早稲田大学 教育学部 古文 対策解答解説 2018

早稲田大学 教育学部 古文 対策解答解説 2018

早稲田大学 教育学部 古文 対策解答解説 2018

早稲田大学 教育学部 古文 対策解答解説 2018

早稲田大学教育学部の古文の過去問の解答・解説・全訳です。プロ家庭教師が受験生の早稲田大学入学試験対策のために出題傾向を分析・解説します。

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【大学】:早稲田大学
【学部】:教育学部
【年度】:2018年

【大問】: 3
【表題】:増鏡
【作者】: ー
【出題】:語彙文法+人物指摘+文章理解+古文翻訳+文学史+和歌解釈
【解答】:記号選択+適語補充
【対策】:増鏡は、歴史物語です。成立は室町時代(南北朝)と推定されます。20巻からなり、寿永3年(1183年)の後鳥羽天皇の即位から、元弘3年(1333年)の後醍醐天皇が隠岐に流され京都に戻るまでの、15代150年の事跡を編年体で述べています。本文は19巻の「久米の佐良山」が出典です。歴史物語の大鏡・今鏡・水鏡・増鏡は、合わせて四鏡 (よんかがみ) と呼ばれ、隠者が狂言回しとなる形式で描かれています。四鏡の鏡は「歴史」を意味しており、文学史の問題でも頻出です。年代の早い順番で大今水増(だいこんみずまし)と暗記します。
【用語】: 源中納言具行 後醍醐天皇 元弘の変 南北朝
【目安時間】: 15分

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早稲田教育学部 2018問題3

源中納言具行ともゆきも同じ頃あづまて行く。数多あまたの中に取り分きて重かるべく聞こゆるは、様異なる罪に当たるべきにやあらん。内にさぶらひし勾当こうたうの内侍は、経朝つねとも三位さんみの娘なりき。早うより、御門睦ましく思し召して、姫宮などうで奉りしを、その後、この中納言いまだ下臈げらふなりし時より許し賜はせて、この年来、二つなき者に思ひ交はして過ぐしつるに、かく様々に付けて浅ましき世を、並べてにやは。日に添へて歎きしづみながらも、同じ都にありと聞くほどは、吹き交ふ風の便りにも、さすが言問ふ慰めもありつるを、つひにさるべき事とは、人のうへを見聞くに付けても、思ひまうけながら、なほ今はと聞く心地、例へん方なし。この春、君の都別れ給ひしに、そこら尽きぬと思ひし涙も、げに残りありけりと、今一入ひとしほ身も流れ出でぬべく思ゆ。中納言は、「ものにもがなや」と悔しうはしたなき事のみぞ、底には、千々ちぢに砕くめれど、女々しう人に見えじと思ひかへしつつ、つれなく作りて、思ひ入りぬる様なり。去年こぞの冬頃、数多あまた聞こえしに、

ながらへて 身は徒らに 初霜の おくかた知らぬ 世にもふるかな

今ははや いかになりぬる 憂き身ぞと 同じ世にだに とふ人も無し

佐々木の佐渡の判官入道伴ひてぞ下りける。逢坂あふさかの関にて、

返るべき 時しなければ これやこの 行くを限りの 逢坂の関

柏原かしはばらと言ふ所にしばし休らいて、あづかりの入道、先づあづまへ人を遣はしたるかへり事待つなるべし。そのほど、物語など情け情けしううち言ひ交はして、「何事もしかるべきさきの世の報ひに侍るべし。御身一つにしもあらぬ身なれば、まして甲斐かひなきわざにこそ。かくたけいへまれて、弓矢取るわざにかかづらひ侍るのみ、憂きものに侍りけれ」など、まほならねどほのめかすに、心得果てられぬ。

隠岐の御送りをも仕りし者なれば、御道すがらの事など語り出でて、「かたじけなういみじうも侍りしかな。まして、朝夕あさゆふ近う仕り馴れ給ひけん御心ども、さながらなん推し量り聞こえさせ侍りし。何事も昔に及び、めでたうおはしましし御事にて、世下り時衰へぬる末には、余りたる御有様にや、かくもおはしますらんとさへ、せめては思ひ給へ寄らるる」など、大方おほかたの世に付けても、げにと思ゆる節々くはへて、のどやかに言ひをる気配けはひ、おのがほどには過ぎにたる、御酒みきなど、所に付けてことそぎ粗々あらあらしけれど、さる方にしなして、良きほどにて、下しつるあづまよりの使ひ、かへり来たる気色、るけれど、ことさらに言ひ出づる事もなし。いかならむと胸うちつぶれて思ゆるも、かつはいと心弱しかし。いづくの島守となれらん人もあぢきなく、たれ千年ちとせの松ならぬ世に、中々心尽くしこそ勝らめ。つひに逃るまじき道は、とてもかくても同じ事、そのきはの心乱れなくだにあらば、すずしき方にも赴きなんと思ふ心は心として、都の方も恋しうあはれに、さすがなる事ぞおほかりける。

よろづにつけて、事の気色を見るに、行くすゑとほくはある[ A ]めりと悟りぬ。あづかりがほのめかししも、情けありて思ひ知らすれば、同じうはと思ひて、またの日「かしら下ろさんとなん思ふ」と言へば、「いとあはれなる事にこそ。あづまの聞こえやいかがと思ひ給ふれど、なんでう事かは」とて、許しつ。かく言ふは、六月みなづきの十九日なり。かの事は今日けふなんめりと、気色見知りぬ。思ひまうけながらも、なほためしなかりける報ひのほど、いかが浅くは思えん。

消えかかる 露の命の 果ては見つ さても[ B ]の 末ぞゆかしき

X なほも、思ふ心のあるなんめりと、憎き口付きなりかし。その日の暮れつ方、つひにそこにて失はれにけり。今際いまはきはも、さこそ心の内はありけめど、いたく人わろうもなく、あるべき事とも思へる様になん見えける。内侍の待ち聞く心地、いかばかりかはありけん。やがて様変へて、近江あふみの国高島と言ふわたりに、昔の所縁の人々たふとく行ひて住む寺にぞ、立ち入りぬる。




問十四 傍線部1「ゆるし給はせ」 2「あり」 3「聞く」 の主語は何か、それぞれ最も適切なものを次の中から一つ選び、解答欄にマークせよ。

イ 源中納言具行
口 つねすけの三位
ハ 勾当の内待
ニ 姫宮
ホ 御門


問十五 傍線部4の和歌「ながらへて身はいたづらにはつ箱の置くかた知らぬ世にもあるかな」には掛詞が用いられている。掛詞の部分を抜き出し、平仮名で記述解答用紙の所定の欄に記入せよ(「ふる」は除く)。


問十六 傍線部5「まほならねど、ほのめかすに」について、何をほのめかしたのか。最も適切なものを次の中から一つ選び、解答欄にマークせよ。

イ 帝が隠岐に流罪にされたこと。
ロ 帝が近く死罪になるであろうこと。
ハ 佐々木が出家するつもりであること。
ニ 具行が近く流罪になるであろうこと。
ホ 具行が近く死罪になるであろうこと。


問十七 傍線部6「あまりたる御有様」とは何についてそう言っているのか。最も適切なものを次の中から一つ選び、解答欄にマークせよ。

イ 帝のすぐれた器量
ロ 具行の過酷な運命
ハ 具行の帝への深い愛
二 帝へのひどすぎる処罰
ホ 佐々木佐渡判官入道の奉公


問十八 傍線部7「つひに逃るまじき道は、とてもかくても同じ事」の解釈として最も適切なものを次の中から 一つ選び、解答欄にマークせよ。

イ 結局処刑されるのだから、何を訴えても意味もないことなので
ロ 結局ここから逃れる方法は一つだけで、あれこれ迷う必要はないので
ハ 結局人は死ななければならないという点では、どうであっても同じことで
二 結局命を奪うなどという非道は許されるはずもないから、何があっても同じことなので
ホ 結局この行きたくもない道を鎌倉まで行かざるをえないのだから、あれこれ考えても意味がないことなので


問十九 空欄[ A ]に入るように助動詞「まじ」を適切に活用させて、記述解答用紙の所定の欄に記入せよ。


問二十 空欄[ B ]に入る語として最も適切な語を、傍線部X「なほも思ふ心のあるなめり、とにくき口つきなりかし」を参考に、本文中から抜き出し、記述解答用紙の所定の欄に記入せよ。


問二一 傍線部8「いたく人わろうもなく」の解釈として最も適切なものを次の中から一つ選び、解答欄にマークせよ。

イ それほど恨みを抱くこともなく
ロ ひどく見苦しいということもなく
ハ 大変悪い性格というわけではなく
ニ まったく恥じるべきことではなく
ホ 決して人から非難されることもなく


問二十二 「増鏡」と同様、元弘の乱を描いた軍記物語として最も適切なものを次の中から一つ選び、解答欄にマークせよ。

イ 太閤記
口 将門記
ハ 太平記
二 平家物語
ホ 保元物語

早稲田教育学部 2018問題3 解答

解答

問十四 1ホ 2イ 3ハ
問十五 はつ
問十六 ホ
間十七 イ
間十八 ホ
問十九 まじかる
問二十 東
問二一 ロ
問二二 ハ

早稲田教育学部 2018問題3 全訳

全訳

源中納言具行(北畠具行=源具行)も同じ頃東(鎌倉)に連れられて行かれることになりました。数多くの中にあってとりわけ重罪と聞こえましたが、何か特別の訳があったのでございましょうか。内裏に出仕されておりました勾当の内侍は、経朝の三位(世尊寺経朝)の娘でございました。若い頃より、帝(第九十六代後醍醐院)は親しみを持たれて、姫宮がございました、その後、この中納言(北畠具行)がまだいまだ下臈([身分が低い者])であった時より下されて、長年、二つとなき者に思われて過ごされておりましたが、様々に付けて浅ましい世が、ほかにございましたでしょうか。日に添えて悲しみに沈みながらも、同じ都にあると聞くほどは、吹く風の便りに、心を慰めておられましたが、遂に東国に下ることになったと、人の噂を聞くに付けても、思い設けたこととはいえ、今になって聞く心地は、申しようもないものでございました。この春、君(第九十六代後醍醐院)が都を離れられて、尽きることがないと思われた涙でしたが、まだ残っていたのかと思われるほどに、さらに流れ出るのでございました。中納言(北畠具行)は、「どうしてこのわたしが」と悔しくも見苦しくも、心の内は、千々に砕かれておりましたが、女々しく思われたくないと、気にせぬ風に歌を作っては、心を鎮めておりました。去年の冬頃、多くの歌を詠まれましたが、

命を永らえて、我が身はむなしくなろうとしている。初霜にさえ濡れたことのない世を経て来たというのに。

今はどうなるとも知れぬ憂き身となったが、同じ世にいたというのに、わたしのことを心配する人もいないとは。

佐々木佐渡判官入道(佐々木道誉)が具行(北畠具行)に付き添って東国に下ったのでございます。逢坂の関(現滋賀県大津市にあった関)で具行は、

再び帰ることのない旅ならば、この逢坂の関を通るのも、今が限りぞ。

柏原(現滋賀県米原市)という所にしばらく留まって、預かり(罪人などを預かって監視したり世話をしたりする者)の入道(道誉)は、まず東国に使いを遣って返事を待つことにしました。その頃、具行は道誉と物語などを親密に交わして、「何事も前世の報いを受けるものよ。この身ひとつのことではないのだから、仕方のないことである。今こうして剛の家(武家)に生まれて、弓矢を取ることになったことを、残念に思う」などと、直接申すことはなけれどほのめかして、思い切れない様子でございました。

具行(北畠具行)は後醍醐院(第九十六代天皇)の供として隠岐までお見送りした人でしたので、道中の事などを話して、「畏れ多くも悲しいことでした。まして、朝夕近く仕え馴れた女房たちの心は、とても申せるものではありません。何事も昔ほどに、めでたくあられました、世が下り時衰えた世末には、余りある有様でございますれば、こういうこともあろうかと、せめて思うほかありません」などと、世の成り行きを、なるほどと思える様に言いなして、穏やかに申しました、罪人には過ぎたものでございましたが、お酒なども、所々で粗末なものではございましたが、用意して、

しばらくして、下っていた東国への使いが、戻ってきた表情は、芳しいものではありませんでしたが、具行から訊ねることはありませんでした。どのような沙汰があったのかと心配ながら、心弱く思われると思ってのことでした。いずれの島守となられた人も頼りにならず、誰しも千年の寿命を持つ松ではなく、心尽くし([悲しみ悩むこと])ばかりと悟りました。遂に逃れることのできない道ならば、どのように思ったところで同じ事、その際に心が乱さず、たとえ厳寒の地にさえ流されようともと思うものの、やはり都の方が恋しく悲しくて、あれやこれやと悩むことも多くなったのでございます。

何事につけて、様子を見るに、具行(北畠具行)は余命長くないことを悟りました。預かり([罪人などを預かって監視したり世話をしたりする者])がそれとなくほのめかすのも、情けがあるものと思われて、同じことならばと思い、次の日「頭を下ろして出家したい」と申せば、預かり(佐々木道誉)は「哀れなことです。東の意向が気になりますが、よろしいでしょう」と、許しました。具行が出家したのは、元弘二年(1332)六月十九日のことでございました。具行は今日までの命だろうと、感じたのでございます。思われていたことではございましたが、例のないほどの報いが、浅いものとは思えなかったのでございます。

我がはかない命が露のように消えようとしていることを知る。それでも東国が滅びる様を見ることができないことを残念に思う。

なおも、思うところがあったのでしょう、恨み言を申すほかございませんでした。源中納言具行(北畠具行)はその日の夕方、ついにそこ(中山道六十番目の宿場、柏原宿。現滋賀県米原市)で斬られました。今際の際までも思うところはございましたでしょうが、人(佐々木佐渡判官=佐々木導誉)を恨むことなく、立派に最期を迎えたのでございました。内侍(勾当内侍。世尊寺経朝娘)はこれを聞いて、どれほど悲しまれたことでしょう。やがて様を変えて、近江国の高島(現滋賀県高島市)と申すあたりに、昔より所縁の者たちが修行をしながら住んでいる寺がございましたので、そこに入られたのでございます(現滋賀県大津市にある野神神社に勾当内侍の墓が残っているらしい)。

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