は其の儘に御ぐしもたぐる時も無く、沈み給へる御有様、いと理に、遠き御別の悲しさにうち添へて、御胸の安き間も無く思しこがる。后の位も止められ給ひて、院号の定めなど、人の上のやうにほのかに聞こし召すも、嬉しからぬ世也。礼成門院とかや申す也。年月は、御身の人わらへなる様にて、天下の騒がれなりしをこそ思し歎き、御門も苦しき異に思し宣はせけるに、今は中々其の筋の事は、かけても思さず、様々なりし御修法の壇共も、あとかた無く毀ち果てて、かきさましぬ。ひたすらに、只かかる世の憂さをのみ思し惑ふに、日頃経れど、御湯なども絶えて御覧じ入れねば、そこはかとなく、いとど損なはれ勝りて、ながらふべくも見え給はず。隠岐よりは、たまさかの御消息などの通ふばかりにて、おぼつか無くいぶせき事多く積もり行くも、いつをあふせの限りとも無く、定め無き世に、やがてかくてやとぢめんとすらんと、かたみにいみじう思さる。

彼処に参り給へる内侍の三位の御腹にも、御子達数多御座します。いづれも未だいはけなき御程にはあれど、物思し知りて、いみじう恋ひ聞こえ給ひつつ、折々は忍びてうち泣きなどし給ふ。幼う物し給へば、遠き国までは移し奉らねど、もとの御後見をば改めて、西園寺の大納言公宗の家にぞ渡し奉る。八になり給ふぞ御兄ならんかし。北山に御座する程、夕暮の空いと心すごう、山風あららかに吹きて、常よりも物悲しく思されければ、

庭松緑老秋風冷薗竹葉繁白雪埋む

つくづくとながめ暮らして入相の鐘の音にも君ぞ恋しき

幼き御心にも、はかなくうちひそみ給へる、いとあはれなり。ここも彼処も尽きせず思し歎く様、言はずとも皆推し量るべし。

宮の宣旨も、いたう時めきて、三位してき。其の御腹の若宮は、花山院の大納言師賢の御乳母にて、事の外にかしづかれ給ひしも、此の頃は、引き忍びて御座します。母君も世の憂さに堪えず、様かへて、心深くうち行ひつつ、涙ばかりを友にて、明かし暮らすに、おば北の方さへ失せたりと聞きて、時々言ひかはしてけるなま女房のもとより、程経て後なりければ、

うきに又重ぬる夢を聞きながら驚かさでも歎き来しかな

返し、宣旨の三位殿、

うきに又重なる夢を聞きながら驚かさではなど歎きけん

此の兄の為定の中納言も、前の御世には、覚え花やかにて、いと時なりしに引き返、しめやかに徒然と篭り居たれば、祖父の大納言為世、度々院の御気色賜はられけれど、いとふようなれば、心もとなう思ひわびて、春宮の大夫通顕の君して、重ねて奏しける。

和歌の浦に八十余りの夜の鶴子を思ふ声のなどか聞こえぬ

大夫は、うけばりたる伝奏などにてはいませざりけれど、此の大納言、歌の弟子にて、去り難き上、事の様も故あるわざなれば、直衣の懐に引き入れて参り給へりけるに、院の上のどやかに出で居させ給ひて、世の御物語など仰せらる。折よくて、思ひ歎く様など、懇ろに語り申して、有りつる文引き出でつつ、御気色とり給ふ。大方、いとなごやかに御座します君の、まいて何ばかり罪ある人ならねば、勘じ思すまでは無けれど、いささかも武家よりとり申さぬ事を、御心にまかせ給はぬにより、かくとどこほるなるべし。「いと不便にこそ」と宣はせて、やがて御返し、

雲の上に聞こえざらめや和歌の浦に老いぬる鶴の子を思ふ声

今年は祭の御幸あるべければ、珍しさに、人々常よりも物見車心遣して、予てより桟敷などもいみじう造れり。使共も、いかで人に勝らむと、かたみにいどみかはすべし。本院・新院・広義門院・一品の宮も忍びて入らせ給ふなどぞ聞こえし。御車寄せには、菊亭の右の大臣の御子実尹の中納言参り給へり。殿上人も、良き家の君達共、色ゆりたる限り、いと清らに好ましう出で立ち仕れり。御随身なども、花を折れる様也。出だし車に、色々の藤・躑躅・卯の花・なでしこ・かきつばたなど、様々の袖口こぼれ出でたる、いと艶になまめかし。

祭など過ぎて、世の中のどやかになりぬる程に、先帝の御供なりし上達部共、罪重き限り、遠き国々へ遣はしけり。洞院の按察の大納言公敏、頭おろして忍び過ぐされつるも、猶ゆり難きにや、小山の判官秀朝とかや言ふ物具して、下野国へと聞こゆ。

花山院の大納言師賢は、千葉介貞胤後ろみて、下総国に下る。五月十日余りに都出でられけり。思ひかけざりし有様共、いみじとも更也。

わかるとも何か歎かん君住までうき故郷となれる都を

北の方は花山院の入道右の大臣家定の御女なり。其の腹にも、又異腹にも、君達数多御座すれど、それまでは流されず。上のいみじう思ひ歎き給へる様、あはれに悲しけれど、今は限りの対面だにも許されねば、はるくるかた無く口惜しく、万に思ひめぐらされて、いと人悪し。

今はとて命を限る別れ路は後の世ならでいつを頼まん

源中納言具行ともゆきも同じ頃あづまて行く。数多あまたの中に取り分きて重かるべく聞こゆるは、様異なる罪に当たるべきにやあらん。内にさぶらひし勾当こうたうの内侍は、経朝つねとも三位さんみの娘なりき。早うより、御門睦ましく思し召して、姫宮などうで奉りしを、その後、この中納言いまだ下臈げらふなりし時より許し賜はせて、この年来、二つなき者に思ひ交はして過ぐしつるに、かく様々に付けて浅ましき世を、並べてにやは。日に添へて歎きしづみながらも、同じ都にありと聞くほどは、吹き交ふ風の便りにも、さすが言問ふ慰めもありつるを、つひにさるべき事とは、人のうへを見聞くに付けても、思ひまうけながら、なほ今はと聞く心地、例へん方なし。この春、君の都別れ給ひしに、そこら尽きぬと思ひし涙も、げに残りありけりと、今一入ひとしほ身も流れ出でぬべく思ゆ。中納言は、「ものにもがなや」と悔しうはしたなき事のみぞ、底には、千々ちぢに砕くめれど、女々しう人に見えじと思ひかへしつつ、つれなく作りて、思ひ入りぬる様なり。去年こぞの冬頃、数多あまた聞こえしに、

ながらへて 身は徒らに 初霜の おくかた知らぬ 世にもふるかな

今ははや いかになりぬる 憂き身ぞと 同じ世にだに とふ人も無し

佐々木の佐渡の判官入道伴ひてぞ下りける。逢坂あふさかの関にて、

返るべき 時しなければ これやこの 行くを限りの 逢坂の関

柏原かしはばらと言ふ所にしばし休らいて、あづかりの入道、先づあづまへ人を遣はしたるかへり事待つなるべし。そのほど、物語など情け情けしううち言ひ交はして、「何事もしかるべきさきの世の報ひに侍るべし。御身一つにしもあらぬ身なれば、まして甲斐かひなきわざにこそ。かくたけいへまれて、弓矢取るわざにかかづらひ侍るのみ、憂きものに侍りけれ」など、まほならねどほのめかすに、心得果てられぬ。

隠岐の御送りをも仕りし者なれば、御道すがらの事など語り出でて、「かたじけなういみじうも侍りしかな。まして、朝夕あさゆふ近う仕り馴れ給ひけん御心ども、さながらなん推し量り聞こえさせ侍りし。何事も昔に及び、めでたうおはしましし御事にて、世下り時衰へぬる末には、余りたる御有様にや、かくもおはしますらんとさへ、せめては思ひ給へ寄らるる」など、大方おほかたの世に付けても、げにと思ゆる節々くはへて、のどやかに言ひをる気配けはひ、おのがほどには過ぎにたる、御酒みきなど、所に付けてことそぎ粗々あらあらしけれど、さる方にしなして、良きほどにて、下しつるあづまよりの使ひ、かへり来たる気色、るけれど、ことさらに言ひ出づる事もなし。いかならむと胸うちつぶれて思ゆるも、かつはいと心弱しかし。いづくの島守となれらん人もあぢきなく、たれ千年ちとせの松ならぬ世に、中々心尽くしこそ勝らめ。つひに逃るまじき道は、とてもかくても同じ事、そのきはの心乱れなくだにあらば、すずしき方にも赴きなんと思ふ心は心として、都の方も恋しうあはれに、さすがなる事ぞおほかりける。

よろづにつけて、事の気色を見るに、行くすゑとほくはあるまじかんめりと悟りぬ。あづかりがほのめかししも、情けありて思ひ知らすれば、同じうはと思ひて、またの日「かしら下ろさんとなん思ふ」と言へば、「いとあはれなる事にこそ。あづまの聞こえやいかがと思ひ給ふれど、なんでう事かは」とて、許しつ。かく言ふは、六月みなづきの十九日なり。かの事は今日けふなんめりと、気色見知りぬ。思ひまうけながらも、なほためしなかりける報ひのほど、いかが浅くは思えん。

消えかかる 露の命の 果ては見つ さても東の 末ぞゆかしき

なほも、思ふ心のあるなんめりと、憎き口付きなりかし。その日の暮れつ方、つひにそこにて失はれにけり。今際いまはきはも、さこそ心の内はありけめど、いたく人わろうもなく、あるべき事とも思へる様になん見えける。内侍の待ち聞く心地、いかばかりかはありけん。やがて様変へて、近江あふみの国高島と言ふわたりに、昔の所縁の人々たふとく行ひて住む寺にぞ、立ち入りぬる。

万里小路の中納言藤房は、常陸の国に遣はさる。父の大納言、母おもとなど、老の末に引きわかるる心地共、言へば更也。身にかへても止めまほしう思へど甲斐無し。弟の季房の宰相も、頭おろしたりしかど、猶下野の国へ流さる。平宰相成輔は東へと聞こえしかど、それも駿河の国とかやにて失はれける。

又元亨の乱の初めに流されし資朝の中納言をも、未だ佐渡の島に沈みつるを、此の程のついでに、彼処にて失ふべき由、預かりの武士に仰せければ、此の由を知らせけるに、思ひ設けたる由言ひて、都に止めける子のもとに、あはれなる文書きて、預けけり。既に斬られける時の頌とぞ聞き侍りし。

四大本主無く五蘊本来空

頭(かしら)をもつて白刃に傾くれば但夏風を鑚るが如し

いとあはれにぞ侍りける。

俊基も同じやうにぞ聞こえし。かくのみ、皆様々に罪にあたり、遠き世界に放ち捨てらるる、各思ひ歎け共、筆にも及び難し。大塔の尊雲法親王ばかりは、虎の口を逃れたる御様にて、此処彼処さすらへ御座しますも、安き空無く、いかで過ぐし果つべき御身ならんと、心苦しく見えたり。

隠岐の小島には、月日ふる儘に、いと忍びがたう思さるる事のみぞ数そひける。いかばかりの怠りにて、かかる憂目を見るらんと、前の世のみつらく思し知らるるにも、いかで其の事をも報ひてんと思して、うちたへて御忌ひにて、朝夕勤め行はせ給ふ。法の験をも試みがてらと、かつは思すなるべし。自ら護摩などもたかせ給ふに、いと頼もしき事、夢にも〔うつつにも〕多くなん有りける。徒然に思さるる折々は、廊めく所に立ち出でさせ給ひて、遙かに浦の方を御覧じやるに、海士の釣舟ほのかに見えて、秋の木の葉の浮かべる心地するも、あはれに、「いづくをさしてか」と思さる。

志す方を問はばや浪の上に浮きてただよふ海士の釣舟

「浦漕ぐ船のかぢをたえ」とうち誦して、御涙のこぼるるを、何と無くまぎらはし給へる、言ふ由無く心深げ也。ねび給ひにたれど、なまめかしうをかしき御様なれば、所については、ましてやんごとなきあたらしさを、自らいと忝しと思さる。

京には、十月になりて、御禊・大嘗会などの急ぎに、天の下物騒がしう、内蔵寮・内匠寮・うち殿・染殿、何くれの道々につけて、かしがましう響きあひたるも、かたつ方は涙の催し也。悠紀・主基の御屏風の歌、人々に召さる。書くべき者の無ければ、彼処へ参れる行房中将をや召し返されましなど、定め兼ね給ふを、まだきに伝へ聞こし召しければ、宵の間の静かなるに、御前に異に人も無く、此の朝臣ばかり候ひて、昔今の御物語宣ふついでに、「都に言ふなる事は、いかが有らんとすらん。さも有らば、いとこそ羨ましからめ」と、うち仰せられて、火をつくづくとながめさせ給へる御まみの、忍ぶとすれど、いたう時雨させ給へるを見奉るに、中将も心強からず、いと悲し。「いかばかりの道ならば、かかる御有様を見おき聞こえながら、憂き故郷にはいかで帰らん」と思ふも、え聞こえやらず。後夜の御行ひに、さながら御座しませば、潮風いと高う吹き来る、霰の音さへ堪え難く聞こえて、いみじう寒き夜の氷をうちたたきて、閼伽奉るも、山寺の小法師ばらなどの心地ぞするや。少将、此の中将など、しきみ折りて参れるも、いつ習ひてかと、あはれに御覧ぜらる。「今一度、いかで世を御心にまかするわざもがな」と、人の心のけぢめわかるるにつけても、深う思し勝る事のみ数知らず。

都には、十月二十五日御禊の行幸也。女御代には大炊御門大納言冬信の女出ださると聞こゆ。十一月十一日より五節始まる。前の御代には、談天門院の御忌月にて、とまりにしかば、さうざうしかりしに、珍しくて、若き上人共など、心異に思へり。隠岐の御門の御乳母なりし吉田の一品定房も、当代に仕へて、五節など奉る心の中ぞあはれに推し量らるる。宣房の大納言も、さるべき雑務の事などには、出で仕へけり。春宮の大夫は内大臣になりて、大嘗会の時も、高御座の行幸に、前行とかや〔何とかや〕言ふ事など勤め給ふ。右の大臣兼季も太政大臣になりて、清暑堂の御神楽に、琵琶仕りなど聞こえて、万めでたく有らまほしくて、年も暮れぬ。

誠や、此の卯月の頃より、年の名変はりしぞかし。正慶とぞ言ふなる。大塔の法親王・楠の木の正成などは、猶同じ心にて、世を傾けん謀をのみめぐらすべし。正成は、金剛山千早と言ふ所に、いかめしき城をこしらへて、えも言はず猛き物共多く篭り居たり。さて大塔の宮の令旨とて、国々の兵を語らひければ、世に怨みある物など、此処彼処に隠ろへばみてをる限りは、集まり集ひけり。宮は熊野にも御座しましけるが、大峰を伝ひて、忍び忍び吉野にも高野にも御座しまし通ひつつ、さりぬべき隈々にはよく紛れ物し給ひて、猛き御有様をのみあらはし給へば、いと賢き大将軍にていますべしとて、つき従ひ聞こゆる物、いと多く成り行きければ、六波羅にも東にも、いと安からぬ事と、もて騒ぎて、猶彼の千早を攻めくづすべしと言へば、兵など上り重なると聞こゆ。正成は、聖徳太子の御堂の前を軍の園にして、出であひ駆けひき、寄せつ返しつ、潮の満ち引く如くにて、年は只暮れに暮れ果てぬれば、春になりて、事共あるべしなど言ひしろふも、いとむつかしう、心ゆるび無き世の有様なり。

さても日野の大納言俊光と言ひしは、文保の頃、はじめて大納言になりにしを、いみじき事に時の人言ひ騒ぐめりしに、其の子、此の頃、院の執権にて資名と言ふ。又大納言になりぬ。めでたく度をさへ重ねぬる、いといみじかめり。前の御代にも、定房一品して、宣房大納言になされなどせしをば、かうざまにぞ人思ひ言ふめりし。

内には女御も未だ候ひ給はぬに、西園寺の故内大臣殿の姫君、広義門院の御傍に、今御方とかや聞こえて、かしづかれ給ふを、参らせ奉り給へれば、これや后がねと、世の人もまだきにめでたく思へれど、いかなるにか、御覚えいとあざやかならぬぞ口惜しき。三条の前の大納言公秀の女、三条とて候はるる御腹にぞ、宮々数多出で物し給ひぬる、遂の儲けの君にてこそ御座しますめれ。

増鏡 19 久米の佐良山 全訳

19 久米の佐良山 全訳

源中納言具行(北畠具行=源具行)も同じ頃東(鎌倉)に連れられて行かれることになりました。数多くの中にあってとりわけ重罪と聞こえましたが、何か特別の訳があったのでございましょうか。内裏に出仕されておりました勾当の内侍は、経朝の三位(世尊寺経朝)の娘でございました。若い頃より、帝(第九十六代後醍醐院)は親しみを持たれて、姫宮がございました、その後、この中納言(北畠具行)がまだいまだ下臈([身分が低い者])であった時より下されて、長年、二つとなき者に思われて過ごされておりましたが、様々に付けて浅ましい世が、ほかにございましたでしょうか。日に添えて悲しみに沈みながらも、同じ都にあると聞くほどは、吹く風の便りに、心を慰めておられましたが、遂に東国に下ることになったと、人の噂を聞くに付けても、思い設けたこととはいえ、今になって聞く心地は、申しようもないものでございました。この春、君(第九十六代後醍醐院)が都を離れられて、尽きることがないと思われた涙でしたが、まだ残っていたのかと思われるほどに、さらに流れ出るのでございました。中納言(北畠具行)は、「どうしてこのわたしが」と悔しくも見苦しくも、心の内は、千々に砕かれておりましたが、女々しく思われたくないと、気にせぬ風に歌を作っては、心を鎮めておりました。去年の冬頃、多くの歌を詠まれましたが、

命を永らえて、我が身はむなしくなろうとしている。初霜にさえ濡れたことのない世を経て来たというのに。

今はどうなるとも知れぬ憂き身となったが、同じ世にいたというのに、わたしのことを心配する人もいないとは。

佐々木佐渡判官入道(佐々木道誉)が具行(北畠具行)に付き添って東国に下ったのでございます。逢坂の関(現滋賀県大津市にあった関)で具行は、

再び帰ることのない旅ならば、この逢坂の関を通るのも、今が限りぞ。

柏原(現滋賀県米原市)という所にしばらく留まって、預かり(罪人などを預かって監視したり世話をしたりする者)の入道(道誉)は、まず東国に使いを遣って返事を待つことにしました。その頃、具行は道誉と物語などを親密に交わして、「何事も前世の報いを受けるものよ。この身ひとつのことではないのだから、仕方のないことである。今こうして剛の家(武家)に生まれて、弓矢を取ることになったことを、残念に思う」などと、直接申すことはなけれどほのめかして、思い切れない様子でございました。

具行(北畠具行)は後醍醐院(第九十六代天皇)の供として隠岐までお見送りした人でしたので、道中の事などを話して、「畏れ多くも悲しいことでした。まして、朝夕近く仕え馴れた女房たちの心は、とても申せるものではありません。何事も昔ほどに、めでたくあられました、世が下り時衰えた世末には、余りある有様でございますれば、こういうこともあろうかと、せめて思うほかありません」などと、世の成り行きを、なるほどと思える様に言いなして、穏やかに申しました、罪人には過ぎたものでございましたが、お酒なども、所々で粗末なものではございましたが、用意して、

しばらくして、下っていた東国への使いが、戻ってきた表情は、芳しいものではありませんでしたが、具行から訊ねることはありませんでした。どのような沙汰があったのかと心配ながら、心弱く思われると思ってのことでした。いずれの島守となられた人も頼りにならず、誰しも千年の寿命を持つ松ではなく、心尽くし([悲しみ悩むこと])ばかりと悟りました。遂に逃れることのできない道ならば、どのように思ったところで同じ事、その際に心が乱さず、たとえ厳寒の地にさえ流されようともと思うものの、やはり都の方が恋しく悲しくて、あれやこれやと悩むことも多くなったのでございます。

何事につけて、様子を見るに、具行(北畠具行)は余命長くないことを悟りました。預かり([罪人などを預かって監視したり世話をしたりする者])がそれとなくほのめかすのも、情けがあるものと思われて、同じことならばと思い、次の日「頭を下ろして出家したい」と申せば、預かり(佐々木道誉)は「哀れなことです。東の意向が気になりますが、よろしいでしょう」と、許しました。具行が出家したのは、元弘二年(1332)六月十九日のことでございました。具行は今日までの命だろうと、感じたのでございます。思われていたことではございましたが、例のないほどの報いが、浅いものとは思えなかったのでございます。

我がはかない命が露のように消えようとしていることを知る。それでも東国が滅びる様を見ることができないことを残念に思う。

なおも、思うところがあったのでしょう、恨み言を申すほかございませんでした。源中納言具行(北畠具行)はその日の夕方、ついにそこ(中山道六十番目の宿場、柏原宿。現滋賀県米原市)で斬られました。今際の際までも思うところはございましたでしょうが、人(佐々木佐渡判官=佐々木導誉)を恨むことなく、立派に最期を迎えたのでございました。内侍(勾当内侍。世尊寺経朝娘)はこれを聞いて、どれほど悲しまれたことでしょう。やがて様を変えて、近江国の高島(現滋賀県高島市)と申すあたりに、昔より所縁の者たちが修行をしながら住んでいる寺がございましたので、そこに入られたのでございます(現滋賀県大津市にある野神神社に勾当内侍の墓が残っているらしい)。

増鏡 20 月草の花

20 月草の花

彼の島には、春来ても、猶浦風さえて波あらく、渚の氷も解け難き世の気色に、いとど思し結ぼるる事つきせず。かすかに心細き御住居に、年さへ隔たりぬるよと、あさましく思さる。候ふ人々も、しばしこそあれ、いみじく屈じにたり。今年は正慶二年と言ふ。閏二月有り。後の二月の初めつ方より、取りわきて密教の秘法を試みさせ給へば、夜も大殿ごもらぬ日数へて、さすがに、いたう困じ給ひにけり。心ならずまどろませ給へる暁がた、夢うつつともわかぬ程に、後宇多院、有りしながらの御面影さやかに見え給ひて、聞こえ知らせ給ふ事多かりけり。うち驚きて、夢なりけりと、思す程、言はん方無く名残悲し。御涙もせきあへず、「さめざらましを」と思すも甲斐無し。源氏の大将、須磨の浦にて、父御門見奉りけん夢の心地し給ふも、いとあはれに頼もしう、いよいよ御心強さ勝りて、彼の新発意が御迎へのやうなる釣舟も、便り出で来なんやと、待たるる心地し給ふに、大塔の宮よりも、海人の便りにつけて、聞こえ給ふ事絶えず。

都にも猶世の中静まり兼ねたる様に聞こゆれば、万に思しなぐさめて、関守のうち寝る隙をのみうかがい給ふに、しかるべき時の至れるにや、御垣守に候ふ兵共も、御気色をほの心得て、靡き仕らんと思ふ心つきにければ、さるべき限り語らひ合はせて、同じ月の二十四日の曙に、いみじくたばかりて、隠ろへ率て奉る。いと怪しげなる海士の釣舟の様に見せて、夜深き空の暗き紛れに押し出だす。折しも、霧いみじう降りて、行先も見えず。いかさまならんとあやうけれど、御心を静めて念じ給ふに、思ふ方の風さへ吹きすすみて、其の日の申の時に、出雲国に著かせ給ひぬ。ここにてぞ、人々心地鎮めける。同じ二十五日、伯耆の国稲津の浦と言ふ所へ移らせ給へり。此の国に、名和の又太郎長年と言ひて、怪しき民なれど、いと猛に富めるが、類広く、心もさかさかしく、むねむねしき物有り。彼がもとへ宣旨を遣はしたるに、いと忝しと思ひて、取りあへず、五百余騎の勢ひにて、御迎へに参れり。又の日、賀茂の社と言ふ所に立ち入らせ給ふ。都の御社思し出でられて、いと頼もし。それより船上寺と言ふ所へ御座しまさせて、九重の宮になずらふ。これよりぞ、国々の兵共に、御敵を滅ぼすべき由の宣旨遣はしける。比叡の山へも上せられけり。

かくて、隠岐には、出でさせ給ひにし昼つ方より騒ぎあひて、隠岐の前の守追いて参る由聞こゆれば、いとむくつけく思されつれど、ここにも其の心して、いみじう戦いければ、引き返しにけり。京にも東にも、驚き騒ぐ様思ひやるべし。正成が城の囲みに、そこらの武士共、彼処に集ひをるに、かかる事さへ添ひにたれば、いよいよ東よりも上り集ふめり。

三月にもなりぬ。十日余りの程、俄に世の中いみじう罵る。何ぞと聞けば、播磨の国より、赤松の某入道円心とかや言ふ物、先帝の勅に従ひて攻め来るなりとて、都の中あわて惑ふ。例の六波羅へ行幸なり、両院も御幸とて、上下立ち騒ぐ。馬車走り違ひ、武士共のうち込み罵りたる様、いと恐ろし。然れど六波羅の軍強くて、其の夜は、彼の物共引き返しぬとて、少し静まれるやうなれど、かやうに言ひ立ちぬれば、猶心ゆるび無きにや、其の儘院も御門も御座しませば、春宮も離れ給へる、よろしからぬ事とて、二十六日六波羅へ行啓なる。内の大臣御車に参り給ふ。傅は久我の右の大臣にいますれど、大方の儀式ばかりにて、万、此の内大臣、御後見仕り給へば、未だきびはなる御程を後ろめたがりて、宿直にもやがて候ひ給ふ。御修法の為に、法親王達も候はせ給へり。ここも彼処も軍とのみ聞こえて、日数ふるに、院よりの仰せとて、上達部・殿上人までも、程々に従ひて兵をめせば、弓ひく道もおぼおぼしき若侍などをさへぞ奉りける。げに臂も折りぬべき世の中也。かやうに言ひしろふ程に、三月も暮れぬ。

四月十日余り、又東より武士多く上る中に、一昨年笠置へ向かいたりし足利の治部の大輔源高氏上れり。院にも頼もしく聞こし召して、彼の伯耆の船上へ向かふべき由、院宣賜はせけり。東を立ちし時も、後ろめたく二心あるまじき由、おろかならず誓言文を書きてけれども、底の心やいかが有らむ、とかく聞こゆる筋も有りけり。此の高氏は、古の頼義の朝臣の名残なりければ、もとのねざしはやむごとなき武士なれど、承久より此の方、頭差し出だす源氏も無くて、埋もれ過ぐしながら、類広く勢ひ四方に満ちて、国々に心寄せの物多かれば、かやうに国の危ふき折を得て、思ひ立つ道もや有らんなど、したにささめくもしるくぞ見えし。

伯耆の国へ向かふべしと言ひなして、先づ西山大原わたりに一泊りして、五月七日、ほのぼのと明くる程より、大宮の木戸共を押し開きて、二条よりしも、七条の大路を東ざまに、七手に分かれて、旗を差し続けて、六波羅をさして雲霞の如くたなびき入るに、更に面を向ふる物無し。此の治部の大輔、早うより先帝の勅を承りてければ、逆様に都を滅ぼさむとする也けり。時つくるとかや言ふ声は、雷の落ちかかるやうに、地の底も響き、梵天の宮の中も聞き驚き給ふらんと思ふばかり、とよみあひたる様、来し方行く先くれて、物覚ゆる人も無し。御門・春宮・院の上・宮達など、まして一人さかしきも御座しまさず。糸竹の調べをのみ聞こし召しならいたる御心共に、珍かにうとましければ、只あきれ給へり。武士共半ばを分けて、金剛山へ向かひたれば、さならぬ残り、都にある限りは戦ひをなす。今を限りの軍なれば、手を尽くして罵る程、学びやらんかた無し。雨のあしよりもしげく走り違ふ矢にあたりて、目の前に死を受くる物数を知らず。一日一夜いりもみとよみあかすに、両六波羅にも、残る手無く防きつれど、遂に陣の内破られて、今はかくと見えたり。日頃候ひ篭り給へる上達部・殿上人なども、今日と思ひ設けたらんだに、君の御座しまさん限りは、いかでまかでも散らん。まして、予てよりかく構へけるをも知ろし召さで、昨日かとよ、当代の宣旨を賜はりし物の、かくうら返りぬれば、誰か思ひよらん。すべて上下と無く一つに立ち込みて、あわて惑ひたり。

日暮らし、八幡・山崎・竹田・宇治・勢多・深草・法性寺など、燃え上がる煙共、四方の空に満ち満ちて、日の光も見えず。墨をすりたるやうにて暮れぬ。ここにも火かかりて、いとあさましければ、いみじう固めたりつる後ろの陣を辛うじて破りて、それより免れ出でさせ給ふ御心地共、夢路をたどるやうなり。内の上も、いと怪しき御姿にことさらやつし奉る、いとまがまがし。両院も、御手を取りかはすと言ふばかりにて、人に助けられつつ出でさせ給ふ。上達部・大臣達は、袴のそば取りて、冠などの落ち行くも知らず、空を歩む心地して、あるは川原を西へ東へ、様々散り散りになり給ふ。両六波羅仲時・時益、東をさして東へと心がけて落ちければ、御幸も同じ様になし奉りけり。西園寺の大納言公宗は、北山へ御座しにけり。右衛門督経顕・左兵衛督隆蔭・資明の宰相などは、御幸の御共に参らる。按察の大納言資名は、足を損なひて、東山わたりにとまりぬなど言ひしは、いかが有りけん。内大臣殿は、御子の別当通冬を伴ひ給ひて、八日の曙の未だ暗き程に、我が御家の三条坊門万里小路に御座しまし著きたるに、歩み入り給ふ程も心もと無くて、北の方、門へ走り出でて、平かに帰り御座したると思ふ嬉しさに、急ぎて見れば、大臣は御直衣に指貫引き上げ給へば、しるく見え給ふ。別当は、道の程のわりなきに、折烏帽子に布直垂と言ふ物うち着て、細やかに若き人の、御前共に紛れたれば、とみにも見えず。火などもわざとなれば、暗き程のあやめ別れぬに、早ういかにもなり給へるにやと、心地惑ひて、「御方はいかにいかに」と、声もわななきて聞こえける、いと理に、いみじうあはれ也。

さて御幸は近江の国に御座します程に、伊吹と言ふ辺にて、某の宮とかや、法師にていましけるが、先帝の御心寄せにて、かやうの方もほの心得侍りけるにや、待ち受けて矢を放ち給ふ。又京よりも追手かかるなど聞こえければ、六波羅の北と言ひし仲時、内・春宮・両院具し奉り、番馬と言ふ所の山の内に入れ奉りぬ。手の物共も猶残りて従ひ付きけれども、戦ひも適はずや有りけん、遂に此の山にて腹切りにけり。同じき南時益と言ひしは、これまでも参らず、守山の辺にて失せにけりとぞ聞こえし。あや無くいみじき事の様也。御所々の御供には、俊実の大納言・経顕の中納言・頼定の中納言・資名の大納言・資明の宰相・隆蔭などぞ残り候ひける。俊実・資名・頼定などは、やがてそこにて髻切りてけり。一院は、帰り入らせ給ふ。御門に御文を奉り給ひて、「面々に御出家あるべし」などまで申させけれども、思ひもよらぬ由を、かたく申させ給ひけるとかやとぞ聞こえし。

伯耆の御所へは、人々参り集ふ。上達部・殿上人数知らず。さる程に、東にも予て心得けるにや、尊氏の末の一族なる新田の小四郎義貞と言ふ物、今の尊氏の子四になりけるを大将軍にして、武蔵国より軍を起こしけり。此の頃の東の将軍は、守邦の親王にて御座します。御後見仕る高時入道・貞顕入道・城介入道円明・長崎入道円喜など言ふ物共、驚き騒ぎて、高時の入道の弟に四郎左近大夫泰家と言ひし、今は入道したるをぞ、大将に下しける。五月十四日、鎌倉を立ちて向かふ。其の勢十万余騎、高時入道の一族、附き従ふ物そこら満ち広ごりて、鎌倉始まりし頼朝の世、時政より今に至るまで、多くの年月をつめり。僅かなる新田など言ふ国人に、容易くいかでかは滅ぼさるべきと覚えしに、程無く十五日に、敵既に鎌倉に近づく由聞こえて、家々を毀ち騒ぎ罵る。世の既に滅するにやと覚えしとぞ、人は語り侍りし。四郎左近大夫入道、軍にうち負けけるにや、従ふ武士共、残り無く新田が方へ附きぬれば、えさらぬ物共ばかり五、六百騎にて、十六日の夜に入りて、鎌倉へ引きかへる。僅かに中一日にて、かくなりぬる事、夢かとぞ覚えし。かくて日々の軍にうち負けければ、同じ二十二日、高時以下、腹切りて失せにけり。

さて都には、伯耆よりの還御とて、世の中ひしめく。先づ東寺へ入らせ給ひて、事共定めらる。二条の前の大臣道平召し有りて参り給へり。こたみ内裏へ入らせ給ふべき儀、重祚などにてあるべけれども、璽の箱を御身に添へられたれば、只遠き行幸の還御の儀式にてあるべき由定めらる。関白を置かるまじければ、二条の大臣、氏の長者を宣下せられて、都の事、管領あるべき由、承る。天の下只此の御計らひなるべしとて、此の一つあたり喜びあへり。六月六日、東寺より、常の行幸の様にて、内裏へぞ入らせ給ひける。めでたしとも、言の葉無し。「去年の春いみじかりしはや」と思ひ出づるも、たとしへ無く、今も御供の武士共、有りしよりは、猶、幾重とも無くうち囲み奉れるは、いとむくつけき様なれど、こたみは、うとましくも見えず。頼もしくて、めでたき御まもりかなと覚ゆるも、うちつけ目なるべし。世の習ひ、時につけて移る心なれば、皆さぞあるらし。

先陣は二条富の小路の内裏に著かせ給ひぬれど、後陣の兵は、猶、東寺の門まで続きひかへたりしとぞ聞こえしは、誠にや有りけん。正成も仕れり。彼の那波の又太郎は、伯耆の守になりて、それも衛府の物共にうちまじりたる、珍しく様変はりて、ゆすりみちたる世の気色、「かくも有りけるを、などあさましくは歎かせ奉りたりけるにか」と、めでたきにつけても、猶前の世のみゆかし。車などたち続きたる様、有りし御下りにはこよなく勝れり。物見ける人の中に、

昔だに沈むうらみを隠岐の海に波立ち返る今ぞ賢き

昔の事など思ひあはすにや有りけん。

金剛山なりし東の武士共も、さながら頭を垂れて参り競ふ様、漢の初めもかくやと見えたり。礼成門院も又中宮と聞こえさす。六日の夜、やがて内裏へ入らせ給ふ。いにし年御髪おろしにき。御悩み猶怠らねば、いつしか五壇の御修法始めらる。八日より議定行はせ給ふ。昔の人々残り無く参り集ふ。

十三日、大塔の法親王、都に入り給ふ。此の月頃に、御髪おほして、えも言はず清らかなる男になり給へり。唐の赤地の錦の御鎧直垂と言ふ物奉りて、御馬にて渡り給へば、御供にゆゆしげなる武士共うち囲みて、御門の御供なりしにも、程々劣るまじかめなり。すみやかに将軍の宣旨を冠り給ひぬ。流されし人々、程無く競ひ上る様、枯れにし木草の春にあへる心地す。其の中に、季房の宰相入道のみぞ、預かりなりける物の、情け無き心ばへや有りけん、東のひしめきの紛れに失いてければ、兄の中納言藤房は返り上れるにつけても、父の大納言、母の尼上など歎きつきせず、胸あかぬ心地してけり。四条の中納言隆資と言ふも、頭おろしたりし、又髪おほしぬ。もとより塵を出づるには有らず、敵の為に身を隠さんとて、かりそめに剃りしばかりなれば、今はた更に眉を開く時になりて、男になれらん、何のはばかりか有らむとぞ、同じ心なるどち言ひ合はせける。天台座主にていませし法親王だにかく御座しませば、まいてとぞ。誰にか有りけん、其の頃聞きし。

すみぞめの色をもかへつ月草の移れば変はる花のころもに



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