夏目漱石 草枕
夏目漱石 草枕
【作品題名】:草枕
【だいめい】:くさまくら
【作品作者】:夏目漱石
【さくしゃ】:なつめそうせき
【作者生年】:1867
【作者没年】:1916
【出題頻度】:A
【文章種別】:文学文
【重要用語】:非人情 俳句 禅 詩歌 絵画 比叡山
【作品解説】:主人公の画工(絵描き)が非人情の世界を成就するまでを描く成長小説である。漢詩・俳句・禅の影響のもとに、主観と客観、自己と他者の関係を小説形式で描いた。
【作品題名】:草枕
【だいめい】:くさまくら
【作品作者】:夏目漱石
【さくしゃ】:なつめそうせき
【作者生年】:1867
【作者没年】:1916
【出題頻度】:A
【文章種別】:文学文
【重要用語】:非人情 俳句 禅 詩歌 絵画 比叡山
【作品解説】:主人公の画工(絵描き)が非人情の世界を成就するまでを描く成長小説である。漢詩・俳句・禅の影響のもとに、主観と客観、自己と他者の関係を小説形式で描いた。
住みにくさが
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒
越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、
住みにくき世から、住みにくき
世に住むこと二十年にして、住むに
立ち上がる時に向うを見ると、
土をならすだけならさほど
たちまち足の下で
春は眠くなる。猫は鼠を
たちまちシェレーの雲雀の詩を思い出して、口のうちで覚えたところだけ
We look before and after
And pine for what is not:
Our sincerest laughter
With some pain is fraught;
Our sweetest songs are those that tell of saddestt hought.
「前をみては、
なるほどいくら詩人が幸福でも、あの雲雀のように思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、わが喜びを歌う
しばらくは路が
詩人に
しかし苦しみのないのはなぜだろう。ただこの景色を一
恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。しかし自身がその
これがわかるためには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は
それすら、普通の芝居や小説では人情を
苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりは人の世につきものだ。余も三十年の間それを
うれしい事に東洋の
二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀にこの出世間的の詩味は大切である。惜しい事に今の詩を作る人も、詩を読む人もみんな、西洋人にかぶれているから、わざわざ
もちろん人間の
ただ、物は
しばらくこの
ここまで決心をした時、空があやしくなって来た。煮え切れない雲が、頭の上へ
路は
「ここらに休む所はないかね」
「もう十五丁行くと茶屋がありますよ。だいぶ
まだ十五丁かと、振り向いているうちに、馬子の姿は
「おい」と声を掛けたが返事がない。
「おい」とまた声をかける。土間の
返事がないから、無断でずっと
しばらくすると、奥の方から足音がして、
どうせ誰か出るだろうとは思っていた。
二三年前
「御婆さん、ここをちょっと借りたよ」
「はい、これは、いっこう存じませんで」
「だいぶ降ったね」
「あいにくな御天気で、さぞ御困りで御座んしょ。おおおおだいぶお
「そこをもう少し
「へえ、ただいま焚いて上げます。まあ御茶を一つ」
と立ち上がりながら、しっしっと
「まあ一つ」と婆さんはいつの
「御菓子を」と今度は鶏の踏みつけた
婆さんは
「閑静でいいね」
「へえ、御覧の通りの
「
「ええ毎日のように鳴きます。
「聞きたいな。ちっとも聞えないとなお聞きたい」
「あいにく
折りから、竈のうちが、ぱちぱちと鳴って、赤い火が
「さあ、
「ああ、
「いい具合に雨も晴れました。そら
余はまず天狗巌を
「御婆さん、丈夫そうだね」と
「はい。ありがたい事に達者で――針も持ちます、
この御婆さんに
「ここから
「はい、二十八丁と申します。
「込み合わなければ、少し
「いえ、戦争が始まりましてから、
「妙な事だね。それじゃ
「いえ、御頼みになればいつでも
「宿屋はたった一軒だったね」
「へえ、
「じゃ御客がなくても平気な訳だ」
「旦那は始めてで」
「いや、久しい以前ちょっと行った事がある」
会話はちょっと
春風や
と書いて見た。山を登ってから、馬には五六匹逢った。逢った五六匹は皆腹掛をかけて、鈴を鳴らしている。今の世の馬とは思われない。
やがて
と、今度は
「また誰ぞ来ました」と婆さんが
ただ
と次のページへ
「はい、今日は」と実物の馬子が店先に
「おや源さんか。また城下へ行くかい」
「何か買物があるなら頼まれて上げよ」
「そうさ、
「はい、貰ってきよ。一枚か。――
「ありがたい事に
「仕合せとも、御前。あの
「本当に御気の毒な。あんな器量を持って。近頃はちっとは具合がいいかい」
「なあに、相変らずさ」
「困るなあ」と婆さんが大きな息をつく。
「困るよう」と源さんが馬の鼻を
「コーラッ」と
御婆さんが云う。「源さん、わたしゃ、お嫁入りのときの姿が、まだ
「そうさ、船ではなかった。馬であった。やはりここで休んで行ったな、
「あい、その桜の下で嬢様の馬がとまったとき、桜の花がほろほろと落ちて、せっかくの島田に
余はまた写生帖をあける。この景色は
花の頃を越えてかしこし馬に嫁
と書きつける。不思議な事には
「それじゃ、まあ御免」と源さんが
「帰りにまた
「はい、少し骨が折れよ」と源さんは
「あれは
「はい、那古井の源兵衛で御座んす」
「あの男がどこぞの嫁さんを馬へ乗せて、
「志保田の嬢様が城下へ
鏡に
「さぞ美くしかったろう。見にくればよかった」
「ハハハ今でも御覧になれます。
「はあ、今では里にいるのかい。やはり
「たのんで御覧なされ。着て見せましょ」
余はまさかと思ったが、婆さんの様子は存外
「嬢様と
「顔がかい」
「いいえ。身の成り行きがで御座んす」
「へえ、その長良の乙女と云うのは何者かい」
「
「へえ」
「ところがその娘に二人の男が一度に
「なるほど」
「ささだ男に
あきづけばをばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも
と云う歌を
余はこんな山里へ来て、こんな婆さんから、こんな
「これから五丁東へ
余は心のうちに是非見て行こうと決心した。婆さんは、そのあとを語りつづける。
「那古井の嬢様にも二人の男が
「はあ、御嬢さんはどっちへ靡いたかい」
「御自身は是非京都の方へと御望みなさったのを、そこには色々な
「めでたく、
「ところが――
これからさきを聞くと、せっかくの
「御婆さん、那古井へは一筋道だね」と十銭銀貨を一枚
「
宿へ着いたのは夜の八時頃であったから、家の
不思議に思ったのは、宿へ着いた時の取次も、
給仕の時には、近頃は客がないので、ほかの座敷は掃除がしてないから、
生れてから、こんな経験はただ一度しかない。昔し
その晩は例の竹が、枕元で
その
横を向く。
すやすやと寝入る。夢に。
そこで眼が
気のせいか、誰か小声で歌をうたってるような気がする。夢のなかの歌が、この世へ抜け出したのか、あるいはこの世の声が遠き夢の国へ、うつつながらに
初めのうちは
今までは
障子をあけた時にはそんな事には気がつかなかった。あの声はと、耳の走る見当を見破ると――向うにいた。花ならば
この
余が今見た影法師も、ただそれきりの現象とすれば、
こんな時にどうすれば詩的な
これが
「
この調子なら大丈夫と
春の星を落して
春の夜の雲に濡らすや洗ひ髪
春や
うた折々月下の春ををちこちす
思ひ切つて更け行く春の独りかな
などと、試みているうち、いつしか、うとうと眠くなる。
余が
まぼろしは
いつまで人と馬の
「御早う。
戸を開けるのと、この言葉とはほとんど同時にきた。人のいるさえ予期しておらぬ
「さ、
と
昔から小説家は必ず主人公の
ところがこの女の表情を見ると、余はいずれとも判断に迷った。口は一文字を結んで
元来は
それだから
「ありがとう」と繰り返しながら、ちょっと
「ほほほほ御部屋は
と云うや
ぽかんと部屋へ帰ると、なるほど
「
右側の
山が尽きて、岡となり、岡が尽きて、幅三丁ほどの
今度は左り側の窓をあける。自然と
入口の
家は随分広いが、向う二階の一間と、余が欄干に添うて、右へ折れた一間のほかは、
時計は十二時近くなったが
やがて、廊下に足音がして、段々下から誰か
「遅くなりました」と
「
「いいや、今に食う」と云ったが実際食うのは惜しい気がした。ターナーがある
「うちに若い女の人がいるだろう」と椀を置きながら、質問をかけた。
「へえ」
「ありゃ何だい」
「若い奥様でござんす」
「あのほかにまだ年寄の奥様がいるのかい」
「去年
「旦那さんは」
「おります。旦那さんの娘さんでござんす」
「あの若い人がかい」
「へえ」
「御客はいるかい」
「おりません」
「わたし一人かい」
「へえ」
「若い奥さんは毎日何をしているかい」
「針仕事を……」
「それから」
「
これは意外であった。面白いからまた
「それから」と聞いて見た。
「御寺へ行きます」と
これはまた意外である。御寺と三味線は妙だ。
「御寺
「いいえ、
「和尚さんが三味線でも習うのかい」
「いいえ」
「じゃ何をしに行くのだい」
「
なあるほど、大徹と云うのはこの額を書いた男に相違ない。この句から察すると何でも
「この部屋は普段誰か
「普段は奥様がおります」
「それじゃ、
「へえ」
「それは御気の毒な事をした。それで大徹さんの所へ何をしに行くのだい」
「知りません」
「それから」
「何でござんす」
「それから、まだほかに何かするのだろう」
「それから、いろいろ……」
「いろいろって、どんな事を」
「知りません」
会話はこれで切れる。飯はようやく
余はまたごろりと寝ころんだ。たちまち心に浮んだのは、
Sadderthanisthemoon'slostlight,
Losterethekindlingofdawn,
Totravellersjourneyingon,
Theshuttingofthyfairfacefrommysight.
と云う句であった。もし余があの
MightIlookontheeindeath,
WithblissIwouldyieldmybreath.
と云う二句さえ、付け加えたかも知れぬ。幸い、普通ありふれた、恋とか愛とか云う
突然襖があいた。
「また寝ていらっしゃるか、
「今朝はありがとう」とまた礼を云った。考えると、
女は余が起き返ろうとする枕元へ、早くも坐って
「まあ寝ていらっしゃい。寝ていても話は出来ましょう」と、さも
「御退屈だろうと思って、御茶を入れに来ました」
「ありがとう」またありがとうが出た。菓子皿のなかを見ると、立派な
「うん、なかなか
「今しがた、源兵衛が買って帰りました。これならあなたに召し上がられるでしょう」
源兵衛は昨夕
「この青磁の形は大変いい。色も美事だ。ほとんど羊羹に対して
女はふふんと笑った。
「これは支那ですか」
「何ですか」と相手はまるで青磁を眼中に置いていない。
「どうも支那らしい」と皿を上げて底を
「そんなものが、御好きなら、見せましょうか」
「ええ、見せて下さい」
「父が
茶と聞いて少し
「御茶って、あの流儀のある茶ですかな」
「いいえ、流儀も何もありゃしません。
「そんなら、ついでに飲んでもいいですよ」
「ほほほほ。父は道具を人に見ていただくのが大好きなんですから……」
「
「年寄りだから、褒めてやれば、嬉しがりますよ」
「へえ、少しなら褒めて置きましょう」
「負けて、たくさん御褒めなさい」
「はははは、時にあなたの言葉は
「人間は田舎なんですか」
「人間は田舎の方がいいのです」
「それじゃ
「しかし東京にいた事がありましょう」
「ええ、いました、京都にもいました。渡りものですから、方々にいました」
「ここと都と、どっちがいいですか」
「同じ事ですわ」
「こう云う静かな所が、かえって気楽でしょう」
「気楽も、気楽でないも、世の中は気の持ちよう一つでどうでもなります。
「蚤も蚊もいない国へ行ったら、いいでしょう」
「そんな国があるなら、ここへ出して御覧なさい。さあ出してちょうだい」と女は
「御望みなら、出して上げましょう」と例の写生帖をとって、女が馬へ乗って、山桜を見ている心持ち――無論とっさの筆使いだから、
「さあ、この中へ
「まあ、
「わはははは」と笑う。
「
「ええ」
「
「ええ」
「あきづけば、をばなが上に置く露の、けぬべくもわは、おもほゆるかも」と説明もなく、女はすらりと節もつけずに歌だけ述べた。何のためか知らぬ。
「その歌はね、茶店で聞きましたよ」
「婆さんが教えましたか。あれはもと私のうちへ奉公したもので、私がまだ嫁に……」と云いかけて、これはと
「私がまだ若い時分でしたが、あれが来るたびに長良の話をして聞かせてやりました。うただけはなかなか覚えなかったのですが、何遍も
「どうれで、むずかしい事を知ってると思った。――しかしあの歌は
「憐れでしょうか。私ならあんな歌は
「なるほどつまらないですね。あなたならどうしますか」
「どうするって、訳ないじゃありませんか。ささだ男もささべ男も、
「両方ともですか」
「ええ」
「えらいな」
「えらかあない、当り前ですわ」
「なるほどそれじゃ蚊の国へも、蚤の国へも、飛び込まずに済む訳だ」
「蟹のような思いをしなくっても、生きていられるでしょう」
ほーう、ほけきょうと忘れかけた
ほーう、ほけきょーう。ほーー、ほけっーきょうーと、つづけ
「あれが本当の歌です」と女が余に教えた。
「失礼ですが
「東京と見えるかい」
「見えるかいって、
「東京はどこだか知れるかい」
「そうさね。東京は馬鹿に広いからね。――何でも
「まあそんな見当だろう。よく知ってるな」
「こう
「
「えへへへへ。からっきし、どうも、人間もこうなっちゃ、みじめですぜ」
「何でまたこんな
「ちげえねえ、旦那のおっしゃる通りだ。全く流れ込んだんだからね。すっかり食い詰めっちまって……」
「もとから
「親方じゃねえ、職人さ。え?所かね。所は
「おい、もう少し、
「痛うがすかい。
「我慢は
「我慢しきれねえかね。そんなに痛かあねえはずだが。
やけに頬の肉をつまみ上げた手を、残念そうに放した親方は、
すでに
その上この親方がただの親方ではない。そとから
彼は
最後に彼は酔っ払っている。旦那えと云うたんびに妙な
「
「旦那あ、あんまり見受けねえようだが、何ですかい、近頃来なすったのかい」
「
「へえ、どこにいるんですい」
「
「うん、あすこの御客さんですか。おおかたそんな
「
「あぶねえね」
「何が?」
「何がって。旦那の
「そうかい」
「そうかいどころの
「そうかな」
「
「本家があるのかい」
「本家は岡の上にありまさあ。遊びに行って御覧なさい。景色のいい所ですよ」
「おい、もう一遍
「よく痛くなる
「これから、そうしよう。何なら毎日来てもいい」
「そんなに長く
「どうして」
「旦那あの娘は
「なぜ」
「なぜって、旦那。村のものは、みんな
「そりゃ何かの間違だろう」
「だって、
「おれは大丈夫だが、どんな証拠があるんだい」
「おかしな話しさね。まあゆっくり、
「頭はよそう」
「
親方は
「どうです、好い心持でしょう」
「非常な
「え?こうやると誰でもさっぱりするからね」
「首が抜けそうだよ」
「そんなに
「御嬢さんが、どうとか、したところで頭垢が飛んで、首が抜けそうになったっけ」
「
「その坊主たあ、どの坊主だい」
「
「
「そうか、
「誰が驚ろいたんだい」
「女がさ」
「女が文を受け取って驚ろいたんだね」
「ところが驚ろくような女なら、
「じゃ誰が驚ろいたんだい」
「口説た方がさ」
「口説ないのじゃないか」
「ええ、じれってえ。間違ってらあ。
「それじゃやっぱり女だろう」
「なあに男がさ」
「男なら、その坊主だろう」
「ええ、その坊主がさ」
「坊主がどうして驚ろいたのかい」
「どうしてって、本堂で
「どうかしたのかい」
「そんなに
「へええ」
「
「死んだ?」
「死んだろうと思うのさ。生きちゃいられめえ」
「何とも云えない」
「そうさ、相手が気狂じゃ、死んだって
「なかなか面白い話だ」
「面白いの、面白くないのって、村中大笑いでさあ。ところが当人だけは、
「ちっと気をつけるかね。ははははは」
砂川は二間に足らぬ小橋の下を流れて、浜の方へ春の水をそそぐ。春の水が春の海と出合うあたりには、
この景色とこの親方とはとうてい調和しない。もしこの親方の人格が強烈で
こう考えると、この親方もなかなか
「御免、一つ
と
「
「いんにゃ、
「使に出て、途中で魚なんか、とっていて、了念は感心だって、褒められたのかい」
「若いに似ず了念は、よく遊んで来て感心じゃ云うて、老師が褒められたのよ」
「
「捏ね直すくらいなら、ますこし上手な床屋へ行きます」
「はははは頭は
「腕は鈍いが、酒だけ強いのは
「
「わしが云うたのじゃない。老師が云われたのじゃ。そう怒るまい。
「ヘン、面白くもねえ。――ねえ、旦那」
「ええ?」
「
「痛いがな。そう無茶をしては」
「このくらいな辛抱が出来なくって坊主になれるもんか」
「坊主にはもうなっとるがな」
「まだ
「泰安さんは死にはせんがな」
「死なねえ?はてな。死んだはずだが」
「泰安さんは、その
「何が結構だい。いくら坊主だって、夜逃をして結構な法はあるめえ。
「
「通じねえ、
「
「いくら、和尚さんの
「あの娘さんはえらい女だ。老師がよう
「石段をあがると、何でも
「いやもう少し遊んで行って
「勝手にしろ、口の
「
「何だと?」
青い頭はすでに
夕暮の机に向う。障子も
踏むは地と思えばこそ、裂けはせぬかとの
されど
余は
この
この二種の製作家に
普通の画は感じはなくても物さえあれば出来る。第二の画は物と感じと両立すればできる。第三に至っては存するものはただ心持ちだけであるから、画にするには是非共この心持ちに
惜しい事に
鉛筆を置いて考えた。こんな
たちまち音楽の二字がぴかりと眼に映った。なるほど音楽はかかる時、かかる必要に
次に詩にはなるまいかと、第三の領分に踏み込んで見る。レッシングと云う男は、時間の経過を条件として起る出来事を、詩の本領であるごとく論じて、詩画は不一にして両様なりとの根本義を立てたように記憶するが、そう詩を見ると、今余の発表しようとあせっている
議論はどうでもよい。ラオコーンなどは大概忘れているのだから、よく調べたら、こっちが怪しくなるかも知れない。とにかく、
青春二三月。愁随芳草長。閑花落空庭。素琴横虚堂。蠨蛸掛不動。篆煙繞竹梁。
と云う六句だけ出来た。読み返して見ると、みな画になりそうな句ばかりである。これなら始めから、画にすればよかったと思う。なぜ画よりも詩の方が作り
独坐無隻語。方寸認微光。人間徒多事。此境孰可忘。会得一日静。正知百年忙。遐懐寄何処。緬邈白雲郷。
と出来た。もう
余が眼を転じて、入口を見たときは、奇麗なものが、すでに引き開けた襖の影に半分かくれかけていた。しかもその姿は余が見ぬ前から、動いていたものらしく、はっと思う間に通り越した。余は詩をすてて入口を見守る。
一分と立たぬ間に、影は反対の方から、逆にあらわれて来た。
女はもとより口も聞かぬ。
この長い振袖を着て、長い廊下を何度往き何度戻る気か、余には解からぬ。いつ頃からこの不思議な
暮れんとする春の色の、
またこう感じた。うつくしき人が、うつくしき眠りについて、その眠りから、さめる暇もなく、
寒い。
三畳へ着物を脱いで、段々を、四つ下りると、八畳ほどな風呂場へ出る。石に不自由せぬ国と見えて、下は
すぽりと
秋の霧は冷やかに、たなびく
余は
湯のなかに浮いたまま、今度は
雨が降ったら
土のしたでは暗かろう。
浮かば波の上、
沈まば波の底、
春の水なら苦はなかろ。
と口のうちで小声に
小供の時分、門前に
御倉さんはもう赤い
三本の松はいまだに
誰か来たなと、身を浮かしたまま、視線だけを入口に
やがて階段の上に何物かあらわれた。広い風呂場を
黒いものが一歩を下へ移した。踏む石は
注意をしたものか、せぬものかと、浮きながら考える間に、女の影は
古代
今余が面前に
室を
しかもこの姿は普通の裸体のごとく露骨に、余が眼の前に突きつけられてはおらぬ。すべてのものを幽玄に化する一種の
輪廓は次第に白く浮きあがる。今一歩を踏み出せば、せっかくの
御茶の
老人の部屋は、余が
和尚は虎の皮の上へ坐った。虎の皮の尻尾が余の
「
「いや、
「この
老人は
「こんな
「はああ」となんともかとも要領を得ぬ返事をする。
「なんの、和尚さん。このかたは
「おお
「いいえ」と今度は答えた。西洋画だなどと云っても、この和尚にはわかるまい。
「いや、例の西洋画じゃ」と老人は、主人役に、また半分引き受けてくれる。
「ははあ、洋画か。すると、あの
「いえ、詰らんものです」と若い男がこの時ようやく口を開いた。
「御前何ぞ和尚さんに見ていただいたか」と老人が若い男に聞く。言葉から云うても、様子から云うても、どうも親類らしい。
「なあに、見ていただいたんじゃないですが、
「ふん、そうか――さあ御茶が
「
「これは面白い」と余も簡単に
「杢兵衛はどうも
取り上げて、
老人はいつの間にやら、
「御客さんが、
「どの青磁を――うん、あの菓子鉢かな。あれは、わしも
かいてくれなら、かかぬ事もないが、この
「襖には向かないでしょう」
「向かんかな。そうさな、この
「私のは駄目です。あれはまるでいたずらです」と若い男はしきりに、
「その何とか云う池はどこにあるんですか」と余は若い男に念のため尋ねて置く。
「ちょっと観海寺の裏の谷の所で、
「観海寺と云うと……」
「観海寺と云うと、わしのいる所じゃ。いい所じゃ、海を
「いつか御邪魔に
「ああいいとも、いつでもいる。ここの御嬢さんも、よう、来られる。――御嬢さんと云えば今日は
「どこぞへ出ましたかな、
「いいや、見えません」
「また
「どうも、……」と老人は
老人が
「和尚さん、あなたには、御目に
「なんじゃ、一体」
「
「へえ、どんな硯かい」
「
「いいえ、そりゃまだ見ん」
「
「そりゃ、まだのようだ。どれどれ」
老人は大事そうに緞子の袋の口を解くと、
「いい
「端渓で
「九つ?」と和尚
「これが春水の替え蓋」と老人は
「なるほど。春水はようかく。ようかくが、
「やはり杏坪の方がいいかな」
「
「ハハハハ。
「ほんに」と和尚さんは
「
「徂徠もあまり、御好きでないかも知れんが、山陽よりは善かろうと思うて」
「それは徂徠の方が
「
「わしは知らん。そう
「時に和尚さんは、誰を習われたのかな」
「わしか。
「しかし、誰ぞ習われたろう」
「若い時に
とうとう
「この蓋が」と老人が云う。「この蓋が、ただの蓋ではないので、御覧の通り、松の皮には相違ないが……」
老人の眼は余の方を見ている。しかし松の皮の蓋にいかなる
「松の蓋は少し俗ですな」
と云った。老人はまあと云わぬばかりに手を
「ただ松の蓋と云うばかりでは、俗でもあるが、これはその何ですよ。
なるほど
「どうせ、自分で作るなら、もっと不器用に作れそうなものですな。わざとこの
「ワハハハハ。そうよ、この
若い男は気の毒そうに、老人の顔を見る。老人は少々不機嫌の
もしこの硯について人の眼を
老人は
「この
なるほど見れば見るほどいい色だ。寒く
「なるほど結構です。
「
「分りゃしません」と打ち
「隠居さん、どうもこの色が実に
「いいや、
「そうじゃろ。こないなのは
「
「わしも一つ欲しいものじゃ。何なら久一さんに頼もうか。どうかな、買うて来ておくれかな」
「へへへへ。
「本当に硯どころではないな。時にいつ御立ちか」
「
「隠居さん。吉田まで送って御やり」
「普段なら、年は取っとるし、まあ
「
若い男はこの老人の
「なあに、送って貰うがいい。
「はい、
若い男は今度は別に辞退もしない。ただ黙っている。
「支那の方へおいでですか」と余はちょっと聞いて見た。
「ええ」
ええの二字では少し物足らなかったが、その上掘って聞く必要もないから
「なあに、あなた。やはり今度の戦争で――これがもと志願兵をやったものだから、それで召集されたので」
老人は当人に代って、満洲の
「御勉強ですか」と女が云う。部屋に帰った余は、
「
女は遠慮する
「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」
「なあに」
「じゃ何が書いてあるんです」
「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」
「ホホホホ。それで御勉強なの」
「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう
「それで面白いんですか」
「それが面白いんです」
「なぜ?」
「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」
「よっぽど変っていらっしゃるのね」
「ええ、ちっと変ってます」
「初から読んじゃ、どうして悪るいでしょう」
「初から読まなけりゃならないとすると、しまいまで読まなけりゃならない訳になりましょう」
「妙な
「無論わるくは、ありませんよ。筋を読む気なら、わたしだって、そうします」
「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋のほかに何か読むものがありますか」
余は、やはり女だなと思った。多少試験してやる気になる。
「あなたは小説が好きですか」
「私が?」と句を切った女は、あとから「そうですねえ」と
「好きだか、
「小説なんか読んだって、読まなくったって……」
と眼中にはまるで小説の存在を認めていない。
「それじゃ、初から読んだって、しまいから読んだって、いい加減な所をいい加減に読んだって、いい訳じゃありませんか。あなたのようにそう不思議がらないでもいいでしょう」
「だって、あなたと私とは違いますもの」
「どこが?」と余は女の眼の
「ホホホホ解りませんか」
「しかし若いうちは随分御読みなすったろう」余は一本道で押し合うのをやめにして、ちょっと裏へ廻った。
「今でも若いつもりですよ。
「そんな事が男の前で云えれば、もう年寄のうちですよ」と、やっと引き戻した。
「そう云うあなたも随分の御年じゃあ、ありませんか。そんなに年をとっても、やっぱり、
「ええ、面白いんです、死ぬまで面白いんです」
「おやそう。それだから
「全くです。画工だから、小説なんか初からしまいまで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。ここへ
「すると
「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、
「なるほど面白そうね。じゃ、今あなたが読んでいらっしゃる所を、少し話してちょうだい。どんな面白い事が出てくるか伺いたいから」
「話しちゃ駄目です。
「ホホホそれじゃ読んで下さい」
「英語でですか」
「いいえ日本語で」
「英語を日本語で読むのはつらいな」
「いいじゃありませんか、非人情で」
これも
「
「よござんすとも。御都合次第で、
「女は男とならんで
「ドージとは何です」
「何だって構やしません。
「それでその男と女と云うのは誰の事なんでしょう」
「誰だか、わたしにも分らないんだ。それだから面白いのですよ。今までの関係なんかどうでもいいでさあ。ただあなたとわたしのように、こういっしょにいるところなんで、その場限りで面白味があるでしょう」
「そんなものですかね。何だか船の中のようですね」
「船でも岡でも、かいてある通りでいいんです。なぜと聞き出すと
「ホホホホじゃ聴きますまい」
「普通の小説はみんな探偵が発明したものですよ。非人情なところがないから、ちっとも
「じゃ非人情の続きを伺いましょう。それから?」
「ヴェニスは沈みつつ、沈みつつ、ただ空に引く
「あんまり非人情でもないようですね」
「なにこれが非人情的に聞けるのですよ。しかし
「なに私は大丈夫ですよ」
「わたしは、あなたよりなお大丈夫です。――それからと、ええと、少しく
「読みにくければ、
「ええ、いい加減にやりましょう。――この
「女が云うんですか、男が云うんですか」
「男が云うんですよ。何でも女がヴェニスへ帰りたくないのでしょう。それで男が慰める
「女は?」
「女は路に迷いながら、いずこに迷えるかを知らぬ
「動詞なんぞいるものですか、それで沢山です」
「え?」
「雉子が」と余は窓の外を見て云う。
「どこに」と女は崩した、からだを
「非人情ですよ」と女はたちまち
「無論」と
岩の
「こいつは愉快だ。
「人間もそう云う風にさえ動いていれば、いくら動いても大丈夫ですね」
「非人情でなくっちゃ、こうは動けませんよ」
「ホホホホ大変非人情が御好きだこと」
「あなた、だって
「何か
「なぜです」
「見たいとおっしゃったから、わざわざ、見せて上げたんじゃありませんか」
「わたしがですか」
「
余は何と答えてよいやらちょっと
「そんな忘れっぽい人に、いくら
「じゃ
女は黙っている。
「どうも済みません。御礼に何を上げましょう」と出来るだけ先へ出て置く。いくら出ても何の
「
と口のうちで静かに読み
「何ですって」
と、わざと大きな声で聞いた。その手は喰わない。
「その坊主にさっき
「
「西洋画で
「それだから、あんなに肥れるんでしょう」
「それから、もう一人若い人に逢いましたよ。……」
「
「ええ久一君です」
「よく御存じです事」
「なに久一君だけ知ってるんです。そのほかには何にも知りゃしません。口を聞くのが
「なに、遠慮しているんです。まだ小供ですから……」
「小供って、あなたと同じくらいじゃありませんか」
「ホホホホそうですか。あれは
「ここに
「いいえ、兄の
「じゃ、わざわざ御茶を飲みに来た訳ですね」
「御茶より
「あなたはどこへいらしったんです。
「ええ鏡の池の方を廻って来ました」
「その鏡の池へ、わたしも行きたいんだが……」
「行って御覧なさい」
「
「身を投げるに好い所です」
「身はまだなかなか投げないつもりです」
「私は
余りに女としては思い切った
「私が身を投げて浮いているところを――苦しんで浮いてるところじゃないんです――やすやすと往生して浮いているところを――奇麗な画にかいて下さい」
「え?」
「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでしょう」
女はすらりと立ち上る。三歩にして尽くる部屋の入口を出るとき、
鏡が池へ来て見る。観海寺の裏道の、杉の間から谷へ降りて、向うの山へ登らぬうちに、路は
池をめぐりては
日本の菫は眠っている感じである。「
余は草を
何だか
眼の届く所はさまで深そうにもない。底には細長い
余は立ち上がって、草の中から、手頃の石を二つ拾って来る。
今度は思い切って、懸命に
二間余りを
見ていると、ぽたり赤い奴が水の上に落ちた。静かな春に動いたものはただこの一輪である。しばらくするとまたぽたり落ちた。あの花は決して散らない。
こんな所へ美しい女の浮いているところをかいたら、どうだろうと思いながら、元の所へ帰って、また煙草を
がさりがさりと足音がする。
「よい御天気で」と
「
「ああ。この池でも
「はあい。まことに山の中で……旦那あ、
「え?うん
「はあい。こうやって
「あんな所を毎日越すなあ大変だね」
「なあに、馴れていますから――それに毎日は越しません。
「四日に一
「アハハハハ。馬が
「そりゃあ、どうも。自分より馬の方が大事なんだね。ハハハハ」
「それほどでもないんで……」
「時にこの池はよほど古いもんだね。全体いつ頃からあるんだい」
「昔からありますよ」
「昔から?どのくらい昔から?」
「なんでもよっぽど古い昔から」
「よっぽど古い昔しからか。なるほど」
「なんでも昔し、
「志保田って、あの
「はあい」
「御嬢さんが身を投げたって、現に達者でいるじゃないか」
「いんにえ。あの嬢さまじゃない。ずっと昔の嬢様が」
「ずっと昔の嬢様。いつ頃かね、それは」
「なんでも、よほど昔しの嬢様で……」
「その昔の嬢様が、どうしてまた身を投げたんだい」
「その嬢様は、やはり今の嬢様のように美しい嬢様であったそうながな、旦那様」
「うん」
「すると、ある日、
「梵論字と云うと
「はあい。あの尺八を吹く梵論字の事でござんす。その梵論字が志保田の
「泣きました。ふうん」
「ところが庄屋どのが、聞き入れません。梵論字は
「その
「はあい。そこで嬢様が、梵論字のあとを追うてここまで来て、――あの向うに見える松の所から、身を投げて、――とうとう、えらい騒ぎになりました。その時何でも一枚の鏡を持っていたとか申し伝えておりますよ。それでこの池を今でも鏡が池と申しまする」
「へええ。じゃ、もう身を投げたものがあるんだね」
「まことに
「何代くらい前の事かい。それは」
「なんでもよっぽど昔の事でござんすそうな。それから――これはここ限りの話だが、旦那さん」
「何だい」
「あの志保田の家には、
「へええ」
「全く
「ハハハハそんな事はなかろう」
「ござんせんかな。しかしあの
「うちにいるのかい」
「いいえ、去年
「ふん」と余は煙草の
一丈余りの
奇体なもので、影だけ
余が視線は、
余は覚えず飛び上った。女はひらりと身をひねる。帯の間に椿の花の如く赤いものが、ちらついたと思ったら、すでに向うへ飛び下りた。夕日は
また驚かされた。
トリストラム・シャンデーと云う書物のなかに、この書物ほど神の
石段を登るにも骨を折っては登らない。骨が折れるくらいなら、すぐ引き返す。一段登って
石段の上で思い出す。昔し鎌倉へ遊びに行って、いわゆる
世の中はしつこい、毒々しい、こせこせした、その上ずうずうしい、いやな
こうやって、美しい春の夜に、何らの方針も立てずに、あるいてるのは実際高尚だ。興
石を
近寄って見ると大きな
木蓮の花ばかりなる空を
と云う句を得た。どこやらで、鳩がやさしく鳴き合うている。
庫裏に入る。庫裏は明け放してある。
「御免」
と
「頼む」
と案内を乞う。鳩の声がくううくううと聞える。
「頼みまああす」と大きな声を出す。
「おおおおおおお」と遥かの
「
「おられる。何しにござった」
「温泉にいる
「画工さんか。それじゃ
「断わらないでもいいのかい」
「よろしかろ」
余は下駄を脱いで上がる。
「行儀がわるい画工さんじゃな」
「なぜ」
「下駄を、よう
「そおら。読めたろ。
「なるほど」と余は自分の下駄を丁寧に揃える。
和尚の
「あのう、
「そうか、これへ」
余は了念と入れ代る。室がすこぶる狭い。中に
「さあこれへ」と
「了念。りょううねええん」
「ははははい」
「
「はははははい」と了念は遠くで、長い返事をする。
「よう、来られた。さぞ退屈だろ」
「あまり月がいいから、ぶらぶら来ました」
「いい月じゃな」と障子をあける。飛び石が二つ、松一本のほかには何もない、
「これはいい景色。
「そうよ。しかし毎晩見ているからな」
「
「ハハハハ。もっともあなたは
「和尚さんだって、うつくしいと思ってるうちは画工でさあ」
「なるほどそれもそうじゃろ。わしも
なるほど達磨の画が小さい
「無邪気な画ですね」
「わしらのかく画はそれで沢山じゃ。
「上手で俗気があるのより、いいです」
「ははははまあ、そうでも、
「画工の博士はありませんよ」
「あ、そうか。この間、何でも博士に一人
「へええ」
「博士と云うとえらいものじゃろな」
「ええ。えらいんでしょう」
「画工にも博士がありそうなものじゃがな。なぜ無いだろう」
「そういえば、和尚さんの方にも博士がなけりゃならないでしょう」
「ハハハハまあ、そんなものかな。――何とか云う人じゃったて、この間逢うた人は――どこぞに名刺があるはずだが……」
「どこで御逢いです、東京ですか」
「いやここで、東京へは、も二十年も出ん。近頃は電車とか云うものが出来たそうじゃが、ちょっと乗って見たいような気がする」
「つまらんものですよ。やかましくって」
「そうかな。
「困りゃしませんがね。つまらんですよ」
「そうかな」
「番茶を一つ
「いえ結構です」
「あなたは、そうやって、方々あるくように見受けるがやはり
「ええ。道具だけは持ってあるきますが、画はかかないでも構わないんです」
「はあ、それじゃ遊び半分かの」
「そうですね。そう云っても
さすがの禅僧も、この語だけは
「屁の勘定た何かな」
「東京に永くいると屁の勘定をされますよ」
「どうして」
「ハハハハハ勘定だけならいいですが。人の屁を分析して、
「はあ、やはり衛生の方かな」
「衛生じゃありません。
「探偵?なるほど、それじゃ警察じゃの。いったい警察の、巡査のて、何の役に立つかの。なけりゃならんかいの」
「そうですね、
「わしにも入らんがな。わしはまだ巡査の
「そうでしょう」
「しかし、いくら警察が屁の勘定をしたてて、構わんがな。
「屁くらいで、どうかされちゃたまりません」
「わしが小坊主のとき、先代がよう云われた。人間は日本橋の真中に
「画工になり澄ませば、いつでもそうなれます」
「それじゃ画工になり澄したらよかろ」
「屁の勘定をされちゃ、なり切れませんよ」
「ハハハハ。それ御覧。あの、あなたの
「へええ、どうもただの女じゃないと思いました」
「いやなかなか
静かな庭に、松の影が落ちる、遠くの海は、空の光りに
「あの松の影を御覧」
「
「ただ奇麗かな」
「ええ」
「奇麗な上に、風が吹いても苦にしない」
茶碗に余った渋茶を飲み干して、
「門まで送ってあげよう。りょううねええん。御客が
送られて、
「鳩ほど可愛いものはない、わしが、手をたたくと、みな飛んでくる。呼んで見よか」
月はいよいよ明るい。しんしんとして、
「下りんかいな。下りそうなものじゃが」
了念は余の顔を見て、ちょっと笑った。和尚は鳩の眼が夜でも見えると思うているらしい。気楽なものだ。
山門の所で、余は二人に別れる。見返えると、大きな丸い影と、小さな丸い影が、
余は常に空気と、物象と、彩色の関係を
個人の
門を出て、左へ切れると、すぐ
あの女を役者にしたら、立派な
あの女の
こんな
芝居気があると人の行為を笑う事がある。うつくしき趣味を
余は画工である。画工であればこそ趣味専門の男として、たとい人情世界に
しばらく人情界を離れたる余は、少なくともこの
三丁ほど
どこへ腰を
海は足の下に光る。遮ぎる雲の
ごろりと
小供のうち花の咲いた、葉のついた
寝ながら考える。一句を得るごとに写生帖に
出門多所思。春風吹吾衣。芳草生車轍。廃道入霞微。停笻而矚目。万象帯晴暉。聴黄鳥宛転。観落英紛霏。行尽平蕪遠。題詩古寺扉。孤愁高雲際。大空断鴻帰。寸心何窈窕。縹緲忘是非。三十我欲老。韶光猶依々。逍遥随物化。悠然対芬菲。
ああ出来た、出来た。これで出来た。寝ながら木瓜を
茶の
男は
余はこの
二人は
男は無論例の
余は那美さんの姿を見た時、すぐ今朝の短刀を連想した。もしや
男女は向き合うたまま、しばらくは、同じ態度で立っている。動く
山では
するりと抜け出たのは、九寸五分かと思いのほか、
片足を前に、腰から上を少しそらして、差し出した、白い
紫でちょっと切れた図面が、二三寸の間隔をとって、振り返る男の
二人の姿勢がかくのごとく
男は手を出して財布を受け取る。引きつ引かれつ
二人は左右へ分かれる。双方に
「先生、先生」
と
「何です」
と余は
「何をそんな所でしていらっしゃる」
「詩を作って
「うそをおっしゃい。今のを御覧でしょう」
「今の?今の、あれですか。ええ。少々拝見しました」
「ホホホホ少々でなくても、たくさん御覧なさればいいのに」
「実のところはたくさん拝見しました」
「それ御覧なさい。まあちょっと、こっちへ出ていらっしゃい。木瓜の中から出ていらっしゃい」
余は
「まだ木瓜の中に御用があるんですか」
「もう無いんです。帰ろうかとも思うんです」
「それじゃごいっしょに参りましょうか」
「ええ」
余は再び唯々として、木瓜の中に
「画を御描きになったの」
「やめました」
「ここへいらしって、まだ一枚も御描きなさらないじゃありませんか」
「ええ」
「でもせっかく画をかきにいらしって、ちっとも御かきなさらなくっちゃ、つまりませんわね」
「なにつまってるんです」
「おやそう。なぜ?」
「なぜでも、ちゃんとつまるんです。画なんぞ
「そりゃ
「こんな所へくるからには、呑気にでもしなくっちゃ、来た
「なあにどこにいても、呑気にしなくっちゃ、生きている甲斐はありませんよ。私なんぞは、今のようなところを人に見られても
「思わんでもいいでしょう」
「そうですかね。あなたは今の男をいったい何だと御思いです」
「そうさな。どうもあまり、金持ちじゃありませんね」
「ホホホ
「へえ、どこから来たのです」
「
「随分遠方から来たもんですね。それで、どこへ行くんですか」
「何でも満洲へ行くそうです」
「何しに行くんですか」
「何しに行くんですか。御金を拾いに行くんだか、死にに行くんだか、分りません」
この時余は眼をあげて、ちょと女の顔を見た。今結んだ口元には、
「あれは、わたくしの亭主です」
「どうです、驚ろいたでしょう」と女が云う。
「ええ、少々驚ろいた」
「今の亭主じゃありません、
「なるほど、それで……」
「それぎりです」
「そうですか。――あの
「あれが兄の家です。帰り路にちょっと寄って、行きましょう」
「用でもあるんですか」
「ええちっと頼まれものがあります」
「いっしょに行きましょう」
女はすぐ、
「いい景色だ。御覧なさい」
「なるほど、いいですな」
障子のうちは、静かに人の
しまいには話もないから、両方共無言のままで蜜柑畠を見下している。
「おやもう。
女は
「久一さん」
「そら
帯の間に、いつ手が
御招伴でも呼ばれれば行く。何の意味だか分らなくても行く。非人情の旅に思慮は入らぬ。舟は
「久一さん、
「出て見なければ分らんさ。苦しい事もあるだろうが、愉快な事も出て来るんだろう」と戦争を知らぬ久一さんが云う。
「いくら苦しくっても、国家のためだから」と老人が云う。
「短刀なんぞ貰うと、ちょっと戦争に出て見たくなりゃしないか」と女がまた妙な事を聞く。久一さんは、
「そうさね」
と
「そんな平気な事で、
「那美さんが軍人になったらさぞ強かろう」兄さんが妹に話しかけた第一の言葉はこれである。語調から察すると、ただの
「わたしが?わたしが軍人?わたしが軍人になれりゃとうになっています。今頃は死んでいます。久一さん。御前も死ぬがいい。生きて帰っちゃ
「そんな乱暴な事を――まあまあ、めでたく
老人の言葉の尾を長く
岸には大きな柳がある。下に小さな舟を
舟は面白いほどやすらかに流れる。左右の岸には
柳と柳の間に
「先生、わたくしの
「書いてあげましょう」と写生帖を取り出して、
春風にそら
と書いて見せる。女は笑いながら、
「こんな
「わたしもかきたいのだが。どうも、あなたの顔はそれだけじゃ
「
「なに今でも画に出来ますがね。ただ少し足りないところがある。それが出ないところをかくと、惜しいですよ」
「足りないたって、持って生れた顔だから仕方がありませんわ」
「持って生れた顔はいろいろになるものです」
「自分の勝手にですか」
「ええ」
「女だと思って、人をたんと馬鹿になさい」
「あなたが女だから、そんな馬鹿を云うのですよ」
「それじゃ、あなたの顔をいろいろにして見せてちょうだい」
「これほど毎日いろいろになってればたくさんだ」
女は黙って
「あの山の向うを、あなたは越していらしった」と女が白い手を
「
「あの
「あの日影の所ですか」
「日影ですかしら。
「なあに
「そうでしょうか。ともかく、あの裏あたりになるそうです」
「そうすると、
「七曲りは、向うへ、ずっと
「なるほどそうだった。しかし見当から云うと、あのうすい雲が
「ええ、方角はあの
居眠をしていた老人は、
「まだ着かんかな」
「どうもこれが癖で、……」
「弓が
「若いうちは七分五厘まで引きました。
舟はようやく町らしいなかへ
いよいよ現実世界へ引きずり出された。汽車の見える所を現実世界と云う。汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて
向うの
「やっぱり駄目かね」
「駄目さあ」
「牛のように胃袋が二つあると、いいなあ」
「二つあれば申し分はなえさ、一つが
この
じゃらんじゃらんと
「さあ、行きましょ」と那美さんが立つ。
「どうれ」と老人も立つ。一行は
「いよいよ御別かれか」と老人が云う。
「それでは
「死んで
「荷物は来たかい」と兄さんが聞く。
蛇は
車輪が一つ廻れば久一さんはすでに吾らが世の人ではない。遠い、遠い世界へ行ってしまう。その世界では
車掌が、ぴしゃりぴしゃりと戸を
「あぶない。出ますよ」と云う声の下から、
茶色のはげた中折帽の下から、
「それだ!それだ!それが出れば
質問と回答